この科目は深く建築デザインについて考えなければならない所がキツい。
(以下、どの参考資料にも書かれていない内容なので注意。記事掲載後に追加編集します、たぶん。そして記事が長い事を覚悟すべし。)
1.視覚化
デザイン手法として「視覚化」を使う意味は何だろう。
a.芸術的意味合い
見る者へのインパクトを意識している。
b.見せる事自体が機能
人を誘導したり、機能を見せたりする目的がある。
c.見えてしまう(消極的)
内部を広くしたいので設備が外に出てしまった場合など。
d.上記の複合
例えば構造を視覚化して見せたいと思ったとする。
構造を見せるには構造を見えるところまで引っ張り出して来るか、壁を透明にしてしまう必要がある。見せたい物を見せるのには、全体や隣にある別のパーツをどうにかしなければならないって事だ。
柱「なんだよ下水管、目立たなきゃならないのはオレだろう。何でお前が出て来るんだよ。」
パイプ「仕方ないだろ。お前を目立たせるために壁が消えたんだから。オレまで消えるわけに行かないだろ。中に流れるウンコが丸見えになっちゃうとお前までカッコ悪いぞ。」
映倫「大丈夫、私がパイプさんを黒塗りしておきます。ご安心下さい、モザイクじゃありませんから。」
視覚化すると見せたくないものまで見えるようになってしまったりする。今まで表面だと思っていたものが表面じゃなくなって中にある椅子とか便器とか配水管とかもともと表面じゃないものが表面に出てくることもある。だから部分によってテイストが異なってしまったり表面が煩雑になってしまったり、そんな弊害が出る。
2.文節・分割と言うデザイン手法
省略
(テキストのp37「フィッシャー邸」のところで「暖炉が...偶発的な角度で」と書かれているが、こう言う情緒的記述は止めて欲しいものだ。暖炉の事なんか何も分かっていないくせに。)
3.環境との調和と不調和
イタリー車のデザインはラインを調和させるのが上手いと思うが、
アルファロメオなどはどう見ても調和から外れたラインを1本だけ入れる事がある。全てのラインを溶け込ませて全体の美しさを見せると言う通常のやり方でなく、破綻した1本をアクセントにする事で全体を個性あるものにする手法だと考えられる。
意味も不調和
日本の伝統的な住居のスタイルは開放的なものが多い。伝統的集合住宅のような、つまり長屋などでは1つの住居としては構造的にも不完全であるし、そこに住んでいる1家族だけで生活は成り立たない。簡単に言ってしまうと助け合ったりしながら成立している。これは形がそうさせたのか、それが良くて形が決まったのか議論の余地はありそうだが。
そう言う場所に閉鎖的な(鉄の扉で区切られたマンションのようなスタイルの)家を入れてしまったらどうか? 伝統的なやり方は成立しなくなる。しかし、現代的な生活スタイルにコンバージョンしたと言えばそれはそうなのかも知れないが。
自然を認識しているか?
日本人は東京湾を自然の一部である海として認識しているか? 最近はだいぶきれいになったとは言え、やっぱり東京湾岸は工場地帯、荷物の発着所、埋立地であってそれは自然の一部ではなくて都市機能の一部なのではなかろうか。お台場には有名建築家による作品があるし、横浜MM21にはヨットの帆のようなホテルがある。あれは東京湾を自然と認識した上での形なのか。それとも埋立地におけるビジネスセンターや港湾施設(それが観光地であっても)を意識した調和なのだとしたら、自然にではなく人間の営みとか欲望への調和ではないのか。それとも無意識に人工と自然をダブらせて(勘違いして)いないのか。
4.浮遊
空を飛ぶのは、地上で直立歩行する人間の夢である。
本当に飛んだら危ない感じもする。日常の感覚に合っていないんじゃないか。
5.象徴
建築の耐用年数は数十年~(うまくいって)数百年である。
よって建築はどうしても歴史の一部となるものではなかろうか。とすれば建築は、これからの人間が目指す方向を指し示す物であると同時に現在までのマイルストーンではないのか。
靖国神社は何の象徴なのだろう。
それが造られた時と現在では象徴するものが変わってしまったとも言われる。過去の何かを持ってきて現在の解釈で象徴とするのは危険だろうか。
中国の神様はほとんど実在の人間だ。当時は将軍だったり参謀だったり何がしかの働きをした人が亡くなって今は神として廟に祭られる。廟は神社じゃなくてお墓だ。たぶん当時は評価されていなくても、途中の時代にお話になり劇になりで次第に神格化が進んだ人も多いんじゃないだろうか。それを権力者が取り上げる事がナショナリズムの気運を盛り上げ、国の統治に役立ったかもしれない。中国では今でも亡くなった政治家を再評価して神格化する事が多い。自国の営みの中であれは間違った歴史だとは言いたくないのだろう。もちろん中国ばかりではない。
6.囲む
日本の現代の建築物は外界ときっちり分けるように扉が閉まる。中で誰かが死んでいても数ヶ月間気づかないこともある。昔の家は(30年以上前)縁側があって道を誰かが歩くとお互いに眼が合って挨拶するほどだった。覗こうと思わなくても中のちゃぶ台まで見えていたりしたし、声がして出てみると誰かがうちの縁側に座ってまっていたりもしたものだ。
それがいつの間にか敷地の境に安いコンクリートブロックの塀を立てたり、表から見るとコンクリートの壁にしか見えないような家、柔らかなピンク色の壁と洋風の小さな玄関ドアと車が入る穴のような部分しか露出していない家ばかりが建つようになった。
こんなに変わっても、日本人の男性は家に帰っても「○○会社の△△さん」だし、女性は「××ちゃんのママ」だったりする。家と街は壁で囲まれても心の中の境目はグラデーションなのだろうか。
7.建築への街や自然の導入
人間は人工的に作り出した街や自然の中でも、自然にできたそれと同じような行動をするのだろうか。そうであればその行動パターンを建築の中に再現することで建築は何かを得るだろうか?
街にはいろいろな人がいる。あたりまえだ。街が建築に導入されればそのいろいろな人々が建築に入って行くだろう。でも建築は意図的に作られるもので、プランの中には使う人を想定していたりする。建築の中の人工街の入り口でパスポート、銀行口座の有無、その他の入場資格の有無などを確認したらそれは街ではなくなってディズニーランドになるだろう。
建築に自然を導入したら虫も入って来る。夏は蚊に刺されるかもしれない。そんな所には絶対に行かないだろう。でも蛍だったら許す。建築に自然を導入すると言ってもそれは人間に都合の良いところだけで、完全な自然ではダメだろう。自然との共存を願っても街にクマが歩いていたら困る。人間はかなり自分勝手な動物だ。
共通して言えるのはコントロールできない無秩序を導入してしまうリスクがあると言う事だろうか。
フロアの端から端まで行くのにバスが必要なほどの工場で働いた事がある。そう言う建物の中に入ると自分の向いている方向もポジションも全然わからない。仕舞には時刻もわからなくなってしまう。工場だから街でのように人が歩いているわけではない。
それだけでとても不安に感じるものだ。
人間は群れや自然から離れては生きられない、それは本当かもしれない。
知り合いではなくても周りの人間の様子を見て自分の立場を決めたり、自然を見て心を落ち着けたりしているのだろう。建築は人工のもので、その奥に入るほどあまりに機能的で人工的で恣意的すぎるのだろう。籠に入れられた虫のように弱々しいものになってしまう。
だから適当な距離のところに群れがあり、自然がある事が必要なのだろう。
8.拒絶
拒絶することで外部の何かから内部の営みを守ることができるが、反対に外部との交流を無視して生活することになるし、内部で起こったトラブルから逃げ場も失う可能性があるだろう。周辺環境との共存は不要だろうか? 入り口が狭い=出口も狭い。
9.装う
「装う」意味は何か?
a.同化
b.異化
(c.その両方)
外壁を立てる事は同時にその内側空間を規定することになる。装いはそれにより内部空間と対立しないか? また装う事は偽者を作らないだろうか? 何かのスタイルを選ぶと言う事は、他を捨てることになるが、一部の歴史を肯定しながら別の歴史を否定してしまわないだろうか? 同化する事は公共性や社会性重視の態度であるが、新しい活力を殺してしまわないだろうか?
10.形から入るか?
テニスを始めるのに衣装選びから入っても上手くならないかもしれない。
兵隊「隊長、足が痛くてこれ以上進めません。」
隊長「馬鹿者、皇国臣民一億総火の玉となって闘っておる時に、キサマ何を言っておるか。足に靴を合わせるのでなく、靴に足を合わせろ!」
街や都市はいったい何のためのものか。
もし中国だったら「国家の威信を示すもの」であるかも知れないが、日本はどうだ?
最近の賃貸住宅のチラシには「近くにコンビニあり」と書いてある。コンビニはうちの冷蔵庫や物入れと繋がっている。銀行はお財布と繋がっていて、最近ではその途中に携帯電話やプラスチックのカードが介在する事もある。公園は庭で、家のテレビは電波を通じていろいろな場所と繋がっている。インターネットも同じ。
そう考えると街も都市も家も、家の中身も同じ目的のもののようだ。
だったらそれらを作るのにどこから手をつける?
動物園のオランウータンは毛が長いし地面に座る。自然の中でのように枝で毛が擦り切れることもなければ、伝って渡れるだけの密度で木が生えているわけでもない。オランウータンは地上30cmの高さでも木につかまっているものだ。動物園は人に見せるための形態をしているがオランウータンの生活のスタイルを反映しているものではない。