まことちゃんハウスの件で「東京地裁、工事差し止めの仮処分の申し立てを却下(071012)」のニュースが報じられた。
一戸建て住宅の並ぶ街で今後お互いにどう言った付き合い方をしながら生活されるのだろうなあ、と思う。目と鼻の先に気に食わないご近所さんが居て、ゴミを出しに出たり買い物に出る時に挨拶もなしでずっと快適に生活できるものだろうか。
考えてみれば、都会ではそれが普通なのだ。隣にどんな人が生きているか、死んでいるかもわからないマンションに住む。新しい住宅街であれば知らない所から移り住んだ人々がそれぞれ何の関係も関わりもなく偶然そこにいるだけと言うことは普通にある。
そもそも現在の都市は無関係な人間が何かの都合で勝手に集まってできたものだ。田舎の地縁を捨てて都会の生活を選んだ。鉄のドアで仕切られた家の内部には核家族のみで半ば完結した生活を成立させる事の方を選んできたのだから。
そこには田舎にあった地縁血縁は無いし地域のルールも無い。だから面倒臭くないし、ある意味快適であったと思う。しかしその代わりに必要になったのが、警察組織や法などと言った物であろう。何か問題が出る毎に法や条例を多く作ってきた。それらは複雑過ぎて専門家にしかわからないほどに多くある。道路には車や人をいちいち細かく規制しようとする信号や標識がニョキニョキ立っている。昔小学校の壁に「廊下を走ってはいけません」とつまらない張り紙がしてあったが、それと似ている。
日本ではよく親が子に向って「xxxしちゃダメ」と叫んでいるのを目にする。(「日本では」と言うのは他の国ではほとんど見ないと言う意味)日本の教育は、実は「xxxしちゃダメ」しか無いのではないだろうか。だから大人になってもそう言う発想でしか世の中を制御できない。まことちゃんハウスの様な事例を受けて各地でやっと景観条例ができて、「家のxxxな外観はダメ」みたいになるのだろうか。
アメリカの映画を見てうらやましく思うことがある。
子供に見せる「スパイダーマン」のようなものでも、人間としての理想像の1つを提示している。アメリカでは「xxxしちゃダメ」と言うネガティブな方向ばかりでなく、こうなったら「カッコいい」と言う像を子供に示す事ができるのである。(だからと言ってアメリカが全てうまく行っているのではない。あちらの方が犯罪が多いのも事実だから。)
これは大人にそのカッコいい理想像があるからできる事ではないだろうか。マイケル・ムーアのような変った映画監督がいるが、彼の生き方はやっぱり1つのやり方として「カッコいい」のである。
振り返って我ら日本人にはそういった理想像が無い。ホリエモンのようなやり方がカッコいいと言われる時代があったが、あれは日本人の理想像であったか。個人の利益を追求する事は悪いことではないし、他の多くの日本人がストイックであるすぎたと言う意味で見習うべきところはあっただろう。しかし、理想像ではあり得なかった。
学校では個人の成績が良いことが評価される。しかし友達の成績を良くする手助けができたり、グループで何かを成し遂げたことはほとんど評価されない。受験には役立たないからだ。これで日本人はどんな人間になるべきだと言うのだろう。年金着服、賄賂、生活残業、自分のためになる何かを皆がやっているだけの人間か。
その意味で、まことちゃんハウスを作った楳図さんもそれを訴えたご近所さんも同じ部類の人間なのだろう。裁判所が結論を出しても、まだ出ない結論があるように思われてならない。
こう言う日本人のために建築は何が提供できるものなのだろうか。
2 件のコメント:
子供の頃に見た怪獣シリーズ
ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブン
これらの番組には、子供ながらに考えさせられるものがあった。
それ以降のウルトラシリーズは、小学生でも単純な怪獣退治もの路線に変わっていったしまったのを漠然とだが感じた。
大人になり、円谷プロについてや脚本家の市川新などの背景を知るうちに、子供時代にうまく理解出来なかった事が分かったきた。
子供の漠然とした直感も捨てたもんじゃないと思います。
たとえ怪獣番組でも真摯な作り手の気持ちは、幼い子供にも漠然的にでも理解しえる。
ウルトラセブンあたりは大人がちゃんと作っていましたよね。宇宙に帰れない宇宙人の悲しい性とか、宇宙へ返せないけれど地球に置いておけない怪獣をやむなく殺さなければならないとか子供心にぐっとくるものがありました。
でも放映する会社の意図は単なる子供向けエンターテインメントに傾いていったんでしょうか。ウルトラ兄弟が単なる善みたいになっていってしまって、思考停止になっちゃったのは残念でした。玩具メーカー宣伝番組みたいなのが多くなったんですよ。
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