2010/02/06

統一は課題なのか

都市や街の美と言う話になると必ず出てくるのが「統一感」と言う言葉だ。


ハードロック・カフェに入ると、そこには独特の濃さがある。ドア1つ隔てただけで外界と隔絶された独特の趣味がその正体だ。そしてそれは統一を生み出す。その欠点の無さを人は楽しみ、統一は美の1つの基準となる。それは多分あの歴史の街についても同じことが言える。歴史ある街の再生と言うと、だいたい想像の範囲を越えない統一された意匠の街を書き割り的に作り出してしまうのはそんな言う理由によるだろう。「統一」、それは何と甘美で魅力的な響きを持つ言葉なのだろう。

さて、統一、それは都市や街やそして建築にとっての課題たり得るのであろうか。



マレーシアには3つの民族が住んでいる。だからマレーシアと言う国は1つでも、マレーシア人はいない。

その代わりにマレー人、インド人、中国人がそこにいる。対して日本にはほぼ日本人しかいない。国ができて何十年も経っているがマレーシア人にはならなかった。彼らの文化は今でも全く別々だし共通に使う言葉はあっても母語はそれぞれのままだ。最近は「1 マレーシア」と言う掛け声によって多民族が1つのマレーシアと言うアイデンティティを持て国造りをしていこうと言う動きがある。

その意味するところは何なのだろうかと思うが、全員がマレーシア人となり混合される事だとは誰も考えないだろう事だけは確かであろう。そこには日本人が考えるタイプの「統一」はきっと無い。

「1 マレーシア」が厳密にどう言う意味で言われるかはここでは置いておくが、統一は実際に誰にとっての課題なのか、と言う疑問の1つのヒントではあると思う。そこには誰が何をしても可とされる自由、それを互いに認め合う事の方が本来は必要なのではないかと考えさえせられるものが有りはしないだろうか。


統一と言う甘いドロップをそろそろ口から吐き出してしまうべきなのではないかと思う。
(もちろんそんなのはとうに分かっている人も多い。)