2007/09/29

平行定規を買う

出かけたついでにお茶の水のレモン画翠に寄って製図に必要な平行定規を買った。

10月13日までのセール品でレモン平行定規18,400円だ。お店にある中で一番安い。箱はレモンの印刷がされていたけれど、物はMAXで保証書もMAXだった。ソフトケースにまでMAXと印刷されている。取り扱い説明書はA4の紙1枚だけだ。もともとそんなに複雑な構造ではないらしい。実際に触ってみてもけっこうチャチな感じがする。もっともお店にある他のメーカーのが立派かと言えば、自分にはその違いはわからない。

そう言うわけで、これで製図をすることになった。

建築構造学演習の受講票が届く

10月6~8日に受けるスクーリング、建築構造学演習の受講票が届いた。

科目概要には「事前学習の資料や成果をレポートに添付して提出できるように準備せよ」とあるのが気がかり。何を準備すれば良いのか。

構造力学演習の成績

構造力学演習スクーリングの成績が届いた。
「A」だった。

授業中に小テストしただけだから落ちる心配はなかったと言うことだろう。

2007/09/28

建築の価値と存続

宮崎県の都城(みやこのじょう)市民会館の解体が決まったようだ。
以前に書いた黒川紀章氏のカプセルタワーとともにメタボリズムの遺産がまた一つ消えていくことになる。

市民会館の今後の方策について -都城市

都城市民会館 -建築マップ

以前に採り上げたスカイハウスを作った菊竹清訓氏の作品だ。

解体が決められた主な理由は次のようなものだ。
そのまま使うには維持費がかかる(5000万円/年)し別の施設を作ってしまったので使い道が無くなった。改修して別の用途とするにも大規模改修が必要であるし、それをしたからと言って新たな用途が見つからない。また設備面、バリアフリー化なども大変である。文化財としての価値は建築時に計画変更されていて菊竹氏の計画そのものとは言い切れない。そのままの形でとの要望も多いが、それではメタボリズムの考え方とは反することになる。


築後約40年しか経過していない。
先日のニュースでは道頓堀のキリンプラザに関してはその半分のたった20年で解体になることが決まったそうだ。どちらもあまりにも短すぎる。木造住宅と変らないのである。


メタボリズムと言う考え方
残すものと変えるもの。この建築の下半分の鉄筋コンクリートで作られたホールの座席になっている部分は残すものとして作られていて、上半分の扇形の部分は変える部分である。それは一体何のために変えると考えられたのだろうか。老朽化か、用途変更か。設備も変えられる方に入っているから老朽化は大きな理由だろう。

しかし、これを想定したのは建築家の方であって、使う側はメタボリズムの考え方をそれほど意識してはいなかっただろうと想像する。建築物はほとんどの場合そのまま使うものであって、よほど困らないと改修はしないのが一般的だ。テレビのリフォーム番組を見ていても、現実の多くの家を見ても、本当にもうダメかと思ってからやっとリフォームを考えるものだ。給湯器のような設備機器だって家電製品より過酷な条件に置かれている(中身は1200℃、外部は氷点下、雨に濡れる、掃除機のように溜まったホコリを掃除してもらえない)にも関わらず、買い替えはテレビの方がすっと頻繁なのだ。

そう言った意味でメタボリズムは日本にとって早すぎる考え方だったのかも知れない。しかも成熟しないままに捨てられた。バブルのような状態が起こればお金は使った方が勝だ。

もう一つ言えることは、建築家の仕事は造ったところで終わりと言うこと。それをどう運用するかは施主の問題に移るから、世の中がこう変ったら何かを変更すると言う考えを継続はできないだろう。黒川紀章氏のカプセルタワーのカプセルほど簡単なものであっても老朽化してカプセルをメンテナンスのために下ろした人はいなかったらしい。造った後に建築家は何も言う権利はないし、メンテナンスの仕組みまでは売らなかったのだと思われる。


未来予測
いかに偉大な建築家であっても未来を予測するのは難しい。人間は時代と言う大半径のカーブを直線と思って走ってしまうもので、これから先、時代がどう変化して行くかはわからないだろう。それを思ってメタボリズムを導入したとて変化できる範囲を超えてしまうとは誰にも予測できないものだ。


使い続けること
建築はそれ自体では存在できないものだ。誰かがそこに居て、それを使い続けることだけが建築を生かす事なのかと思う。それには建築を造る以上の想像力が必要だろうが、そんなクリエイティブな人間はごく僅かなのではなかろうか。


分離志向
ギリシャの神殿は数千年も存在することができた。そして今後も存在し続けるだろう。その事に現在の誰も異論は無いだろう。我々はそこへ観光に行く。そしてそれは多分またずっと生き残るだろう。それには価値があると考えられるから。

一方、自分の街の公園や役所の建物はどうか。用がなければわざわざ見には行かない。ギリシャ神殿のような価値を認めないからだ。逆に言えば、ギリシャ神殿ほどの価値を持たそうと思って公共の建物や自分の家を造るのか。絶対にそんな事はない。

観光地にある遺跡のようなもの、自然遺産のようなものと日常の建築物や家は全く違うものだと考えているからだろう。観光地には美しい自然や価値ある遺跡を求めるが、そこから切り離された身の回りの日常にはそんな快適さや美しさは全く求めようともしない。分離志向である。

一方で建築家はそれをしようと本気でする(人もいる?)。歴史に残る何かを造りたいと思う。この街をローマやベネツィアにしたいと思う。しかしそこには壁がある。建築家以外の誰もがそんな事は望まないと言う壁だ。観光地まで行かなくても美しい街並みも、寛げる街があることも望まない。我が街の建築は一時的な入れ物となり看板とはなるが、遺跡には成り得ないのである。

2007/09/26

「見る測る建築」と言う本

「見る測る建築」遠藤勝勧(えんどうしょうかん)TOTO出版
こんな本を買った。BookOffで105円。

非常に興味深い本だ。
先日の建築設計Ⅰ-1やCADⅠで描いている時、階段の傾斜や家具の配置、家具やキッチンユニットの横にできる人間が移動するところの幅、そういった寸法を決めることは基本的だけれど難しい。物の寸法はわりと簡単なのだけれど、空間の寸法は10倍難しいように思う。実感と数字の対応が全然身に付いていないからだ。

そう言う事をこの著者である遠藤勝勧氏は愚直にやってきたそうだ。建築家を目指す人へのアドバイスになる本はたくさん出ているけれど、やはり最後には寸法をどれだけ身に付けていてそれをアウトプットできるかに尽きると言うことのようだ。

この本は読むところは半分しかない。後半は遠藤氏が実測した実際の建築の寸法入りスケッチが山ほど入っていて、資料としてもたいへん参考になるものだと思う。

105円は本当に安い。(探せれば幸運。)

2007/09/24

建築設計Ⅰ-1 スクーリング3日目


今日でスクーリングは終了した。

結局、図面の小さな誤りが幾つか見つかったのでトレーシングペーパーに全て描き直した。コンセプトは変更せずに。

そして作品に名前を付けた。「Rotonda」と。要求が大きな仕事をしている建築家の家族のための表参道の家であったので(皆課題の条件が違いますから未だ受けていない方の参考にはなりません。)、家族が皆家の中心へ視線を向けて生活するプランとした。中心に8角形のリビングを設け、そこを核にできるだけ破綻のない平面を心掛けた。つまりルネサンスのパラディオのヴィラ・ロトンダを連想させるものだ。

実際にはどうしても綺麗に空間分割できず、汚い線が多数できてしまった。生活と言うのはそんなものかも知れないが、空間のプランとしてはイマイチになる。1日目に考えたコンセプトのリカバリとして、やるだけのことはやったと言うだけかもしれない。

その8角形リビングを吹き抜けにしてしまった事がさらに事態を悪化させてしまった。なぜなら、吹き抜けは1Fも2Fも同じ形になってしまうから(そうしない事もできるが構造上は工夫が必要になる)、上下各階の機能の違う空間どうしが形状の上で影響しあってしまうのだ。これは組石構造で家を作っている時(つまり19世紀まで)と同じ欠点が現れる。そんな事をわざわざしてしまうなんでやはり間違いとしか言いようが無い。ただ、部屋割りにとらわれて構造が成り立たなくなる事が避けられるだけだ。

次の機会は(それが有ればだが、)もう少し上手くやろうと思う。

今日の課題は前回のCADⅠから1歩進んで、プレゼンテーションまで採点された。設計内容が今ひとつだったので見せ方で少しシンプルに、そして印象深くなるようにしてみた。どう見えただろうか。




前回のCADⅠそして今回、と、設計を行った中で気になった事は「線の質」だ。なぜこの直線を引くか、なぜここに線を引くか、なぜこの形を選ぶかと思う。

例えば直線を引くのは、つまり「そこに定規があるから」ではないのだろうか。良く解釈すれば世の中にはまっすぐな材料が多いから、通常はそれを使う事が効率が良いし自然な事だ。

しかし、形を選ぶのも線を引くのも、全てが自由であったとしても我々は直線を引く可能性が高い。幾何学的にすっきり完全な形が作れて美しいからだろうか。いや、「そこに定規があるから」ではないのか。考えもせずそれが普通だからと言う理由で直線を引くのではないか。そうでないと言い切れるだろうか。

CADであればなおさら幾何学的に完全な形状を選択し易い。それどころか不完全な形状を選択する方が難しいだろう。これでは道具に使われているようなものだ。21世紀になってプラトンの完全性を求める必要など無くなったはずなのに、それとは違うこんなバカな理由で直線を引き続けているなら我々は退化したとしか言いようが無いではないか。



写真を追加
プレゼン用の立面図であります。住宅らしさが無いのは意図。
窓枠も細かく描くべきだが思い切って省略している。スケール感が無いのはそのためか。

2007/09/23

建築設計Ⅰ-1 スクーリング2日目

描き直そうかどうか考えたが、そのままにする事にした。
別の事情で少し変更は加えた。

明日は午後からプレゼンテーションだ。
今は5mm方眼紙に描いているが、トレーシングペーペーに必要な線だけで描き直すべきだろうか。色付けもして良いようなのでやってみようか。



追加
今チェックしたら間違いが数点あった。グリッドの付いた紙に描くと平気で1コマ間違えていたりするものだ。仕方ないので描き直すことにした。この建築に何か名前を付けようと思う。ルネサンスの巨匠への捧物になるな名前が良いだろうか。平面図を見るとそれを連想させるものがあるから。

2007/09/22

建築設計Ⅰ-1 スクーリング1日目

今日から建築設計Ⅰ-1のスクーリングが始まった。

テキストを読んだ印象では、基礎からみっちり覚える科目かと思っていた。実際始まってみたら全く反対で、かなり緩く始まった。制約が少ないけれど課題に求められる内容はかなり考えなければできないので(とは言え、正解の無い課題)別の意味でキツいように感じられる。


帰りの電車で課題の事を考えいた。そうしたらスクーリング中に考えていた事と別の考えが浮かんできてしまった。変えてしまうとまだゼロからになってしまう。どうしよう。

考えが変った理由は、最初に挙げたコンセプトで描く事が別のところでの制約になってしまうと思えてきたからだ。自由で単純明快な方法を選んでいたつもりが、今は逆のように感じられる。1F平面を自由に決める事が2F平面に制約をもたらす。壁の表が裏を制約する。単純明快な形が単純でない空間を作り出す。

これは欠陥ではないのか。19世紀までの積石構造のジレンマに似ていなくもない。そんなふうにも思えてきた。明日までによく考えよう。

2007/09/21

フランク・ロイド・ライトのまとめ

フランク・ロイド・ライトにおける「有機」と言う言葉についてまとまてみた。

建築用語として「有機的」とは良く使われる言葉になっているが、フランク・ロイド・ライトはかなり早くからこの言葉を使っているようだ。現在の建築に関するいろいろな文章に出てくる「有機的」は今ひとつ定義がはっきりしていないようで、読んでいて何だか気持ちが悪い。


そこで、知る範囲でそれらを分類してみたら、だいたい4つ位に分される。

(1)概念として関係があるの意
周辺環境、人間生活、街などと建築に意味的なつながりや関係があると言うこと。

(2)空間構成の事
部分と全体(ディテールと立面など)または部分と部分に関係やつながりがある。

(3)美や形状の事
自然の形、自然の構造や構成を用いていた建築の方法。

(4)(単なる)イメージ
機能的に整理されていない関係である。からみあったような関係がある。非人工的。自然の何かを連想させる。


フランク・ロイド・ライトの「有機」はきちんと定義されていて、上の分類では(1)になる。結果として作られる空間には(2)が認められる。全然矛盾が無い。


フランク・ロイド・ライトの「美」と形状はどうかと言うと、初期から後期まで一貫して幾何学の美である。「グッゲンハイム美術館」などでは、丸くぐるぐる巻いている巻貝のような形状のイメージから「有機的」と評されることもあるが、よく見てみればコンパスや定規を使って描いた線の組み合わせになっていて、最近よくあるぐにゃぐにゃしたタイプの「有機」とは全く違うのである。

ついでに、ル・コルビュジエのロンシャン教会は、あの曲線は日本の陶芸であるような手捻りの曲線で、美術家の使う線であろう。もともとル・コルビュジエはピアノやバイオリンなどの曲線を使うのが好きだ。ル・コルビュジエもフランク・ロイド・ライトも別に幾何学をもって近代建築の定義としたわけではなくて、(19世紀的な構造からくる制約に対する)「自由」の方が重要なテーマだったので、ロンシャンでそれを示してみたかったのだろうか? (そんな事どこにも書かれてはいない。)


本題に戻って、フランク・ロイド・ライトは自然の生物の真似をしたような形の「有機」を好まない。それは造花のような物と考えたからだ。人間が作らねばならない美は人間の美感に投影された普遍性にあると考えていた。


それなら、グッゲンハイム美術館に「有機」はあるのか?
初期のプレーリーハウスが砂漠地帯に溶け込むようにデザインされたと同じような関係を、グッゲンハイム美術館は街と持とうとはしていない。その外観は周囲のビル群のパタンやルールを無視している。これは逆説的方法だろう。その方が良い場合もあるのだから。(ここでは、細かい事は言わないでおくことにするけれど、AlfaRomeoの線を見て欲しい。)





参考資料
「ライトの遺言」 フランク・ロイド・ライト 彰国社
「建築家:フランク・ロイド・ライト」 テレンス・ライリー他 (株)デルファイ研究所
「建築について (上下)」 フランク・ロイド・ライト 鹿島出版会
「巨匠フランク・ロイド・ライト」 デービッド・ラーキン 鹿島出版会
「見る建築デザイン」 宮元建次 学芸出版社
「伊藤豊雄 建築|新しいリアル -パンフレット」 神奈川県立美術館葉山

2007/09/20

おかげさまで、フランク・ロイド・ライト

先日、CADⅠのスクーリングでせんたろーさんとフランク・ロイド・ライトやル・コルビュジエについてお話ができました。それを種にして今日は頭の中にちょっとだけ飛躍がありました。

まずは、せんたろーさん、ありがとうございます。
これで現代建築論のフランク・ロイド・ライトの部分が進みそうです。


簡単には、フランク・ロイド・ライトの「有機建築」に焦点をあてて書こうと思っています。
フランク・ロイド・ライトの建築は、初期と後期では見た目上スタイル変化が大きいのですが、「有機」については一貫していると思うのです。また、スタイルが変化しているように見えても彼の感じる「美」にも一貫したものが感じられます。そのあたりを例を挙げつつ書いてみることにしました。

詳細はまた後で。

再びフランク・ロイド・ライトへ

再び現代建築論のフランク・ロイド・ライトへ戻っているが彼の巨匠をネタにレポート(現代建築論)書くのは、調べれば調べるほど難しくなってきた。

なぜなら、フランク・ロイド・ライトの場合はその空間構成を論じる前に「自由」「民主主義」から入らねばならないからだ。ルイス・カーンも難しかったが、彼の場合は建築そのもの(狭い意味ではないが)からその思想の範囲が超えて出るほどでもなかったように思う。フランク・ロイド・ライトは前提条件となるものの範囲が広すぎるのだ。


現在21世紀初頭に生きる我々から見るとアメリカはいろいろな問題を抱えるにしても、世界のリーダーと胸を張って自覚する国と見えるが20世紀初頭は決してそうではなかったのかも知れない。新しい土地に移植された植物のような気持ち、故郷から切り離された(それを望んだとしても)頼りなさが残っていたのかも知れない。

そんな中には新天地で新しい根を張ってたくましく生きていこうとする花もいて、それがフランク・ロイド・ライトであろう。砂漠のような何も無い土地に寂しさでなく自由を感じる建築家。だとすれば、フランク・ロイド・ライトこそ始めての本当の"アメリカ人"建築家なのかも知れない。


歳を重ねてからも新しいやり方を積極的に受け入れていく自由さとたくましさ。アメリカの開拓者魂だろうか。

2007/09/19

製図の道具を買う

終末の建築設計Ⅰ-1のスクーリングに備えて製図用具を買った。

スコヤと三角スケールは近所の道具屋で。(ハンズより少し安い。)芯削り、製図用刷毛、ドラフティングテープ、その他細かい物はハンズで買う。他のものは既に持っているから買わなかったが、全部で5000円ほどになった。CADに比べれば高くはないな。

これを使ってスクーリングで何をやるかと言うと、住宅の建築計画と設計製図だ。前回のCADⅠと同じで基礎から設計までの一通りを3日間でやるらしい。すばらしいスピードと言うしかない。

見えない建築



銀座から徒歩で新橋に歩いていくとこんな特徴ある建物でも全く視界に入らない。
新橋駅に着いて振り返って驚く。あれ?!今来た道にこんなものがあったのか、と。

人間の視界は自分で思うよりとても狭い。知っている街でもたまに空を見上げると何十年もずっとそこにあったであろう物が珍しく感じられる事もしばしばだ。そう思うと、大きな建物の特徴的な外観にどれだけ価値があるか疑問だ。

近くまで行って、中に入って使う人にはその外観は関係ない。遠くにいる人はその外観を眺められるけれどもその人の生活はその建物とは関係ない。それならば特徴ある外観は看板なのか、道しるべなのか。

平面形状に特徴ある建物にも言える。こちらは道しるべにもならない。豊洲のららぽーとはドックに船が数隻停泊した形になっているが、あくまでも平面図上の話。迷子になりそうになって案内図を見るまでそれに気付かないだろう。こう言う事に何の意味があるのか。

これと同じ意味で安藤ストリートを見に行ってみたい。


(あくまで一般的な話。どっちも両立する建物もあるかと思う。)

2007/09/18

MIKIMOTO Ginza2ビル



今各所で評価の良い伊東豊雄氏のMIKIMOTO銀座2ビルを見てきた。

これは見た目が骨格とも言える構造なのでハリボテではない。
中に入ると確かにどこにも柱が無く、隅まで同じ厚さの壁でできているので中を有効に使えると言う意味では理にかなっているかもしれない。そう言うことを考えてインテリアをデザインしたのかしないのか、良くわからなかったが、ミキモトがその空間を広々と有効に使えているようには見えなかった。窓の形が変である以外、外見から想像できるそれよりずっと内部は普通だ。使う人と建物の外見はあまり関係ないと言った印象だ。少し残念。

この写真でも分かるように、最近多いガラス張りビルよりも確かに目立つ事は確かだ。有楽町駅のホームからも目立つ。けれど、これが銀座に合っているかと言われれば、そうれは難しい問題だと言うしかない。

フランク・ロイド・ライト的な意味で有機的と言う事を考えるなら、これが銀座と言う街の一部であって不可分な物と言えるのかどうか? その答えは時間が決めるものかもしれないが、少なくとも今の自分にはわからない。他人がやらない事を試してみたと言う部分に関しては賞賛に値するとは思う。(構造的には2x4住宅や自動車のように壁構造なので開口部を広くとりたい場合にいくらか制限が出てくるのだろうか。もっと床面積の大きなビルでの挑戦に期待したい。)


追加
写真の奥に一つ前の記事に挙げたデビアス銀座ビルが少しだけ見える。隣のビルも敷地ぎりぎりで建てているので凹んでいる分、目立たなくなってしまっている。銀座と言うところは目立ちたがり屋さんがとことん目立たない場所なのである。

デビアス銀座ビル



この写真は有楽町に建設中のデビアスビルを正面から見上げたもの。

ステンレスの曲がった柱に見える物は構造とは何の関係もない窓ワクだ。証拠にこの柱状の物は地面に到着する前に切れている。このビルの構造を支える柱がビルの中央近くに集まっているために正面がこれほど自由に曲げられるらしい。形だけからはオーストリアの中央銀行ビルとかフランク・ゲーリーあたりを思い出す。こちらの方がちょっと大胆さに欠けるけれども。

この形の必要性は何か?
どう見ても外見だろう。(つまり、アヒルか?)

自分でこれを作る発想は無いなあ、と感じる。
ぐにゃぐにゃさせれば良いと言うなら多分誰にでもできそうに思う。目立てば良いだけなら別の方法を考えそうに思う。だから、ここで決断はできないだろうなあ。


ついでながら、汚れ易い部分とそうでない部分に分かれそうな気がするのだけれど、掃除はし難くないのだろうか。

ハリボテ建築 -アンバサダーHotel



ディズニーランドには行かず、アンバサダーホテルを見てきた。
同じホテルがほぼ同じデザインで香港ディズニーランドにあるが、香港の方がずっと良いように思う。

どうも日本人には底抜けの明るさは似合わないようで、建物が似ていてもそれをさらに飾ろうとする心が無いのかも知れない。中国人はスナップ写真を撮るときに、まるで女優さんか俳優さんがグラビア撮影してる風のポーズを(恥ずかしげも無く)とるが、日本人はピースサインと笑い顔だけだ。香港と日本のこの2つのホテルにはまさにそんな違いを感じる。舞浜のこちらは何となくソツ無く、イヤミ無く出来ていても華やかさが感じられない。


香港のこのホテルに泊まった印象が悪くなかった。そこで日本ではどんなものだろうと思って確認しに行った。そしてこのハリボテを現代建築論に書いてみようかとも。なぜなら、好印象を与える建築がハリボテであるなら、建築としてそれがタブーであっても現実を認める事も必要と思ったからだ。

あのパタンランゲージを採用して再生された川越の商店街もよく見ればハリボテで、それを目当てに多くの人が訪れる。その構造はディズニーと変わりない。あちらはC.アレグザンダーの理論があって建築的には注目される存在で、ディズニーは商業主義のハリボテとしてタブー視される。この違いはいったい何なんだろう?

この写真の付け柱(ジャイアント・オーダーだ!)と川越の江戸末期風鉄骨建築に違いは全く無いと思うのだけれど。

2007/09/17

CADⅠスクーリング 3日目



今日でやっとCADⅠが終了した。
写真は設計した部屋のパーティションの図。

CADの操作についてだけ評価されるのかと思ったら、描いた図面の内容までしっかり見られたのには驚いた。昨日までコマンドの練習をやっていたので今日中に設計が完成するかどうか自信が持てなかったがどうにか完成できて良かった。


課題は既存の形が特徴的な有名建築物のインフィル設計。
短時間で完成するために、実際にはあり得ないほどシンプルにしてみた。その中で気をつけた事は、その特徴的な形状故に成立するプランであって、狭いので全体が一つに見え、意図せずできてしまう小さな隅っこのような部分を極力減らす事であった。

また、階段のような移動(と言うどうしようもない必要)のためだけの物は上下階ともに無駄になるのでそれ以外の機能(具体的には書かないが)を加えて部屋の一部分にした。これによって東側窓から階段の斜面に沿って光が入る効果も有りだったと思う。また夕刻に使う風呂はやはり西向きだろうとも思ったのでそうした。

使う人間を想定せよとの事だったので、完全に中年夫婦2人とし、年に1人2人?、来るか来ないかわからない友人や親戚などの外来者も完全に無視した。

図面完成時には消してしまったが部屋の中央に中心線を想定し、その軸を実は重要視してもいた。これは建築でなく、機械設計の方法を使用したつもり。描く自分に規制を設けて芯がブレないように考えてみた。家具も建具も全て寸法規制されていたから実際には作れないかもしれない。

実際に作れないかもしれないことはその他にも有る。階段位置が梁にかかっていて、梁を移動すると言う大工事が必要になった。何しろ建築の常識を知らないまま描いている図面だから仕方ない。(先生によれば、実際の住宅で梁を移動する事もあるらしい。)

また、階段をかなり広くしたので使う材料の事を無視してしまっている。どうにか作れるとしても無駄にコストがかかるだろうし、階段下の支柱が必要かなど、構造にも影響するだろう。

実際に作られない設計だから許していただくとしよう。



その他
人間がどの位の幅の通路やドアの隙間を通ることができるのか、トイレの幅、階段の高さ、天井の高さなど、普通にしている動作とその寸法の体感を常に意識しておかないと、いざ設計となった時にかなり悩む。法的な最低限でなくて、何mmが良いのかと言う、当たり前のことだろうけれど普通に生活する上でそんな事を意識することはなかったのだから。

2007/09/16

建築の図面はちょっと違う

今日、やっとCADで建築の図面を描き始めた。
機械の図面と比べるとやはり違うのだな、と思う。

まず、基準線が壁の中央にあるが、そこが基準線だと言われたら誰がどうやって寸法が合っているかを測定するんだろうと思った。壁の中に仮想線が入っていても定規をあてられない。そこから出る寸法線が次の柱まで行って、その柱からさらに次の柱までも寸法線が入っている。さらに次の柱へも。そうすると全体の寸法と食い違いが出るはずだが、それはどうやって吸収するのだろう。

有効数字が多すぎる。柱間が4025mmとなっているが、これを測定するのはかなり優秀なスケールが必要だ。実際には多分最後の一桁、いいや最後の2桁はいい加減になるはずで、4000から4050の間って感じになるだろう。


以前、職業訓練で機械CADを習っていた時に建築図面の仕事をしていた人が来ていた。その人はCADは早かったけれど、図面の基準線を描かずに端から描いていた。そんな寸法の入れ方では物は作れないと注意されていたのを思い出す。そうは言っても、最近は機械から入っている人もそう言う傾向が目に付くのだが。(実際、去年まで働いていた会社の図面はそんなのが多くて困ったものだ。)

CADⅠスクーリング 2日目

午後になってやっとコマンドから図面に作図に入る。と言ってもまだ構造部分の説明を受けながら描いているだけ。このペースで明日の3時までに描き終わるのかどうか不安だ。今夜中にそうとうエスキスを進めておいて、明日は描くだけにしておかないとダメかもしれない。

できればもう少し1日目のスピードを上げておいて欲しかった。と、言ってしまうとパソコンに慣れていない方もいるのでわるいのだが。(そう言う方には事前にオープンスクールのような形でCADゼロがあると良いかもしれない。)

2007/09/15

CADⅠスクーリング 1日目

今日の内容は以下の通り。

AutoCAD(LT2007体験版)のインストール。
時間はかかるが言われる通りやっていけば別に問題なし。

次にいくつかの基本コマンドの説明。一人でテキストを読みながらではやっていられないが教えてもらいながらだと何でもない。ただ、使わなくなると忘れるだろう。以前の職業訓練でやった事もそろそろ忘れ始めているから用心しなければ。早めに学生版を購入した方が良いと思うが、それを過ぎたら(2年後)かなり高いものなので、仕事で使うようにならない限り、永久に使う機会はなくなるかもしれないのが心配だ。


それと、やっぱり使えないのがマウスだった。
マウスは早く動かした時と細かく動かした時の動作のレンジがあまり広くないのが欠点だ。細かく精度良く設定しておくと長距離でピョンと飛ばないのが面倒臭い。画面のピクセル数が多くなっているのにそんなの何時まで使えるって言うんだ。そのうち加速ボタンが付くんじゃないだろうか。

今日からCADⅠスクーリング

今日から3日間、CADⅠスクーリングだ。天気が良くてよかった。

持ち物はテキスト、パソコン、筆記用具、マンションのチラシ、学生証、受講票。
用心してマウス。傘はいらない。

2007/09/14

無くした本を返す

図書館に無くして出てこなかった本を返した。

受領書が用意されていて、それを交換にもらっただけで済んだ。簡単。何度も言うようだが、無くした本が未だに出版されている本でよかった。規定では無くした本に相当する本を返す事になっているが、C.アレグザンダーのあの本でなければ、返す方としても意味が無い。自分が必要としたと言うことはまた誰かが必要とするはずだし、税金で買うために誰かが選んだ本なのだろうから。

2007/09/13

アメリカの大学の講義

アメリカの大学が講義内容をオープンにする傾向が広がっていて、とうとうこんなところまで来ている。これで勉強しても単位も学位も取れないが勉強したい人には良いことだと思う。普通は自分の大学の講義内容しか知らないから客観的にはどうなのか確認することはできないが、こう言うことになっていればそれも可能だろう。

iTunesU


建築関係も有る。iTunesの検索窓にarchitectureなどと入れて検索すればスタンフォードなどの名門大学の講義がビデオで見られる。建築のビデオはMITが一番充実しているようです。1つ1つはそんなに長くありません。

惜しい事に日本の大学はこれに参加していない。だから英語が聞き取れないと意味がない。残念だ。日本の大学もぜひ参加していただきたいものだと思う。いくつかの大学、先生はHPで内容を公開してくれているけれども、もっと広がることを期待する。


注意
iTunesを持っていない人はダウンロードしてから。
Windowsの人はインストール後に「コントロール」-「QuickTime」-「詳細」の中の「セーフモード」を選択する。

無くした本を買う

先日無くしてしまった図書館の本「まちづくりの新しい理論」を買った。

図書館の本を無くしたら図書館が買ってお金だけ払うのかと思ったら、自分で買って届けても良いとの事だったので、その方が面倒でないと思って買うことにした。Amazonでも良かったのだが丁度図書カードがあったのでそれを使うことにして書店で注文しようと思っていたら、幸いにも駅前の書店にあった。1890円だった。あれだけ何万円もの本を読ませてもらっているから安いものだ。中にはかなり珍しい本まであったから何万円どころではないだろう。

図書館に届けようと思って自転車で走ったら今日は休館日だった。また明日だ。

アントニン&ノエミ・レーモンド展始まる

神奈川県立美術館で、
建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド
が始まる。9月15日~10月21日。

2007/09/12

Imagine Peace Tower - 光の建築

Imagine Peace Towerが10月9日に公開されたそうだ。

先日受けた建築デザイン論で「象徴」の問題があったが、これはとても直接的な答えだろう。さすがオノ・ヨーコ。


彼女の作品が以前、横浜のMM21に展示されていたのを思い出す。貨物列車を機関銃で撃ちまくって空いた穴から光の筋が発散している。貨物車の上方にも一際太い光が放射されており、中から音が聞こえると言うものだった。オノ・ヨーコと言う人が前衛芸術家だとは知っていたが、前衛と言うだけあって何かわけのわからない事を考えてわけのわからない表現をする人だと思っていたが、それを見て見方が180度変った。

今の日本は景気が悪くても以前ほど裕福ではなくても、世界から見れば不幸とは言えない状況にあって、あまり問題もなく生きていかれる。だから個人にも音楽にも芸術一般にもそして人生にも切実なテーマは感じられない。強いて問題を挙げるとしたらテーマが無いと言う問題があるだけだろう。

外国では芸術のテーマとして貧困があり抑圧があり圧政があり死がある。そう言う意味で、オノ・ヨーコは本当に世界で生きている人なんだなあと思う。枠を超えられないと言うだけの問題しか無い日本の芸術や建築は幸せかも知れない。

建築材料学のレポートが帰った

建築材料学のレポートが帰ってきた。
このレポートは評価を心配していたもの。
けれど、どうにか評価は「A」にしてもらえて安心した。

反省
講評では、各建材の特徴は単語だけで表すのは難しい、との事。つまりもう少し詳しく書けと言うことだろう。

仕上表(わりと詳細に書いたつもり)にしても良いとの事だったので、1つの材料を1段の表にしたがもう少し段を広げて文として書いた方がよかったかもしれない。また、要求性能もその横に単語の羅列で記入したが、これも少し詳細に書くべきだったのだろう。


提出した表のまとめ方は、大きく「外部仕上表」と「内部仕上表」に分けた。
「外部仕上表」は屋根、外壁、バルコニ、外窓などに分け、さらに各々使用材料を抽出して特長と要求性能を記入している。
「内部仕上表」も部屋毎にほとんど全ての材料を挙げて同じように記入した。表の別欄に主要部分の写真も添付した。外観からでは中身が不明な部分、厚みが不明な部分は資料を調べて類推して記入した。類推で書いた部分はそれを注記した。写真は添付していないが畳位は一応上げて内部を観察した。

CADⅠの準備として



週末のCADⅠのスクーリングの準備に壁紙を作ってみた。
AutoCADなので壁紙の右端に主要コマンド一覧をプリントした、カンニングペーパーなのだ。コマンドは適当に選び出したわけではなくて、以前の失業時代に職業訓練を受けた時によく使った、線を引くとか寸法を入れるなど、よく使う汎用的なコマンドだけ。

AutoCADの美点はキーボードからコマンドが入れられる事。だからAutoCADはバージョンアップして画面構成が変ったりアイコンが綺麗なものになったとしても、キーボード入力のコマンドはほとんど変らないから戸惑う事はない。小さなアイコンがどこにあるか探すだけでも面倒なのだ。

それに正確な位置はどっちみちキーボードから数字を入力しなければならなから、手はマウス(タッチパッド)とキーボードの間を往復しなければならなくてこれも少し面倒臭い。ならば最初からキーボードでコマンドを打ってしまったら楽だと思っている。


だからAutoCADを使う時だけこの壁紙を張っておいて忘れた時だけ見るわけだ。もうあの講座を受けてからだいぶ経つからかなり忘れていて、常時確認する必要がありそうだが。



もし、キーボード・コマンド好きな人がいたら(壁紙でも元表でも)あげても良いけれど、今時キーボードからコマンド入れる人なんてほとんどいないだろうなあ。

掃除

気温が下がってきているのに暑い。ウェット式の紙ワイパーで階段を下まで拭いてきただけで暑い。それにしてもこの街の空気は悪い。毎日掃除したとしても床はすぐにザラついてくる。フローリングを歩いた足で風呂場の濡れた床に足を置くと、水に黒い汚れが滲む。

昔は工場もトラックも黒い煙を吐いてこの街の空を一面灰色に染めていたようだが、今は青空も見えてだいぶ改善はされている。それでもやはりこの状態はひどい。こんなところでも、まだ移り住もうとする人がたくさん居るのはどうしてだろう。


今時、戸建て住宅は皆小さい。小さいから3階建ては普通だ。3階建てであれば当然階段がある。階段は、踏板と蹴込板と側桁の交わる部分が重箱の隅のようになっている。この部分が1段に左右2ヶ所ある。1階と2階の間にこれが13x2=26ヶ所、3階まであればその倍の52ヶ所ある。この部分にはどうしてもホコリが溜まる。

なぜなら、空気の流れは角で遅くなる。流速が遅くなると風に乗って来たホコリは背中を押されなくなるからポトリと床に落ちてしまう。こうして隅にはホコリが集まってくる。

これを掃除するのはたいへんな事だ。高齢になって手足の動きが今ほどでなくなったらどうすれば良いのだろう。階段の上り下りがたいへんになると言うのに、それを掃除して周らなくてはならないとは。どんなに良い家を建ててもこの問題はオマケとして絶対に付いてくるだろう。

隅の無い家はできないだろうか。
・ウナギの寝床状で細長く、向こう側とこちら側に大きな開口部があって空気の流速が絶対に落ちない家。
・土地が小さい場合はそれを巻貝のように巻けば、カーブの内側の流速は落ちるけれど重いホコリは流速の速い外側に移動するからこれでも良いだろう。巻貝の中心部から時々エアを吹けば家全体のホコリを外に出せるかもしれない。
・床はホコリにもバリアフリーにしてやる必要がある。

2007/09/11

構造力学Ⅰのレポート提出

構造力学Ⅰのレポートを提出した。

1.トラスの算式解法と図式解法
どちらも先日の構造力学演習でやった方法なので注意深くやってみた。図式と算式で少し誤差が出たが、スケールの有効桁数からのまるめ誤差程度。

2.(1)木材の圧縮応力度
これもスクーリングでやったもの。

2.(2)鋼材の圧縮応力度
鋼材はスクーリングでやらなかったがテキストの例題に従ってやってみた。鋼材には許容圧縮応力度の低減率が無く、細長比から表を読んでそのまま許容圧縮応力度出たのが木材とは異なる。それと山形鋼は段目形状に方向性があるので弱い軸を元に計算する。


試験までにもうちょっといろいろな例を検討しておく必要ありだろう。



追加
これで試験のある科目のレポートは全部終了したことになる。
残るは、
「建築基礎製図」製図を描いて出す。
「建築史演習」歴史的建築の調査報告。
「建築設計Ⅰ-2」パン屋さんの設計。
「現代建築論」巨匠の建築評。(これはもう少しで出せる。)

2007/09/08

スクーリング受講票が届く

2科目の受講票が到着した。

CADⅠ 9月15日~17日
建築設計Ⅰ-1 9月22日~24日


CADⅠで使うパソコンも今朝修理から帰ってきた。ファンの制御回路の不具合でファンユニット全交換したらしい。ファンの脱調が発生していたのだろうと思う。ホコリが酷かったからではなくて。熱のせいかもしれない。IBMさん迅速な対処、ありがとう。

試験終了 2科目

建築環境工学と建築デザイン論の試験を受けてきました。

建築環境工学の問題は
2.人工光源の種類と特徴
7.空気汚染物質が人体に与える影響

どちらもテキストを見て要領よくまとめれば済みそうな問題だったので2は表にして、7は箇条書きで網羅してみた。あまり面白い問題じゃなかった。


建築デザイン論の問題は
4.建築が浮遊する感覚
8.街や自然からの拒絶
でした。

4は昨日まで考えていた事に加えて、上下の視線の違いによる断絶のようなものもあるのかな、と考えてそれも付け加えて書いてみた。メリットとデメリットの分かりやすい(ファニーな)イラストも入れてみた。

8はだいたい考えていた通りに書いたけれど、書いている途中で設問7にある自然や街の導入と反対の事かと思いついてそんな事も付け加えて書いてみた。イラストも入れた。


結果が楽しみだ。

2007/09/07

「ディズニーから」関連記事

8月23日に書いた「ディズニーから」に関連する記事が朝日新聞に出ていたので載せておく。

建築の装飾について -asahi.com:住まいのお役立ちコラム


要約
イスタンブール、プラハ、ウィーンの3都市はいずれも世界遺産になっている。プラハとウィーンは「装飾都市」、「仮面都市」といってもいいほどに装飾に満ちている。

一方で、戦後日本の建築デザイン教育では「装飾」は否定されていて、骨組みや素材をそのままの形で表現する「構造表現主義」「素材表現主義」ともいうべき二元論が根幹となった。ディズニーランドのような「張りぼて」あるいは「書き割り」はタブーであることはもちろん、装飾過剰な日光東照宮を「否」、架構と素材が素直に表現され抽象的な幾何学デザインを持つ桂離宮を「是」としている。

実はそれらヨーロッパの建築様式のルーツは、実は古代ギリシャにあり、プラハやウィーンの伝統的とは何ら関係ないものだ。つまりディズニーの「張りぼて」と同じなのである。にも関わらず建築装飾は、宗教や文化や時代を超えた味わい深い感動的なメッセージを感じさせる。

著者:染谷正弘(そめや・まさひろ)
建築家、住環境研究家
(株)デザインショップ・アーキテクツ代表、文化女子大学講師
・シティア(2002年、我孫子)
・横浜タワーリングスクエアー(2003年)
・リボンシティ・レジデンンス(2004年、川口)
・アパートメンツ西麻布(2005年)
・コロンブス・シティ(2006年、幕張)



この問題は考えれば考えるほど分からなくなる。
ミース「誰もが使える建築の言語を作りたい。」
建築家A「ありがとうございます。私もグラスボックスを作ります。」
建築家B「私も四角いのを作ります。」
この瞬間にもう近代建築はフェイクになった。過去のものになった。この後の人たちは皆人まね猿に過ぎなくて、近代建築の装飾を身につけたい看板建築作家だ。ディズニーランドで偽城や偽山を設計しているのと変わらない。あのミケランジェロだって同じだ。ローマやギリシャの真似しかしていないと言えなくもない。
何かのスタイルを身に付けるのがタブーだったら今生きている建築家のほとんどが切腹だろう。でなければディズニーに就職するしかない。

開き直って「アヒル派」宣言でもしよう。
Viva Duckism !

2007/09/05

建築デザイン論

この科目は深く建築デザインについて考えなければならない所がキツい。
(以下、どの参考資料にも書かれていない内容なので注意。記事掲載後に追加編集します、たぶん。そして記事が長い事を覚悟すべし。)


1.視覚化
デザイン手法として「視覚化」を使う意味は何だろう。

a.芸術的意味合い
見る者へのインパクトを意識している。

b.見せる事自体が機能
人を誘導したり、機能を見せたりする目的がある。

c.見えてしまう(消極的)
内部を広くしたいので設備が外に出てしまった場合など。

d.上記の複合

例えば構造を視覚化して見せたいと思ったとする。
構造を見せるには構造を見えるところまで引っ張り出して来るか、壁を透明にしてしまう必要がある。見せたい物を見せるのには、全体や隣にある別のパーツをどうにかしなければならないって事だ。

柱「なんだよ下水管、目立たなきゃならないのはオレだろう。何でお前が出て来るんだよ。」
パイプ「仕方ないだろ。お前を目立たせるために壁が消えたんだから。オレまで消えるわけに行かないだろ。中に流れるウンコが丸見えになっちゃうとお前までカッコ悪いぞ。」
映倫「大丈夫、私がパイプさんを黒塗りしておきます。ご安心下さい、モザイクじゃありませんから。」

視覚化すると見せたくないものまで見えるようになってしまったりする。今まで表面だと思っていたものが表面じゃなくなって中にある椅子とか便器とか配水管とかもともと表面じゃないものが表面に出てくることもある。だから部分によってテイストが異なってしまったり表面が煩雑になってしまったり、そんな弊害が出る。


2.文節・分割と言うデザイン手法
省略
(テキストのp37「フィッシャー邸」のところで「暖炉が...偶発的な角度で」と書かれているが、こう言う情緒的記述は止めて欲しいものだ。暖炉の事なんか何も分かっていないくせに。)


3.環境との調和と不調和
イタリー車のデザインはラインを調和させるのが上手いと思うが、アルファロメオなどはどう見ても調和から外れたラインを1本だけ入れる事がある。全てのラインを溶け込ませて全体の美しさを見せると言う通常のやり方でなく、破綻した1本をアクセントにする事で全体を個性あるものにする手法だと考えられる。

意味も不調和
日本の伝統的な住居のスタイルは開放的なものが多い。伝統的集合住宅のような、つまり長屋などでは1つの住居としては構造的にも不完全であるし、そこに住んでいる1家族だけで生活は成り立たない。簡単に言ってしまうと助け合ったりしながら成立している。これは形がそうさせたのか、それが良くて形が決まったのか議論の余地はありそうだが。
そう言う場所に閉鎖的な(鉄の扉で区切られたマンションのようなスタイルの)家を入れてしまったらどうか? 伝統的なやり方は成立しなくなる。しかし、現代的な生活スタイルにコンバージョンしたと言えばそれはそうなのかも知れないが。

自然を認識しているか?
日本人は東京湾を自然の一部である海として認識しているか? 最近はだいぶきれいになったとは言え、やっぱり東京湾岸は工場地帯、荷物の発着所、埋立地であってそれは自然の一部ではなくて都市機能の一部なのではなかろうか。お台場には有名建築家による作品があるし、横浜MM21にはヨットの帆のようなホテルがある。あれは東京湾を自然と認識した上での形なのか。それとも埋立地におけるビジネスセンターや港湾施設(それが観光地であっても)を意識した調和なのだとしたら、自然にではなく人間の営みとか欲望への調和ではないのか。それとも無意識に人工と自然をダブらせて(勘違いして)いないのか。

4.浮遊
空を飛ぶのは、地上で直立歩行する人間の夢である。
本当に飛んだら危ない感じもする。日常の感覚に合っていないんじゃないか。


5.象徴
建築の耐用年数は数十年~(うまくいって)数百年である。
よって建築はどうしても歴史の一部となるものではなかろうか。とすれば建築は、これからの人間が目指す方向を指し示す物であると同時に現在までのマイルストーンではないのか。

靖国神社は何の象徴なのだろう。
それが造られた時と現在では象徴するものが変わってしまったとも言われる。過去の何かを持ってきて現在の解釈で象徴とするのは危険だろうか。

中国の神様はほとんど実在の人間だ。当時は将軍だったり参謀だったり何がしかの働きをした人が亡くなって今は神として廟に祭られる。廟は神社じゃなくてお墓だ。たぶん当時は評価されていなくても、途中の時代にお話になり劇になりで次第に神格化が進んだ人も多いんじゃないだろうか。それを権力者が取り上げる事がナショナリズムの気運を盛り上げ、国の統治に役立ったかもしれない。中国では今でも亡くなった政治家を再評価して神格化する事が多い。自国の営みの中であれは間違った歴史だとは言いたくないのだろう。もちろん中国ばかりではない。


6.囲む
日本の現代の建築物は外界ときっちり分けるように扉が閉まる。中で誰かが死んでいても数ヶ月間気づかないこともある。昔の家は(30年以上前)縁側があって道を誰かが歩くとお互いに眼が合って挨拶するほどだった。覗こうと思わなくても中のちゃぶ台まで見えていたりしたし、声がして出てみると誰かがうちの縁側に座ってまっていたりもしたものだ。

それがいつの間にか敷地の境に安いコンクリートブロックの塀を立てたり、表から見るとコンクリートの壁にしか見えないような家、柔らかなピンク色の壁と洋風の小さな玄関ドアと車が入る穴のような部分しか露出していない家ばかりが建つようになった。

こんなに変わっても、日本人の男性は家に帰っても「○○会社の△△さん」だし、女性は「××ちゃんのママ」だったりする。家と街は壁で囲まれても心の中の境目はグラデーションなのだろうか。


7.建築への街や自然の導入
人間は人工的に作り出した街や自然の中でも、自然にできたそれと同じような行動をするのだろうか。そうであればその行動パターンを建築の中に再現することで建築は何かを得るだろうか?

街にはいろいろな人がいる。あたりまえだ。街が建築に導入されればそのいろいろな人々が建築に入って行くだろう。でも建築は意図的に作られるもので、プランの中には使う人を想定していたりする。建築の中の人工街の入り口でパスポート、銀行口座の有無、その他の入場資格の有無などを確認したらそれは街ではなくなってディズニーランドになるだろう。

建築に自然を導入したら虫も入って来る。夏は蚊に刺されるかもしれない。そんな所には絶対に行かないだろう。でも蛍だったら許す。建築に自然を導入すると言ってもそれは人間に都合の良いところだけで、完全な自然ではダメだろう。自然との共存を願っても街にクマが歩いていたら困る。人間はかなり自分勝手な動物だ。

共通して言えるのはコントロールできない無秩序を導入してしまうリスクがあると言う事だろうか。


フロアの端から端まで行くのにバスが必要なほどの工場で働いた事がある。そう言う建物の中に入ると自分の向いている方向もポジションも全然わからない。仕舞には時刻もわからなくなってしまう。工場だから街でのように人が歩いているわけではない。
それだけでとても不安に感じるものだ。

人間は群れや自然から離れては生きられない、それは本当かもしれない。
知り合いではなくても周りの人間の様子を見て自分の立場を決めたり、自然を見て心を落ち着けたりしているのだろう。建築は人工のもので、その奥に入るほどあまりに機能的で人工的で恣意的すぎるのだろう。籠に入れられた虫のように弱々しいものになってしまう。
だから適当な距離のところに群れがあり、自然がある事が必要なのだろう。


8.拒絶
拒絶することで外部の何かから内部の営みを守ることができるが、反対に外部との交流を無視して生活することになるし、内部で起こったトラブルから逃げ場も失う可能性があるだろう。周辺環境との共存は不要だろうか? 入り口が狭い=出口も狭い。


9.装う
「装う」意味は何か?
a.同化
b.異化
(c.その両方)

外壁を立てる事は同時にその内側空間を規定することになる。装いはそれにより内部空間と対立しないか? また装う事は偽者を作らないだろうか? 何かのスタイルを選ぶと言う事は、他を捨てることになるが、一部の歴史を肯定しながら別の歴史を否定してしまわないだろうか? 同化する事は公共性や社会性重視の態度であるが、新しい活力を殺してしまわないだろうか?


10.形から入るか?
テニスを始めるのに衣装選びから入っても上手くならないかもしれない。

兵隊「隊長、足が痛くてこれ以上進めません。」
隊長「馬鹿者、皇国臣民一億総火の玉となって闘っておる時に、キサマ何を言っておるか。足に靴を合わせるのでなく、靴に足を合わせろ!」

街や都市はいったい何のためのものか。
もし中国だったら「国家の威信を示すもの」であるかも知れないが、日本はどうだ?
最近の賃貸住宅のチラシには「近くにコンビニあり」と書いてある。コンビニはうちの冷蔵庫や物入れと繋がっている。銀行はお財布と繋がっていて、最近ではその途中に携帯電話やプラスチックのカードが介在する事もある。公園は庭で、家のテレビは電波を通じていろいろな場所と繋がっている。インターネットも同じ。
そう考えると街も都市も家も、家の中身も同じ目的のもののようだ。

だったらそれらを作るのにどこから手をつける?


動物園のオランウータンは毛が長いし地面に座る。自然の中でのように枝で毛が擦り切れることもなければ、伝って渡れるだけの密度で木が生えているわけでもない。オランウータンは地上30cmの高さでも木につかまっているものだ。動物園は人に見せるための形態をしているがオランウータンの生活のスタイルを反映しているものではない。

2007/09/04

建築環境工学

1.光の性質と照明など
外的刺激を扱う場合に注意しなければならないのが、「物理量」と「心理物理量」の違いだ。

例えば、光量を扱う場合に用いる[lm](ルーメン:光束)は光の物理量と「標準比視感度」の積で求められる(実際にはそれに比例定数を掛ける)数値で、光の波長ごとに違う人間の眼の感度を勘案したものとしている。これを元にして照度、輝度などがそれぞれ求められる。

光の色については別途評価方法が異なる。


2.人工光源の特徴
使用電力、効率、演色性、寿命、補器の有無、コストなどによって用途が異なる。


3.音の3属性
これも音の大きさを評価するのに心理物理量を使用している。
音の場合、周波数によって聞こえ方が異なるので標準的な周波数-音圧レベルを示すラウドネス曲線に従った特性で評価。


4.空間における音のコントロール
快適な音空間を得るには外部からの雑音を効果的に遮断すること、内部の音を適度に吸音したり反射させるなどのコントロールが必要である。

a.遮音
遮音には主に2種類ある。

a-1.遮音壁を用いる方法。
主に高速道路などに設置する。

a-2.壁による遮音
単一壁、二重壁による方法がある。
但し、コインシデンス効果により特定の周波数で遮音効果が低くなる。二重壁でコインシデンス効果をキャンセルする方法も有り。

b.吸音
3つの方法がある。


5.熱の問題
熱の伝わり方には主に3つある。
伝導、伝達、放射。

これらによって人体と建物間、及び建物と周辺環境間でそれぞれ熱のやり取りを行っている。


6.結露
結露は冬場の窓ガラスでばかり起こるのではなくて、壁の内部で起こる内部結露にも注意する必要がある。なぜなら、建材は水分を含むものだから。


7.空気汚染物質
省略


8.換気
換気には大きく分けて2種類ある。
a.自然換気
b.機械換気

b-1.第一種機械換気
何にでも使えるが、室内圧と外部圧のコントロールに注意する。

b-2.第二種機械換気
室内圧が高くなるのでファン以外の隙間から空気の進入が無い。ファンからの空気をフィルタに通す方法でクリーンルームなどで使われる。

b-3.第三種機械換気
室内が負圧になるので隙間から空気が漏れることが無い。トイレなどで使われる。


9.人間の生理と心理
人間が外界から受ける刺激情報の量は、人間が感じている量とイコールではないことに注意する。例えば音のレベル[dB]は人間の感覚に合うように評価された心理物理量である。音の大きさのエネルギーが2倍、4倍と大きくなっても人間はその通りには感じない。感じる量は大きくなるほどサチュレートしてしまう。心理物理量=(係数)xlog(物理量)。


10.加齢
知覚機能の低下に注意する必要があるが、機能低下したからと言って突然それに合わせて環境を変化させるのは新たなストレスになることに注意する。
また単一の知覚機能の衰えが単独で起こるのではなく、運動機能低下との複合的な問題を引き起こすこともある点にも注意すべき。

2007/09/03

建築構造学演習のスクーリング申込み

建築構造学演習のスクーリングに申込んだ。
10月6日~8日の3日間、東京サテライト。
このスクーリングが今年度最後のスクーリングだ。

2007/09/02

構造力学演習のスクーリング 3日目

今日は最終日。
最後の方は新しい概念が出てきてかなりハードだった。

<本日の範囲>
静定トラスの解き方。(クレモナ図、と算式解法。)
応力度。(軸、せん断、曲げの各応力度の定義。)
(曲げ応力度だけ他の2つと少し違う。)
ひずみ度、弾性係数、フックの法則。
断面一次モーメントの定義。
断面二次モーメントと断面係数。
曲げ材の算定。(曲げ応力度とせん断応力度による。)
圧縮材の算定。(圧縮応力度、細長比、断面二次半径、座屈低減係数)

「断面二次モーメント」から「断面二次半径」を求めて、「座屈長さ」との比で「細長比」を求め、その値をもとに表から座屈低減係数を読んで許容圧縮応力度を調整した値と、材の圧縮応力度とを比較して安全かどうかを算定する。道のりは長い。


構造力学Ⅰのレポートを書きながら復習する必要ありだ。

2007/09/01

構造力学演習のスクーリング 2日目

今日は朝から昨日範囲の確認小テスト3問。
幸い難しいのは出なくて助かった。

<本日の範囲>
昨日の続きで単純梁の解き方。
但し、等分布負荷がかかっている場合。
(Q図が2次曲線になってしまう。)
片持梁の解き方。
(これも等分布負荷あり。)
静定ラーメンの解き方。
静定トラスの解き方。(クレモナ図、サワリ程度。)

クレモナ図は今までのと解き方が全く違うので分かり難い。
さて、明日もう1日だ。