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2007/07/31

ル・コルビュジエの都市計画

ル・コルビュジエの都市計画について調査している。
調査内容は前回ほぼ書いたのでここでは触れない。

ただ、困るのがル・コルビュジエの都市計画について「後世の都市計画に多大な影響を与えた」と多くの資料に書かれているにも関わらず、具体的にどの部分であるとか実際に行われた計画に影響を与えた事例、現在の計画方法でどう考慮されているか等を記した資料が全く見つからないのだ。後の批判意見だけはいくらか発見できる。

(ちなみに一つ前の記事に挙げたC・アレクサンダーも「パタン・ランゲージ」によって批判票を1票投じているらしい。)


どうもこの分野では新しい研究が多く出てきていて、過去の案は批判の対象として見られるだけのものになっているのかも知れない。

ル・コルビュジエは書物にして自らの案を丁寧に説明しているのでそれについて他人が意見を言う機会が多い事、計画が壮大過ぎて実行可能な思想と考えられなくなってしまった事などによって、「後世の都市計画に多大な影響を与えた」の一言で済まされるものになってしまっているように感じられる。

まるで神棚へのお供え物である。思考停止である。巨匠礼賛はこう言った後遺症も産むものなのだろう。




巨匠礼賛に組するわけではないが、ル・コルビュジエの都市計画について一言書いておく事にする。

「ル・コルビュジエの都市計画における思想は、人間生活の延長上に都市が存在すると位置づけるものであって、機能主義と言われながらもそこには人間臭さが感じられる。実行するのは国家であるとしたが、アカデミックでも権威主義的でもない人間中心の考え方については現在でも学ぶものが多いと結論付けたい。」

2007/07/27

「プレシジョン(下)」 - ル・コルビュジエ

この本は1929年にブエノスアイレスで行われた10回の講演内容(一部付加有り)をまとめた物の下刊である。


この刊で最も興味深いのは、ル・コルビュジエが実際に住宅のプランを作り出すプロセスを公開している点だろう。

・自由な平面構成
・自由な立面構成(ファザード)
・独立した骨格
・水平連続窓、あるいはガラス壁面
・ピロティ(住宅の足)
追加として、
・収納棚で不要家具を排除した内部

ここまでは他の本でも多く取り扱われている部分で、これは新しい技術を取り入れることで実現するもの。「自由」と表現している。石による組積構造よりは格段に自由と言う意味。

この自由を生かすために考慮すべき事
・経済性
・効率性
・無数の現代的機能の実現
・美

そして方法
・分類整理
・寸法決定
・動線
・構成
・比例関係決定

長くなるので詳細は割愛するが、例として実際建築された建物の名前も記されているのでル・コルビュジエの住宅を理解する一助になる内容であると思う。



都市計画の問題についても書かれている。
都市計画自体については別途、参考になる書籍が出版されているが、この刊では都市計画を遂行するにあたっての資金調達など、周辺状況についての考え方に詳しい。つまりは大規模都市計画を発表しても、資金調達に関して出される疑問点についての回等になっている。

まとまった敷地を開発するには資金が必要だ。この疑問に対して、開発することが逆にその土地の価値を高めることになり回収可能であるとの考え方。この考え方は現在では普通になっているが、ル・コルビュジエを原点としたものかどうかは不明。後世に影響を与える考え方であることは確かだろう。

2007/07/26

「プレシジョン(上)」 - ル・コルビュジエ

この本も都市計画学と現代建築論のために読んでいる。

この本は1929年にブエノスアイレスで行われた10回の講演内容(一部付加有り)をまとめた物の上刊である。(当然、下刊もある。)


ル・コルビュジエの都市と集合住宅と住居は全て同じ方法論の中にあるのだと、この本を読めばよくわかる。この1920年代に現在、もう21世紀であるが、ある都市に関する多くの問題点についての予言をし、さらに解決策まで出してしまっているようで興味深い。「介護や福祉」と「都市や住宅」を関連付けて考える意思のある方はこれを一読しておいても良いかも知れない。

また「現在の四角い建築が存在するのはル・コルビュジエ在ればこそ」などと言われるが、これが大きな間違いだとわかる。現在でも四角いガラス張りの立面を持つ高層ビルが多く建設されているが、これはル・コルビュジエが提唱した合理的「建設方法」だけを便利に用いているに過ぎない。狭い敷地にたくさんのフロアを積み上げる技術の結果であって、そこにル・コルビュジエの目指した物は何も反映されていない。



140ページに客船の話が出ている。
船室にはベッド、執務机、絨毯、洗面台、箪笥、鏡、電灯などが約15㎡の中に全て入っている。食事、台所は無いが、50人の調理人が2000人の乗客の食事を作っているので自分は1/40人の調理人を雇っている事になる。それで調理人の不足は緩和される。その他に20人の面倒を見ている使用人がいるのであるから1/20人の使用人を雇っていることになる。合計で1/40+1/20=3/40人雇っていることになる。

これは船の中の事であるが、これを我々の家庭生活にあてはめる。
それが「都市計画」と「現代住宅」の基礎になる原理と言及しています。

「まず、2階建ての住戸を作り、その裏側部分に1本の街路を通す。これを6m毎に重層する。」これは何の説明かと言うと「集合住宅」である。これにエレベーターを付け、屋上に庭園、体育室、プールなどを付けるのであるが、これはまさに「縦にした都市計画」と言えるものだ。街路であって廊下と言わない所に注目すべきである。


現在の高層マンションでは単に高さを重ねる事で容積をかせぎ、収益性を高くしているだけだ。外からちょっと見たところル・コルビュジエの集合住宅と変らないように見えるけれども、2者の考え方には大きな溝がある。


最近は住宅に関して「開かれた」をテーマに語られる事が多い。これは高齢化社会になって個別にその機能を充足できなくなって初めて言われ始めた事だと思う。閉じた住宅は夫婦+子供世帯ではそれなりに良かったが、子供が別居し親は高齢化して介護ヘルパーが出入りしなくては生活できない状態になった時に、地域と住宅の内部が壁で完全に仕切られた状態であるのが不合理になったと言う事だ。


もし我々日本人がル・コルビュジエのように集合住宅を造っていたならば、(お金の事ばかり考えていないで生活について真面目に取り組んでいたならば、と言い換えても良い。)現在の日本はもっと楽に高齢化社会を迎える事ができたのではないだろうか。

「輝く都市」 - ル・コルビュジエ

都市計画学のために読んでいるが、この内容は現在「持続可能な都市」を考える上での基礎資料としても読んでおく価値があるかも知れない。



ル・コルビュジエの考え方の中で「住宅」と「都市」は独立したものでは無い。
学問的に細分化した中に居る我々の頭脳中では、「都市計画」と言う立場からその街路などの部分だけを抜き出して考えたり、「住宅計画」と言う立場からその外部とは無関係な空間について論じる事は普通にあるものだ。

しかし、ル・コルビュジエは「都市計画」を論じる場合に人間の生活の意味での「住宅」と「住宅の延長」を定義するところから入る。

「住宅の延長」とは食料補給、家庭奉仕、保険衛生、身体保持、体質改善、学校、仕事、社交、とそれを繋ぐ交通によって定義される人間の生活に必用な全ての体系である。
「都市」はその延長上に存在するものである。



ル・コルビュジエはこの事を歴史方向からの考察によっても考える。

近代以前からの都市は、ロバや人が時速4km/hで通る「路地」の隙間に住居を構えて暮らす状況であった。産業革命以後その地に工場が出来、原材料や産品を運ぶ車がが往来するようになり、労働者や食料はその間を縫って往来する姿に変わった。つまり産業構造が変化し労働も変化したにも関わらず都市はその「廊下式通路」を変化させる事無く続いてしまった。工場はその立地を間違えたし、それを改善する計画も実行されなかった。


デカルト「自然が作り出したものと、人間精神が作り出したものとの間には一つの統一がある。」

つまり人間は、都市を「組織化」しなければならない、と考える。
組織化は都市や住居に生物学を適用する事、個々が全体の一部として完全に機能するような「調和」を目指す事である。


具体的には
まず「土地の占拠」の問題を整理する必要がある。
・行政の中心地であった従来からの同心円上にあって放射状をなす町は「商業都市」となり、商品の交換の中心となる。
・原材料の補給と商品の搬出に使われる道路に沿って工場を配置した直線状工業地帯(直線状都市)は商業都市と交差する。これらは同心円状都市の衛星都市となる。
・上記2者によって区切られた三角形地帯では農業が行われ、農民生活の容れ物となる。

都市においては時速4km/hの移動手段と時速50~100km/hの自動車が完全に分離されることで、住居や事務所となる建物が完全に機能する。
完全に機能すると言うのは「太陽」「緑」「空間」の3要素を満足する事である。
消極的な言い方をすれば、従来の都市にあった不都合「交通の混乱」「街路からの騒音やホコリ」「住居が太陽光に向いていない」「住居の周囲に緑が無い」と言う廊下式街路の制約と圧制からの開放である。


住宅は郊外に無限に広く拡散する「拡散する都市」となることなく、高さ方向に成長させ「集中する都市」。これにより住宅から仕事場まで長時間通勤する必用なく生活が可能である。

これはまた、水平方向の交通(自動車)より垂直方向の交通(エレベーター)の方が総合的に考えたエネルギー効率が良いと言うことである。




最後に、ル・コルビュジエの都市計画を「Static(静的)」であると表現する事があるようだが、これを読んだ中ではそうは感じられない。そちらの意見もどこかで読んでみる必要がありそうだ。

参考書
「輝く都市」 ル・コルビュジエ 板倉準三 訳 丸善
       (鹿島出版会のものでは無い。)

2007/07/20

夏の宿題...らしい

雑誌Casa BRUTUSで『「ル・コルビュジエ」はこの夏の宿題です』ってやってる。

本屋で立ち見してみた。
ル・コルビュジエ関係の本の中の写真はほとんどどれを見ても同じだから、この雑誌の写真はちょっと目に新鮮だ。そうか、ドミノシステムは木造のためのアイデアだったのか、などと基本的なところに感心してしまう。


それはそうとして、この雑誌っていったい誰が読むものなのだ? 誰向けなんだろう。続けて出ているのだからいつでも一定の人が買っているんだろう。不思議だ。建築関係の人向けだったら内容はそれほどでも無いし、一般の人がル・コルビュジエでもないだろう。疑問だ。


それも置いといて、こっちが夏の宿題になりそうだ、ル・コルビュジエ。現代建築論。

2007/07/07

国立西洋美術館を見てきた



唯一日本にあるル・コルビュジエ作品、「国立西洋美術館」を見てきた。

驚いたことに建物内部で写真撮影可だ。但し、ストロボとシャッター音は禁止。


写真はその内部通路。頭上のアルミサッシのような部分も当初は展示用通路であったとのことだが現在は倉庫のように使われているらしい。それにガラス裏からの照明ともなっている。その部分の高さは手を上に伸ばしてあと10cm程度の高さだったから、モデュロールの一番上の高さよりは少し高い位だと思われる。前回森美術館に再現されていたル・コルビュジエのアトリエ等の実物大模型では手を頭の上まで伸ばして立つと、丁度指先が天井に触れたから少し違うのは確かだ。

全体としてはなるほど、プロムナードだ。正方形の角を曲がる度にちょっとづつ展示スペースが違っていて軽い迷路感覚がある。美術館自体がアイデア段階より小さくなったためか、それとも所々に外側向きの窓があるせいか、全く自分の位置がわからないと言う事ではない。天井は高い部分と低い部分が交互に現れて、高さ方向にもリズムが付けられているようだ。ただ、その事によって壁面に制約が生まれるので展示したい美術品のレイアウトが自由にできないのではないか、と心配になる。

他の美術館では高さ方向にはかなり余裕を持たせていると思われるが、ここはそれとはずいぶん違って空間がこじんまりしている感じである。だが、建物自体がそれほど個性を主張しているでもなく、展示してある美術品が目立たないと言うこともない。

これに接続された前川國男氏設計の新しい展示室は天井にかなりの余裕があって広々としている。続けて見ることになるのでどうしてもそのコントラストが目立つ。後者の方が普通の美術館のように思える。ノーマルに近いと言うか個性が無いと言うかはわからないが。もちろんどちらが良い悪いと言うのではないけれど。

2007/06/26

森美術館「ル・コルビュジエ展-建築とアート、その創造の軌跡-」を見てきた

ル・コルビュジエの建築に「触れる」またとない機会なので見てきました。

「触れる」と言う意味は文字通り「手で触れる」と言う意味。
「パリの自宅アトリエ」、「カップ・マルタンの休暇小屋」、「マルセイユ・ユニテ」が実物大で再現されていてそこを歩いて見て回ることができます。なかなか簡単に海外視察もできないのでこれは貴重な経験です。「自宅アトリエ」などは図面に忠実に微妙な平行四辺形で建てられています。ちょっと見て通り過ぎると普通の長方形かと思いますが手抜きはしていないわけです。ただ、プロムナードを体験できるほど展示スペースが無いのは残念でした。せめて太陽の光は再現していただきたかったと思います。


この展示の中で最初に驚いたことは、家具の造りです。
今売っているル・コルビュジエデザインの家具ではなくて、試作品のイスとか自邸で使用してた一品製作のテーブルが、何と量産を意識した設計になっていることに驚きました。パイプの角のRのパーツがどこも同じパーツを溶接したものだったり、足の床につく部品が汎用品であるのかまたは試作型からできたものか、それが木製であっても引物です。パイプ曲げも、LC4(イス)の微妙なRだけがカッシーナモデルで省かれて直線になっていただけで、どれもベンダーを意識したとしか思えない曲げです。テーブルは贅沢な一枚板のテーブルのように見えて、実は合板ですし、その引き出しをスライドするレールも合板に溝加工してあって別に余計な部品が必要ないものになっています。
どう見ても機械で量産する方法をよく知っている人のデザインなのです。
こう言う事は写真で見ていてもわからないものですね。


この展示の特徴はル・コルビュジエの絵や彫刻が建築模型や図面といっしょに展示されていることです。それを見ると、彼は建築でも絵でも結局同じものを作り出しているのだろうな、と思えてきます。ロンシャンの教会堂で当時のモダニズム建築らしく無さに人はびっくりしたのだそうですが、建築ばかりでなく絵や彫刻も見ていたら相当その印象は変わっていたのではないでしょうか。

よく見ればあの絵にあるバイオリンの曲線が他の(実現しなかった図面も含めて)建築にも少しづつは現れているようです。コンクリートの自由を手に入れたル・コルビュジエではありますが、やはり直線の魔力(効率を求める上でと言うことも含めて)には抗し難く、その結果「四角」が多用されたのかもしれません。しかし「四角」に本質のを見ていたのはル・コルビュジエでなく、見る方だったのだと思います。

直線(単純明快な美しさと効率の良さ)、繰返し(カルピスの包み紙のようなものや比例のようなもの。お店の店頭に小さなキューピー人形とかビニル製の豚が並んでいるだけで視線が引かれます。)、単純さ(把握しやすいモチーフなど)には人間はなぜか心惹かれるものです。そう考えれば皆がル・コルビュジエの「四角」に目を奪われるのもわかりますが、反対にそこに多く注目をしてモダンを論じるのはやはりおかしかったのではないかと感じます。(ちゃんと勉強している人はそうでなかったでしょうけれど。)

前の時代に無い「四角」や装飾の無い「白」、そういった表面的なことに目を奪われなければ、そこにあるのはやや古典的とも思える言葉ですが「比例」なのだと思います。ル・コルビュジエはギリシャやローマのモチーフを使わないパラディオのようです。



そう言えば、ル・コルビュジエ以後の日本の有名建築家の作品はル・コルビュジエのアイデアをモチーフにしているものが多いのにも気付きました。建築家になるような人はル・コルビュジエを熱心に研究していると言うことでしょうか。


ル・コルビュジエについてはいろいろな書物が出版されていて読むのもたいへんな位ですが、それらの中身は二次情報ばかりなので、今回のこの「ル・コルビュジエ展」は貴重な一次情報を提供してくれるものだと思います。

森美術館

映画「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」を見た

ル・コルビュジエが「住宅は住むための機械である」と言ったその真意は「美を実現するためには機械を見方につけるべきだ」と言うようなものだったと思う。(「それは違う」って言う人もいるだろうけれど。)


フランク・ゲーリー氏はコンピュータを見方につけたらしい。(映画ではコンピュータを「パソコン」と訳していた。カッコ悪い翻訳だ。)それはただの道具に過ぎないけれど、やっぱりアメリカらしいと思わないわけにはいかない。古いオーソライズされたやり方から、とりあえずでも何でも新しいものも使ってみる姿勢、これはやっぱりアメリカらしい。

カリフォルニアやNYのワインがこんなに短時間でフランスに勝るとも劣らない味になったのも人工衛星とコンピュータの技術を使ってみたからだし、新しい経営の理論、新しい装置をそれが有用そうであれば、以前がどうだったからと言う理由で躊躇(ためら)ったりしないのがアメリカ流なのだろう。


もちろんフランク・ゲーリー氏がコンピュータに頼りきっているわけではなくて、氏の本当の凄さと言うか面白さは自分の発想に制限を設けない事らしい。「爆発させた(褒め言葉)」と言う人もいるけれど、それは自らの美観に忠実であること、オーダー(映画ではオーダーを比例と訳していたけれど、建築書では比例とオーダーは分けて書かれる事が多い。)のような他人の考えた美感に頼らないことが産み出しているもののようだ。それに、ダメだとわかったらいつまでも同じアイデアにこだわらない事も。

そう言う意味で、同じようにマシンを見方につけてはいるけれど、ル・コルビュジエの美はルネサンス時代の美でフランク・ゲーリー氏の美は心の中をえぐり出すような現代美術かもしれない。

それなのにビルバオのグッゲンハイム美術館について「新しいのに100年も前からそこにあったかのよう」に感じるのはどうしてだろう。比例より以前の自然の美が人の(フランク・ゲーリー氏の)脳から出てくるからか。


(ル・コルビュジエがルネサンスなんて言ったら笑われるでしょうか。でも彼の美学はそのモチーフを使わないだけで、古典的比例を具現化したものなのだから。)



映画の最後に「彼と同じようにしたってフランク・ゲーリー氏のような建築家にはなれない」と釘を刺してあるのも面白いとおもった。


「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」公式サイト

2007/06/17

新日曜美術館(070617)~ル・コルビュジエ~

NHK教育TV
「新日曜美術館~近代建築の父 ル・コルビュジエの真実~」が放送されていました。
(再放送あり。今夜20:00~21:00)

森美術館でやっている「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」に連動した内容です。普段写真と言う固定した視点からしか見られない建築を実際に歩いたようにして見られるののが良いと思います。




ル・コルビュジエの建築を(写真で)見る時に、まずその「四角さ」を見てしまう。その「四角さ」と「モダニズム」を結びつけてしまうところに見る我々の限界があったのではないだろうか。そして「住むための機械」と言う言葉を聞くことで一種の固定観念ができてしまうのかもしれない。さらには同時代のミース建築、そのちょっと前のライト建築やキュービズムがそれを補強する。

ル・コルビュジエの描いた絵、その建築における比例を総合して観るときに、ルネサンス後期のパラディオを思わないわけにはいかない。モチーフに対して自由すぎると言われても、異様と思われても、そこに一貫してあるのはやはり何時でも「比例」であり「美学」なのであって、現在的な定義における建築と言うものではないように感じられる。

だからル・コルビュジエの建築に「四角さ」を見てはいけないのではないだろうか。

2007/06/15

ル・コルビュジエ その2

ル・コルビュジエについて2冊ほど斜め読みしてみた。


建築の内部空間について、ル・コルビュジエがどう考えているかについての記述。
「建築とは内部のサーキュレーションであるとは言えまいか。無論、単なる機能的な意味ではない。建築とは内部空間におけるサーキュレーションだと言うのは、むしろ情緒的な理由による。建築作品の様々な表情-決して忘れ得ぬ交響曲の美しい調べ-は歩を進めるにつれてその全貌を現し(中略)。内部空間におけるサーキュレーションの質が、生物のように建築を作品としてまとめ上げる。」※1-p38~39

建築家が学ぶべきことについての記述。
(伝承文化を利用するだけに陥ってしまったアカデミズムに対してと言う意味で。)
「自然、意識、そして芸術こそが、我々が意を決して学ぶべき課題のすべてであるとわかったであろう。」※1-p56

ル・コルビュジエは建築を「芸術」に属するものと考えていた。
「機械とともに歩む」必要があるのは、云わばそれが時代の流れであり、美学上の「比例」を表現する手段として「機械を使う」と言う立場の表明である。つまり、ル・コルビュジエはあくまでも「芸術家」と言う建築家なのであって、「技術者」とは一線を画す。

現代建築論のテキストになっている「20世紀建築の空間」(瀬尾文彰-彰国社)の中で、「有機的」と表現されていた。これはミース建築の「均質空間」に対照して言われたもので、確かに区分けされた空間と空間が一つの大きな囲いの中で関係を持つように構築されていると言う意味では「有機的」である。しかし、他の建築における「有機的」とル・コルビュジエのそれが随分違っている印象は拭えない。

それは、簡単な言い方をすればル・コルビュジエが、我々と同じような「生活者」ではなかったからだと思われる。空間と空間の関係はル・コルビュジエが歩く事によって次々と変化する風景の展開におけるものを意味し、映画の場面展開のようなものなのである。多分ル・コルビュジエは床に掃除機をかけなかったであろうし、自分で魚を焼かなかったのではないかと思う。


そう思っていたら、別の資料にこんな記述があった。
「アラブの建築は、足で歩くことによって理解されるものである。歩いて、動いて、やがてその建築の秩序を知ることができる。ところが、これはバロック建築とは全く逆の原理だ。(中略)まさにアーキテクチャル・プロムナードが導入されている。これによってたえず変化していく眺めが展開される。それは予期することができず、時には驚くほど素晴らしい眺めである。」※2-p41

これは東京の西洋美術館のためのアイデアに限定されるのではなくて、ラ・ロッシュ邸(1923年)における「散策斜路(プロムナーディング・ランプ)」にまで遡るそうだから、建築家として活動し始めた割と早いうちに建築家としての態度を決めてしまって、そこから大きく動く事がなかったのではないだろうか。


ル・コルビュジエの設計した家に住んだ感想を書いた資料は無いものだろうか?
できれば自分で一度住んでみたいものだ。



参考書はル・コルビュジエについて盛り沢山の内容で、ここにその概要を書ききれるものではありません。いろいろな意味で資料価値があるものだと思うのですが、ここでは初学者として「ル・コルビュジエってどんな人?」という初歩的なところに絞って読んでみました。


参考書
※1「建築家の講義 ル・コルビュジエ」岸田省吾 丸善
※2「ル・コルビュジエと日本」高橋秀爾(しゅうじ)他 鹿島出版会

2007/06/10

ル・コルビュジエ その1




現代建築論(選択)の参考図書「第一機械時代の理論とデザイン」から"ル・コルビュジエ"に関してまとめてみた。

この参考書では近代の建築の思想史が解説されていて、コルビュジエに関しては1920年代を辿っている。

テキスト「20世紀建築の空間」の中では「ル・コルビュジエの幾何学的な箱の中には、生活と言うもののまるごとのイメージあるいは人が生きることへの夢がおさめられていた。」ことで、その建築から受ける第一印象とは違い「有機的である」ように書かれています。しかし「第一機械...」の方では(1920年代)「機械とともに歩むべき」となっていて、この時代には未だその具体的生活のイメージは限定された人々(つまりは建築家のクライアントである中産階級以上)のものだったように思える。今ひとつ有機的であるかどうか納得しかねるところあり。



「家は住むための機械」とは。
読んで字のごとくわかる、と思える言葉だ。工業の発展に刺激されて「これからはこう言う時代」と感じた故の言葉かと思っていた。確かにそう言う面はあるけれど、それ以前にこの言葉には前提条件があったようだ。

・伝統的、古典的なモチーフを用いて建築を構成する事の意味が無くなってしまった時代であったこと。
・機械化、工業化は同時にやってきた。(ある意味、たまたま同時に来ただけ。)しかしこれは産まれる次から滅びる運命にあるもの。
・残っているのは人間の理性(幾何学)と情熱からくる「美学」だけ。これは滅びない。そしてこれは建築の仕事である。
・ここに新しい調和、規律を作らねばならない。これが「住むための機械」と言う選択。(ルネサンス期のパラディオに似た発想。)


(画像をクリックすると読み易くなります。それでも読めないならコメントください。高画質に差し替えます。...必要ない?)

2007/05/26

森美術館「ル・コルビュジエ展」始まりました

森美術館で「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」が始まったようです。9月24日までと、ちょっと長い開催なのですぐに行かなくても大丈夫そう。

「現代建築論(03340)(選択)」のレポート第1課題のための取材になるかも?

ル・コルビュジエと言う人の名前は建築素人の私でもよく耳にします。氏に関する書籍も多いのは知っています。そして氏がいなければ今どこにでもある四角い建物はこの世に存在しなかった可能性すらあるとの事。言ってしまえば現在の多くの建物の造物主、つまり神様みたいな存在と言えるのでしょうか。

そんな人が自分と同じ人間と言う種類のものであって、どんな人であったのか興味が沸いてこないはずはありません。もちろんこれも建築を勉強し始めたからなのですが。

「ル・コルビュジエ展」行ってみようかなあ。(学割で。)