2007/08/31

構造力学演習のスクーリング 1日目

今日(8/31)から9月2日までの3日間、構造力学演習のスクーリングあり。

<本日の範囲>
単位の基本(質量と重量の違いなどの基本的な事)
モーメントの求め方
力の合成と分解
力のつりあい(つりあいの方程 ΣX=0、ΣY=0、ΣM=0)
支点、接点、梁、トラス、ラーメンのいろいろ
構造物の反力と求め方
部材に生ずる力(軸力、せん断力、曲げモーメント)
N図、Q図、M図の描き方


明日一番で確認試験があるので復習しておかないと。

2007/08/30

美の法則

リンク集に「美の法則」と言うページを入れてみた。

建築を考える上でどうしても美の問題は出てくる。そんなの個人の感性の問題だと言う向きもあるかもしれないけれど、「いいや、美には絶対的な法則があるぞ」と考えていた人は歴史上多いので気にしておいた方が良いかもれない。

こう言う問題を真面目に議論しようとか答えを出そうとする事は割合軽んじられているらしく、参考資料があまり無いようだ。こんな本もあるが、忙しくてまだ読めていない。

「建築美を科学する」小林盛太 彰国社



それより明日は建築構造力学のスクーリングだし、来週は2科目試験なので当分この問題はお預けになりそうだ。

2007/08/28

本を無くす

先日川越に行った時に、東武東上線で本を無くしてしまった。
C.アレグザンダーの「まちづくりの新しい理論」だ。

今日、東武に電話してみたけれど無いようだったので図書館に言ったら、時々マークを見て連絡をくれる方もいるとの事なのでもう少し待って出てこなかったら紛失の手続きをするようにとの事。

Amazonで調べたら1890円でまだ売られている。絶版本じゃなくて良かった。

2007/08/26

川越の街並みとライトの明日館



川越の一番街商店街。(川越市)
パタンランゲージを使って街並みを整備した商店街。改築したり新築した建物も元々ある「蔵造り」に習って建てられていたり、大正時代の洋風建築(中身は木造なので看板建築とも言える)があったりで見た目、なかなか特徴ある街並みになっている。

細部を見ると観光用に偽者を作った感じがしないでもないが、それは生活とこの形の建物がどう関わっているか、つまり表面の形だけなのかそれとも生活のスタイルに関わるものなのかが一度の訪問ではわからないために何とも言いようがない。

大正時代の建築だってもともと看板建築であるし、それにこうする事で商売が成り立つのであれば深く考えなければ生活密着型の街造りなのかもしれない。しかも元がこうであったのだから、全くの作り物でもないわけだ。

パタンの1つに「職住一体」と言うのがあるために、お店の裏と2階はほとんど住居になっている。お店には住居が付いているので、観光客が多くなったからと言って大資本のチェーン店が入り辛いのだと考えられる。これは地元の人にチャンスを与える形の活性化の成功例じゃないだろうか。他の街の活性化ではしばしば、消費地は作られるが地元にビジネスチャンスを与えるものにはならない。手っ取り早く成功していて無難な企業の店舗を誘致するだけだからだ。この点で川越のやり方は凄い効果を得ているのではないだろうか。



フランク・ロイド・ライトの明日館。(池袋)
日本初の2x4建築だそうだ。見た目が鉄筋コンクリートのようだったので誤解していた。だから壁をたたくとポコポコする。

この建物を正面から見ると屋根の上に向こう側の高層ビル群が見えてしまってとても風景に調和してはいない。これができた頃(1920年代)は屋根の向こう(北)には木が茂っているだけだったそうで、もったいない事だ。ただ建物の内側から色の無いステンドグラスを通して庭側(南)を見ると芝生と2本の桜の木が青々と葉を茂らせていて落ち着く雰囲気だ。壁や天井や床やテーブルの色も良く合う。

これをネタに現代建築論のレポートを書こうと思う。

2007/08/25

明日は見学会


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池袋にある自由学園「明日館」(フランク・ロイド・ライト設計)



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川越一番街商店街
C.アレグザンダーのパタン・ランゲージによる町づくりが行われた蔵造りの街。

受験票到着

9月8日、2科目受験(東京)の受験票到着。

1限目:建築環境工学
2限目:建築デザイン論

今回は両方ともに印があった。
前回は片方忘れられていて大学に電話しなければならなかったが。
さて受験勉強に入りましょうか。

2007/08/23

ディズニーから

ディズニーのハリボテ建築の事を考えていたら、看板建築を思い出した。

フランク・ロイド・ライトが有機建築、建築は内側からと言っている事からすれば看板建築、ハリボテ建築はその対極に位置するものだろう。逆に、建築は見た人に何らかのインパクトを与えなければならないと言う人もいる。看板建築やハリボテ建築は確かにインパクトを与える。どちらかと言えばインパクトを与える、単にそれだけの建築だ。ほとんどの蕎麦屋さんはそれで商売している。

(内側から原理的に蕎麦屋である蕎麦屋ってどんな蕎麦屋だろう?)

建築には自然界の構成原理を、と言うけれどそれは一体何の事だろう?
フランク・ロイド・ライトは自然について言及しているけれども決して自然の真似はしなかった。花が綺麗だと言ってそのまま建築に貼り付けたりはしていない。しないけれども周囲の自然との調和を目指した。逆にガウディはそれをした。ガウディの建築にはインパクトがあるが、フランク・ロイド・ライトのそれには調和がある。

自然の形を貼り付けても、木の枝の力学がそのまま建築に移るわけではない。貝殻の丈夫さと建築の丈夫さは違う原理に基づくものになる。木の枝はその先にある葉だけを支えるが、決して屋根は支えない。(時々サル位は支える。)枝は風が強いと揺らいで凌ぐが建築は枝の先がまた下に向って土の中に入る。

自然の構成原理を用いた建築によって人間が自然を感じられるかどうかは微妙だろう。それに自然は人間に優しい時ばかりではないのだし。


普通の現代建築は(近代建築以降)、壁を作ると自動的に外と内ができる(例外は除いて一般的に)。しかし看板建築とハリボテ建築では、壁の裏表の法則は成り立たない。確かに無駄な空間ができたり無駄な壁厚ができる。確かにこれは欠点だ。


今時、「お寺」は鉄筋コンクリートで作られる。だから構造や機能から言えば大きな傾斜した屋根、柱から生えている作り物など必要ではない。お寺の屋根が平らで全面ガラス張りだって機能としては遜色ないだろう。むしろその方が今や快適かもしれない。

(フランク・ロイド・ライトもルイス・カーンもル・コルビュジエも近代建築で教会やシナゴーグを提案しているのだから仏教のお寺だけ取り残されているのか?)

ルネサンス時代の建築は"人間的な"などと表現されるけれど要はギリシャ、ローマの形を「装飾の為」に使ったハリボテ建築と言えなくもない。神殿に使われたオーダーを人の家や別荘に用いて飾っただけなのだから。それらは装飾のための物。

ビオトープ、これも偽池、偽自然?
街路樹も偽自然?


スーパーで偽ハムを買って偽パンに偽バターを塗って挟んで食べている我々にとっても、プラスチックの偽樹木、偽山、偽ツリーハウスはタブーなのだろうか?

そう言えば多摩動物園のアフリカゾウ舎にある偽バオバブの木も魅力的だ。


参考
あひる

スクーリング申込み + <オマケ>

9月のスクーリングの申込みをした。

CADⅠ:9月15日~17日
建築設計Ⅰ-1:9月22日~24日

いつものように何かの手違いを心配して、セブンイレブンで申込書のコピーをとっておく。よしよし。

スクーリングは1科目3日で15,000円。
と言うことは1日(午前と午後)あたり5,000円になる。




ディズニーランドの1日パスが5,800円。(こっちが割高)
同じく2日パスだと10,000円(これで同じ)
同じく3日パスだと12,900円(こっちが割安)
どっちが良いかと言うと...

ディズニーは消費だけだけど、スクーリングは知識をくれる分お徳だろうか。
でも、もともとディズニーなんて行かないんだよ。
(本当は東京と香港に各1回行ったことある。)


<オマケ>
行きたいかどうかは別として、ディズニーランドの建築は面白いと思う。

遠くから見れば普通の建築物に見えるけれども本当はハリボテ。あの大きなお城も何もかも、もともと2次元の絵だったものを人間が入れる大きさに伸ばしている。あのデフォルメされた絵を大きくしてもちゃんと絵の中のイメージで見られる。

例えれば、チョロQを先に作ってからそれを実車にしたようなもの。あれを大人が真面目に作っているなんてすごい。お城は元々が絵だけれど、それを描いたアメリカにモデルになるものなんてあるわけない。ヨーロッパに対するコンプレックスの表れだろうか。それをパリに輸出してしまうのも可笑しいけれど。

ターザンハウス(ツリーハウス)なんかは魅力的だと思う。木までプラスチックだけれど、バスルームやキッチンを加えればもしかしたら本当に住めるんじゃないかと思う。(木の中も部屋にできるから床面積は見た目以上に相当とれるだろう。)あれで台風にも壊れないんだから本当にコピーを作って、いや図面だけでも、売ってくれたら良いのに。

自然の原理をどうのって言いつつ都会的なツルツル建築を作るならディズニー方式の偽ジャングル建築だって許されるんじゃないだろうか。楳図かずお邸の赤白シマシマとどっちが許されるだろう?


ディズニーランドの設計は既に3次元を超越していた!-イエイリ建築ITラボ

2007/08/22

フランク・ロイド・ライトも難しい

哲学者ルイス・カーンに続いて文学者フランク・ロイド・ライトも分かり難い。

参考資料
「ライトの遺言」フランク・ロイド・ライト 彰国社
「建築について(上)(下)」フランク・ロイド・ライト 鹿島出版会

建築家の作品を誰か別の人が解説しているのを読む事もできるのだが、書かれた時代によって解釈がまちまちであるし偏りもあり、あまりあてにできない事も経験済み。特に建築家の書く巨匠本は語彙が詩的な場合が多くて普通の日本語として読めないものも多い。なので今回も本人の文章から入る事にした。

しかし残念ながら、結局、分かり難いのは同じであった。
フランク・ロイド・ライトは文学者であった。何について言っているかわからない比喩が多すぎる。比喩の多くはボザール批判らしいのだが、これはその時の状況を先に知ってからでないと理解し難い。しかし、そんな比喩表現の多いところはだいたいボザール批判なので真面目に隅から隅まで読む必要はないだろう。同じ批判発言が何度も出てくるだけだから。

フランク・ロイド・ライトの建築を要約すると以下のようになる。
1.建築は内部から
2.有機的であるべき
3.単純
4.民主主義


1.建築は内部から
これは2通りの意味があるようだ。
a.人間の魂の内部から出る自由による建築
b.人間の生活する内部空間から出来る建築
bはあまり使われていないが、aは「あらゆる原因結果の内部的要因」のように強調している。


2.有機的であるべき
他の建築家の言葉の中にもよく出てくる「有機的」であるが、フランク・ロイド・ライトの使用が最初なのだろうか? 文学的な使われ方で定義がはっきりしないのがとても困る。(等と書くと建築を勉強されている方々からお叱りを受けるだろう。)

フランク・ロイド・ライトの場合にはまだ明確に「自然の摂理」を意味していて、他の建築家の文章にあるように単なる「こっちの空間とあっちの空間の密接な関係」と言うようなものでは無い。

またこれは、1の内部的要因とも関連していて自然の摂理が生粋、真実、発端のようなものと言っている。であれば建築は有機的であるのは自然な事なのだ。もちろん全体の中の部分、完全性と言う(実際の自然から離れた)抽象的な意味も含む。


3.単純
日本の版画を引き合いに出して「単純さの福音を説いた」と言っている。作品そのものの中に表現された有機的な完全性こそが「美の法則」とした。花を見て美しいと感じ、その模造品を作るのではなく、「様式化」によって美の根本を表現することである。


4.民主主義
人間の自由はその内より得られるものである。人間の自然なあり方としての民主主義。建築は自由に開放的にデザインされるものである。(人間的自然)
これはアンチ-アカデミックとしても説明されるが、フランク・ロイド・ライトの生きた時代の事を考えれば当然であろう。建築に「民主主義」と言う言葉が使われるのは現代日本から見れば驚きである。


その他
フランク・ロイド・ライトの活躍したのは1800年代後半から1900年代中頃と広く、その建築の見た目もかなり違っているように思う。特定のスタイルは重要でなく、その根本が大切であるとの部分で一貫しているのだろうと思われる。(簡単すぎるまとめである。)

8月26日に実際のフランク・ロイド・ライトの建築を見てみる予定。

いきなり2つ成績発表と1つのレポート返送

たった今、2つも成績がついてしまった。

建築造形Ⅰ A (スクーリング)
建築造形Ⅱ A (課題だけ)

都市計画学 B (選択)これはレポート返送のみ。後日試験あり。(11月)



以下、講評と反省。

建築造形Ⅰ
スクーリングでの模型製作なので何ともコメントなし。

建築造形Ⅱ
初めてのパースでしたが、講評は「作画が丁寧で内容も理解している」とのこと。3点法で影を描くのが難しかったけれど、どうやらOKだったらしい。

都市計画学
「ル・コルビュジエの都市計画」と「川崎区のマスタープラン分析」の両者ともに実際の計画(ル・コルビュジエならパリ計画、川崎区はマスタープランと実際の都市の様子)と分析を比較して分かりやすくすべきとの講評。もう少し具体的資料を添付すべきだった。レポートを書く時に山ほど資料を読んでしまっていて、その勢いで書いてしまうと客観性に欠けるものになってしまう事に注意すべきであった。

2007/08/17

「ルイス・カーンの全住宅」と言う本

「ルイス・カーンの全住宅」斉藤裕(さいとうゆたか) TOTO出版

やっとこの本が只の写真集ではなくなってきた。
もちろん本が変ったのでなくて、読んでいるこちらが変ったからだ。

この本の美点はフィッシャー邸の元オーナーの言葉が書かれている点だ。有名建築に住んだ感想など他にはあまり無いだろうから。



しかし、本文に関しては少し言っておきたい事がある。

P12「空間を分ける」と言うところだ。
分けていると見るのは正しくもあり、間違いでもある。どちらかと言えば間違いに近い。

出来上がった建築を見れば確かに「分割」してから「接続」しているように見える。しかし、これは見る我々が機能主義的な前提で見ているからであって、実際にはルイス・カーンは分割などしていない。

そこにいる人間の行い(イベント)に空間や壁が最適な距離まで寄って来るのだ。寄って来るのは一つの「家」と言う物から分けられた一部ではなくて、全然別個の物である。それらが寄って来て共同体を構成するのである。従って結果的に分割されているように見えるけれども、ルイス・カーンにはもともと空間を分けると言う思考は無いのである。

「分ける」と言う言い方をしてしまうと、機能毎に分けるパーティションが独立して壁に変化したように聞こえる。パーティションと壁はルイス・カーンの空間の構成方法においては全く別のものであると考えられるのだ。


言い方だけかも知れないがこの本の中で気になった点である。

ルイス・カーンが見えてきた

ルイス・カーンは分かり難い。

「ルイス・カーン建築論集」を読んだ。
1章から10章まであるが、どの章も同じ事が書かれている。これなら1章だけ読めばそれで済みそうなものだが、巨匠の言葉だけに本を編集するにあたって捨てるのはもったいないと思ったのか、同じ言葉がお経のように繰返し載せられている。本当にほとんどコピーかと思う位に同じ繰返しで、読んでいると間違えて前に読んだページをまためくってしまったと錯覚してしまうほどだ。

内容はルイス・カーンの哲学そのものだ。
空間の構成方法やら何やらの具体的な事は全く言われていない。一見、言葉がその建築作品の具体的な形の裏付けになっている感じが全くしない。難解なのである。

しかし、門前の小僧もお経をずっと聞かされ続けるとある時ふっと「悟り」の端っこをほんの少しだけ感じる時が来るものらしい。あの訳の分かったような分からないようなルイス・カーンの作品写真集が意味を持って見えてくる。あのトレーラー車から下ろされた大きな木箱のような家らしき物が家に見えてくるのだ。

不思議なものである。
お経の効果は確かにあるようだ。


「ルイス・カーン建築論集」ルイス・カーン 鹿島出版会

2007/08/13

構造力学演習のスクーリング受講票到着

8月31日~9月2日(東京)でのスクーリング受講票到着。

構造力学Ⅰのレポートが未だなのでスクーリングが先になりそうだ。

建築構造学Ⅰの成績通知が来た

建築構造学Ⅰの試験結果が送られてきた。
「A」だった。

異種基礎併用の問題では書く事が少なかったのを心配していたが、結果から見れば悪くはなかったのだろう。

成績が付いて完全に終了した項目はこれでやっと3つ目。
レポートまたは課題郵送済み:8科目(内、成績通知済3科目)
スクーリング済み:1科目(成績通知未着)

2007/08/11

建築について気になる事

桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-1
[建築をめぐる話・・・・・つくることの原点を考える]より

上の記事が気になるのでリンクで引用したみた。


建築を学びながらテキストを読むと、コンクリートの性質はこんなものだ、と書いてある。建築史の中では、xxx様式はこうで、xxxismはこんな考え方でと書いてある。だいたいそれらを肯定するところから学習は始まるもので、まずはそれを知る事が専門家への道のように思う。「xxxはaaaだ」と言うような事が実感できなくても、それを実際に見たり触ったりしなくてもそれで良い。

学校の仕組みは、少数の教員が多くの学生を集めて知識を頒布すると言う「効率性」を重視するものだ。であれば「xxxはaaaだ」と言う事を実感無く知るのは普通の事なのだと思う。ゾウを見たことが無くても子供がゾウの絵を描けるのと同じことだ。親が買って与える絵本にはゾウの絵など山ほどあるのだから。


ただ、子供にゾウの絵は描けても、ゾウの皮膚がどんな硬さであるのかは知らないだろう。

我々が建築をいくら勉強しても朽ち果てていく建物の末路まではほとんど分からない。分からなくても建築を造る事はできるかも知れない。解体やメンテの事まで考えなくてもお金は貰えるのかも知れない。


エコロジーとかサスティナブルと言う言葉もテキストにはあるのだけれど、現代の建築は本当の意味でそれを自覚して造られるものなのだろうか。そんな事より目先の自由? そう言った目で建築を見て行く事も必要なのかも知れない。

建築材料学のレポート提出

図書館に本を返すことにしたので、ついでに郵便局に行って出してきた。

建築材料学は課題が1個しかなく、それも仕上表で済んでしまったので重さを心配することなく15円で送れた。何気なく見ているだけの部屋もいろいろ詳しく見てみるのも新鮮な体験だった。

暑いのでコーヒー豆屋に寄り、持参のリフィル用ペットボトルにアイスコーヒーを入れていただく。1.5L位で200円。暑い日のレポートには濃いアイスコーヒーとチョコレートがかなり効く。頭のモヤモヤがシャキッとする。

プリンタのインクを買うのを忘れた。

建築材料学のレポートができた

建築材料学のレポートができた。
今回は5枚で済んだ。(表紙別 課題1枚+仕上表4枚)
今日は近くの郵便局は休みなので、明日までに遠くの大きな郵便局に出すことにしよう。


課題は実際の家に使用されている材料とその性能、それに対する要求性能を調べる事。

この家(間借りしている)は大手ハウスメーカー製なので使われている材料の種類は多くは無かった。標準化されているのだろう。仕上表は残っていたがそこに書かれているのは設計後に提案された標準仕様のもので、施工までに変更された内容とは随分違っていた。また、一部にハウスメーカー固有の材料が使われていて、これに関しては調べるのに手間取った。また、フローリング床の下地のように見えない部分は類推した。畳は上げる事ができるがフローリングはそれができない。

レポートは「仕上表」の形式にしたが、この表の端にその部位の「要求性能」の項目を付け足した。「仕上表」は外部仕上表1枚と内部3枚になった。

仕上表のサンプルに丸の中に(ア)と書いてあるのは「厚み」の略らしい。
機械では「t=」だが、統一されていないのだろう。CAD用でない通常のパソコンにはそんなフォントが無いので困る。

参考書
「建築材用 教科書」建築材料教科書研究会 彰国社

建築材料の資料は、木材、石材、金属のように材質毎に項目分けさえているものと、壁、床など部位毎に項目分けされているものがあり、両方見比べてレポートを作成するとやり易いと思われる。


プリンタの黒インクが切れた。
後で買いに行こう。

2007/08/10

「伊東豊雄 建築|新しいリアル」を見てきた

神奈川県立近代美術館 葉山で「新しいリアル」を見てきた。

確かに新しい建築だと思った。
今までに実現できなかった建築だ。

技術が進歩したからと言って人間はそれを使って何でもできるものではない。今までできなかった事はできないと思い込んでいるとやっぱりできない。できないと思っているうちに技術の方では実はできるようになっているけれども、できないと思うからやらない。たまにそれをやってみようと思う人がいて、それがこの伊東豊雄氏のような人なのかもしれない。こんな人がいるから実現できた。素晴らしいこと。


以前に書いた銀座のミキモトビルの謎も解けた。
やっぱり外骨格だった。2枚の鉄板の間にコンクリートを充填した外骨格のビルだった。凄い。新しいやり方。自動車や昆虫と同じ造りだ。



実は形は好きじゃない。
「自然界の構成原理」と言うアイデアと実際に出来上がったその形との中間にそれと関係ない「何か」が挟まっているように感じる。

自然界はエントロピーを小さくする方向、安定する方向、無理しないで、できるだけ小さなエネルギーで、無駄なく、それを形作るもののように思うのだけれども、建築家と言う人たちはそれを造るために何だかいつもとっても無理をしたがるようだ。いや、無理をさせたがる。


伊東氏の建築は壮大なスケールのアールヌーヴォーのように思える。
やっぱり求めるものは装飾なんだろうなあ、と。建築家の建築なのかなあ、と。

2007/08/09

「建築行政のあり方」へのパブリックコメント

社会資本整備審議会建築分科会基本制度部会報告書(案)に関するご意見募集について - 国土交通省

「建築物の安全性確保のための建築行政のあり方について 報告書(案)」(pdfファイル)へのパブリックコメント募集が出ています。誰でもコメントできるようですので私も少し書いてみました。


(以下、コメントの内容とは異なります。)

建築士の資格について
(1)「ア.新たに建築士になる者の資質、能力の確保」の中で、「建築士となるのに必要な知識等を修得可能な科目を履修しているか否かにより、判断すること。」となっていて、これは良いように思われます。

建築に必要な「安全の確保」と言う面からは必ずしも「卒業」である必要は無いのかも知れません。そうしたら必要な単位履修や大学以外の他の(基準を満たす)機関で勉強しても受験資格が得られるのでしょうか。

大学は「建築家」を育てようとする意志大きいようですが、実際の多くの仕事は「建築士」がするの事を考えると「建築家」「建築士」のどこに入るかは個人が決めても良いように思います。

(2)「受験資格である実務経験」について
大学その他の教育機関において「建築士となるのに必要な知識等を修得可能な科目」の中に実務に相当する「実習」を「充分な時間だけ」入れていただきたいものです。

(3)建築士の国際化について
物もビジネスも国際化している状況の中で、どうせ資格制度を変えるなら資格も国際化して欲しいものです。外国人のアーキテクトの仕事を日本でもっと見てみたいし、海外で仕事する日本人も多くなっていますから。

2007/08/08

科目終末試験の申込書を送った

建築デザイン論のレポートが帰ってきたので、建築環境工学と合わせて試験の申込みを送った。

9月8日
1限目 建築環境工学
2限目 建築デザイン論

前回は2限目と4限目と間を空けて取ったが、今回は続けてみた。途中が空くと退屈してしまうから。

建築デザイン論のレポートが帰ってきた



評価は「A」だった。

講評は分析方法、表現方法ともに良いとの事。
ただ、選んだ建築(川崎市立川崎病院)に分析ポイントが少なかったとの事で、もう少し複雑な建物を選ぶべきだった。

確かにクレージーゴンは力学的にバランスを保つ必要と、病院と言う用途から分かり易く構成する必要がある等の理由から、あまり凝った形状にはしなかったのだと思われる。(建物については以前書いたのでここでは省略。)


写真は分析して表現した図のうちの一つ。実際の病院の柱と斜梁は赤でない。これはバイクとの類似を示すために着色したもの。中央の小さい絵は手描き。
クレージーゴンも載せたかったが良い写真が見つからなかったので断念した。

パタン・ランゲージ その2

「パタン・ランゲージ」をざっと読んでみた。
これは物凄い本かもしれない。

今まで読んできた建築とか都市計画と言う分野の、謂わばその専門家と言う「立場」のために書かれた書物とは全く違う視点から書かれている。それらに比べれば「無私」の境地と言って良いほどだ。しかもそこに展開する内容が直接的に建物や都市の構築に関わるものに限定されていず、社会学と言ったような広い分野にまで及んでいる。それは建築も都市もその狭い幾何学的に整った階層の中に単独で存在しないとの考え方からであるらしい。

この考え方から見れば他の建築家の書物や生産物は全て建築家個人のエゴと言えないだろうか。ル・コルビュジエにように絶対的な美が建築家の外に存在すると考えたとしても、それを採用する行為自体がエゴなのかも知れない。

建築家の引く1本の線と言うものは、それを誰かが何時か決めなければならない時に建築家がその恣意を引き受けざるを得ないのだろうけれども、それを決めるバックグラウンドが時間の奥行きを考慮したものでない限りは単なるエゴなのであろう。

その時間的奥行きとは、パタンとして現れている歴史の積み重ねから来るものだろう。


ただ、この本だけ読んでいてわからないのは、この本のパタンが世界中に通用するものなのかと言うことだ。これは答えだけを見て採点するマークシート方式の試験結果のようなもので、途中の計算方法を未だ見ていないことによる。

2007/08/07

ルイス・カーンが未だわからない

ルイス・カーンについてDVD(「My Architect」 邦題「ルイス・カーンを探して」)を見たり、いくつかの資料を読んでいるが、なかなか掴めない部分がある。


モダニズムの中に位置する建築家なのか、そうでないのか。

人「壁くん、僕は外を見たいんだよ。君に穴を開けていいかな。」
壁「何だって? 僕は今まで君のために家を支えて来たじゃないか。そんな僕に穴を開けるって言うのかい。」
人「でも僕は外に素晴らしい世界があるって知ってるんだよ。」
それで壁は穴を開けられ、穴を広げて眉石で補強されて窓になった。
その後、壁から柱が分離して産まれる。

こう言う説明はル・コルビュジエと似ていて当にモダニズムなのだけれど、ルイス・カーンは組積を用いるし、コンクリートは使っても鉄無し。平面は四角が多用されている。なのに四角が生産効率上完全に合理的な配置に置かれるわけでもない。


「ルイス カーン 建築家の講義」ルイス・カーン 丸善
これを読んでみたら、建築の造り方のような事は全く語られていない。建築を造る時にその求める建築の意味を掴むことだけが重要と強調している。この本は全くその事だけが書かれている。ある意味参考になるがまだその形の意味を導き出す事ができそうにない。


「ルイス・カーン 光と空間」ウルス・ビュッティカー 鹿島出版会
この本ではタイトル通り、ルイス・カーンの光の効果についてのみ触れている。これも一つの本質なのかと思うが、平面については全く触れていないので別に資料を探す必要あり。それに文字数が少なすぎる。これを読む以前に予備知識が不足していた。

「ルイス・カーンの全住宅」斉藤裕(さいとうゆたか) TOTO出版
平面を解説しているがルイス・カーン本人の意図が全然読み取れない。これを読む以前に本人について研究すべきだし、著者には申し訳ないが写真集としての意味しか感じられない本だ。

都市美

「都市美」と言う本について

欧米各国の「都市の美観」を中心とした都市計画についての歴史を主に書かれた本である。
都市の「美」と言った場合に、誰から見た美なのか、美とはどんな状態なのか、そのために誰がどのような事をしてきたのか、また失敗してきたのかと言うのを調べたものだある。

注目しておきたいところを数点挙げておく

1.アメリカの「ニューアーバニズム」
一つの地区を開発する時に一人の建築家やデザイナーが全てデザインするような単調さも、その反対の無秩序も良しとしない。別々の建築家が関与しながらも一定の秩序を作り出す「都市のDNAとも言える建築コード」を計画家がアウトプットするそうである。
計画家が居るにしても、多くの人が関与しながら何らかの統一感ある街を作る手法はどのようなものなのか。この本では詳細がわからないので今後調べてみたい。

2.日本にも居た活動家
「橡内吉胤(とちないよしたね)」
「石川栄耀(いしかわひであき)」
日本にも都市美活動家が居たと言う事。
現在にはその志が全く途絶えて伝わる事がなかったのは残念。

3.シャルル・ビュルス(ベルギー)の「都市の美学」(未読)
技術面に偏った都市計画に反対し、土地固有の地形や歴史的建造物を生かした独自の魅力を引き出す街づくりを行った人である。

その中で「図面上でしか確認できない左右対称の幾何学的な計画」を「歩行者の視点から認識できない」と言う理由で否定している。

これは共感できる。先日行ってみた「豊洲ららぽーと」(これは都市ではないが)では平面図をみなければ建物が船とドックの形をしているとは気付かない。最近建設されている大規模再開発などでも平面図を見なければ意図がわからないようなものがある。高層ビルにしても鳥でなければ認識できないデザインがなされているようにも思うものがある。
建築家はどう考えてそれを造るのだろうか。
仙川の安藤ストリートなどもこう言う視点から見てみたいと思うものの一つだ。

関連資料
カミロ・ジッテ(オーストリア)「芸術的原理に基づく都市計画」(未読)


この本について
「都市美を考えていく時に専門家の役割が大きい」と書いている。この本自体が専門書であるのでそれも間違いないのだろうが、戦前の都市美運動スローガン「わたしのおうちも景色のひとつ」と言う風景の公共性を忘れた日本人の中で建築家が啓蒙できるほど大きな力を持ち得るかどうか、私は疑問あり。
現在の1級建築士数32万人、2級まで合わせて101万人もいてこんな街並みしか産み出せなかったのだから。いったい専門家はどこで何をやっているのだろうと思われても仕方ないのではないか。それが今後どうすれば変ると言うのか。(黒川氏に東京都知事をお願いしたら変る?)


参考資料
「都市美 都市景観施策の源流とその展開」西村幸夫 学芸出版社

2007/08/04

建築史の試験結果が来た

7月21日に受けた建築史の試験結果が葉書で来た。

「A」だった。
めでたし、めでたし。

心配していた「第7設題:芸術を主題とする建築とそうでない建築の様式比較」はあの解答で良かったらしい。どの参考書にも書かれていなかったので自説が正しいかどうかわからなかったけれど、成績から見る限り良かったと言うことになる。(その内容は7月18日の記事)


同時に受けた「建築構造学Ⅰ」は未だ来ていない。

2007/08/02

提出用レポート用紙を購入

レポート用紙はまだあるが、用心して3冊買ってみた。
レポートは1単位1000文字程度だから2.5枚、1科目2単位だから5枚になる。これに図表を入れたりすると12枚から15枚になってしまうので消費枚数が多い。まだ有るが早めに手を打つことにしておこう。

ついでにレポート用と事務手続き用の封筒なども少ないのでいっしょに購入する。

全部で1700円+振込み手数料100円、返信送料は切手で215円になった。

都市計画学のレポートを送った

都市計画学のレポートを送った。
中身は前回までも記事の一部ある通りとした。

毎度のように紛失を心配して全部コピー。表紙込で15枚、A3で80円。
送料は15円で済んだ。

都市計画 川崎区



都市計画学

川崎区(神奈川県川崎市)の都市計画マスタープランの調査を行った。

川崎市都市計画マスタープラン 川崎区構想 -川崎市まちづくり局

川崎区のマスタープランを見てみると、理念から数段階を経て細かい項目に向って記述されていく。これでは全体としての「出来上がりイメージ」がつかめない。理念の部分は悪く言えば奇麗事であるし、行政としては実行プランが出ればそれで良いのだろうが、結果「あれもできました、これもできました」で済まして良いとも思えない。

そこで上図のような分析をしてみた。
地域に「付加価値」を付ける軸、既存の財産を「補修-変化させる」軸で表現されるチャートに各実行プランをプロットした。(従って、この図はマスタープラン中のものでなくオリジナル。)

ここから導き出せるのは川崎区が「産業」と「住環境」の2方向でプランを考えていると言うこと。さらにその中身は2つに分かれていて、各々「前時代の後処理」と「新規開拓」である。
これら細目の中にはテーマとして挙げているが実効性の無さそうなものも含まれる。総じて産業誘致型の従来からの政策を継承していると言えるだろう。

この図の前に地域の成立ちと現状の問題点なども見ておく必要があったが、マスタープランに採り上げていない川崎区特有の大きな問題も存在するように思われた。それは風俗営業密集地区の存在やギャンブルや区人口の5%を占める外国人居住者への利便性向上である。

川崎は以前より明るくなったとは言え依然として風俗で有名であり、外国の姉妹都市があり外国人がこれほど居住していながら道路標識などの表記は日本語でしかなされていない。

人も企業も流動的な川崎と言う大都市にあって、誰を住民と考えるか、策の見出し難い問題をどう都市計画に取り入れるか、などいろいろな問題を含んでいる。


また川崎の行政は市民とより企業と仲が良い傾向がある。商業地区の再開発にしても外部企業を誘致するだけで住民にチャンスを与えるものでは無い。これは都市部のどこの自治体でもその傾向がある。(北九州の場合は割りに地元にチャンスがあったように思われた。)単に新しい消費地としての再開発に過ぎない。その結果、どの街も似たようなものがある特徴の無い街になっていくのであろう。


川崎におけるマスタープランでは住民参加度合いが低いように感じられたが、選挙以外に直接参加できる機会として注目すべきものかもしれない。

2007/08/01

楳図さん自宅建築に待った - NEWS

楳図さん自宅建築に待った=住民ら中止求め仮処分申請-東京地裁 -時事通信社

2007年8月1日(水)のニュース記事
「まことちゃん」で有名な漫画家楳図かずおさんが東京都武蔵野市内(井の頭公園近く)に建築中の自宅が、周囲の景観を破壊するとして、近隣住民が建築中止を求める仮処分を東京地裁に申し立てたと言うニュース。

その家の外観は、壁が赤白の横じま模様、屋根の頂上には「まことちゃん」の立像との事だが、住友林業によれば「まことちゃん」は無く煙突状のものを立てるだけだとの事。



最近は住民が景観に責任を持つと言う発想はあるものだが、実際に自分の家を建築する場合に自分でどう考えるかは難しい。住民の一人として「周辺環境をどう読むか」と言う訓練は学校で習うものでもないし、それ以前に集団や地域の中の一人としてどう振舞うのが良いかと言う意識も、現在の日本人には「無い」と言えないか。

古くからの住民が住む地区であっても、高額所得層の住む地区であっても何時しか土地は売られ新しい住民が流入する。東京などの都会は今やほとんどが基からの住民ではなくなっている。こうした場合、歴史のなかで出来上がってきたコンセンサスのようなものはすぐに無意味なものとされるだろうし、引き継がれないであろう。

個人の問題ばかりでなく、建築家も建築する現場の住民で無いのだし、地域の言語を読み取れる人間であるとも限らない。


結果として日本の景観はこうなってしまっていると考えれば、「まことちゃんハウス」が決して特殊な例と言うわけでも無いだろう。いったい街の美とは何で、それはいったいどこに存在するものなのだろうか。




建築中の楳図邸の写真をネット上で探せなかったのは残念。
見学会希望します。