これまで何人かの建築家の文章を読んで来た。
そこから感じたことに加えて、傾向と対策を考えてみた。
現代建築家の書く文章の特徴は、
(1)同じ事を何度も説明したがる。
これは本来の仕事をしながら時々 (求めに応じてか?) 書いているものをまとめて1冊にした本が多いこともあるが、結局それほど要点と言うものが多くは無いらしい。文章の中に自らの作品の解説を入れながらその思想を説明するわけで、異なる建築物に対して同じ思想の説明が入るのは納得がいく事だ。
(2)自分で適当に勝手に定義した単語を使いたがる。特に心理学用語らしきものが多い。
建築は言語に近い芸術と言う人も多い。物事を説明するのに建築の思想に対応する単語が必要であるのだろう。但し、その単語の概念は一般的では無いのであるから、何とかして説明していただかないと困るが、相手が建築であるためにそれはかなり難しい仕事である。建築家も作品を説明するために苦労するのである。
(3)過去に学んだ事を勝手に解釈して言い切る。
建築家だって学生時代はあったはずで、学生時代に我々と似たような書物を読んで何かしらを得たはずだ。その時にどんな学び方をしたか、もしかしたら当時流行の思想の上に解釈していたかもしれない。ある部分はそのままそれで解釈が止まって固定された事もあるだろう。
なので適当に飛ばし読みして、つまらない文章やまた同じ事言ってると思ったらそこは読まない。子供に説明できないようなわけのわからない文章には真面目に付き合わない方が良い。どうせ本人も迷ってるのだろうし、きっと次の本の時には別の事を言っている。それは悪いことではなくて、考えている証拠だろうから。
雑誌などで建築家どうしが対談した内容が掲載されていることがある。そんな場合、絶対相手を批判したりはしないことになっているようだ。予め喧嘩にならない相手をセッティングするのだろうか。褒めあっているだけでほとんどの場合面白く無い。しかも、会話しているようで勝手に自分の事を言い合っていて会話にもなっていないようなのがある。
建築家どうしでないインタビュー記事でもそんなのがあったりする。建築家の先生の話がすぐに建築の細部に入っていってしまうともう話が袋小路に入って、結局はありきたりのところで終わってしまったり。
そう言うときの文章はかなり割り引いて読む必要ある。
何でも相対化して遠くから眺めていないとひどい目にあいそうに思われる。
ル・コルビュジエや過去の巨匠がどうだと言う話題になると絶対化してし神のように扱ってしまう事がある。多分巨匠本人はそう扱って欲しくはなかっただろうし、読む方はそこから先に行くチャンスを捨てることになるのではないだろうか。「建築家XXXのXXXと言う作品が良い」と言う時に、その何処が何故良いのか言葉で説明できないとやはり失礼だろう。
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