2009/12/18

CADの遊び


機械設計ではCADができる=設計ができると言う時代があり、それは近年否定されつつあるけれど建築ではどうなのだろう。こうして写真に撮影するとこれを設計した人がこう言うパースを描いてうっとりしていたのだろうなあと想像できるものになる。しかしながら、ある意味マクロ的、鳥瞰図的な設計であってここを歩いてどれほど良いかと言うと、まあ普通としか言いようが無い。巨大な敷地に巨大な資金で巨大な構造をくっきりと描いてみたまでで、その後は何もなし。長い通路を歩いて疲れるだけ、延々とどこにでもある物を見せられるだけ、フロアの高さが微妙に合っていなくて変なスロープで足元がふらつき、建物を出たとたんに車道かチンケな通路を歩かされる。要は雑なんである。


写真はクアラルンプール中心から少し南西に行った Mid Valley (ミッド・バレー) と言うショッピングモールの内部。

2009/12/15

マンションの一室のような自分

建築物身体論と言うのがある。
建築を1つの身体として捉える考え方であるらしい。


マンションの1室は完全性を備えている。少なくとも完全性を求められる。鉄のドアの内側には全てがある。補給を怠らなければほとんど何も不足はない。そこは自分以外誰も立ち入ることのできない領域である。

この意味でマンションの1室は現代人によく似ている。または、現代人はマンションの1室に似ている、だろうか。

他人は自分の身体や思考に立ち入ることができない。できないと考えられている。現代の成人は完全でなければならないと考えられている。自分でほぼ全ての事ができなければならない。全ての事とは隣人と同じ事ができると言う意味だ。それが完全性の定義である。

完全性を求められる身体は不完全を恥じるし自己の責任を重く感じることになる。全ての負荷を自らの身体に背負ってずっとどこまでも歩かなければならない。そして人生の全ての時間は完全性を求めるための"過程"となる。そこから想像できる未来は果たして"結果"と言う果実を手にした己の姿であろうか。


この姿は全て"完全性"を求める嗜好から来るものだろう。だとすればその完全性とはどう言うものだろう。それは実際のあるべき物なのか、それを信じる事にどんな利点があるのか、強いて言えば幻想ではなかったか。完全性が得られない事に恥じらいを感じなければならないのはどう言うわけなのか。



もしその完全性を諦めてしまったらどうだろう。

少なくとも一生を恥じて生きる必要はないかもしれない。責任を自己の中だけに閉じ込めておく必要はないかもしれない。楽だろうか。ただ、その代わりに手放さなければならないものもあるだろう。そちらの方もまるで想像できない事ではない。自己の内部の不可侵な領域がいくらか、またはかなり多く減ることになる。



完全性を手放すのとそのまま保持しながら精進する事のどちらが良いかは、どちらが快適に生きられるかで判断できると思われるがどうだろう。

2009/11/19

「progeCAD 2009 Smart!」がリリースされた

progeCAD 2009 Smart!がリリースされた。

無料で使えますが商用版と機能は同じで私的な作業に使ってくださいとの事。自然災害関係へのチャリティ活動にも協力しているそうだ。DWG2.5~2009まで読み込みできると書いてある。

progeCAD 2009 Smart!のページ(クリック)




マンキーさんご指摘ありがとう。無料を無用と書き間違えてましたので修正しました。

2009/11/13

日本人は中古住宅には住めません

中古引っ越してた後にすべきことはいろいろある。

マレーシアの団地に引っ越してきた。ベッドもエアコンもテレビもシーリングファンも冷蔵庫も洗濯機もコンロも収納棚も一通り揃っていたので、後はトイレットペーパーや洗剤やシーツや枕やハンガーや食品や食器などの細々とした物だけ買って来れば住める。状況としてはそれで全く間違いはない。

ただ、中古物件と言うものは以前に誰かが住んでいたものであるからタイルの目地は真っ白ではないし、天井裏が多少カビ臭かったり水道の蛇口のメッキが薄くなっていたり水滴の痕もあり壁に鋲の痕やシミがあったり便座の表面は磨いた細かい傷で満たされている。そして何か得体の知れない臭いも残されているものだ。

住み始めた後は徐々にその部屋を使いながら他人の臭いを追い出しつつ自らの臭いでそこを満たしていくことになる。ドアの取っ手には自分の指紋が配水管には自分の皮脂と石鹸の混ざった滓がこびり付くだろう。壁のスイッチ周りは手垢で黒ずみ床にの隅には抜けた髪の毛が溜まる。そうして同じことの繰り返し。誰かの手垢に他人の手垢が重なり住宅は歳を重ねていく。

それは自然だ。


だが、愛妻さんはどうもそれを好まない。キッチン収納の扉を開けた時のちょっとした臭いやトイレの芳香剤と汚物の混ざった臭いほんのちょっとのカビ臭さを嫌う。収納棚にうっすらとあるシミや埃を嫌う。床タイルの目地の取れない黒ずみを嫌う。前に済んでいた誰かの残した全ての証拠を嫌う。人間のいた痕跡の全てを嫌う。残された食器はきれいであっても全て処分して新しい物を買う。キッチンで使うものは量産された新品のプラスチック製品を買う。人間の残した臭いを追い出すために化学薬品を充満させる。棚の中には発泡スチレンの防虫シートとプラスチックの容器で整理する。これは棚板に服が直接触れないためだ。こうした小さな努力によって誰かが触れたはずの部分に自分の身体や身に付ける物が触れなくて済むようにしているようなのだ。

彼女はたぶん一般的な日本の人である。こうした姿を見ていると我々日本人は中古住宅に住むことはできないのだろうと感じられる。いくら耐用年数の長いストックとしての住宅を造っても新しい住宅を選ぶのだろうし、万一中古を選んでもそれは予算の問題かテンポラリな用途として考えているためだけなのかも知れない。(調査に基づいて言っているのではない。)最近テレビでよく紹介される団地やマンションを再生する試みでも構造体以外の部分を全て新品に換えてしまって、つまりは以前に住んでいた他人の臭いも手垢も全て取り除くかそう言ったものに触れなくて済むようにほんのちょっと浮き上がった位置に住まわせる工夫が成されている。

日本人にとって住まいに歴史は不要なのだ。

2009/10/17

ひばりが丘団地ストック再生実証試験棟を見学

友人のS氏の手配でひばりが丘団地の実験棟を見学させていただいた。

この実験棟は既存の団地再生に対しての"技術的"検討と言うことで、建築と言うよりは建設の範囲の実験棟のようだった。ただ、改造されたいくつかのタイプの居室はよく出来ていて、試しに少しの間住んでみたいとも思えるようなものだった。しかし、これらに本気で住む人だったら収納が少ないなどと細かいことを言うだろうし、購入を考えるのであれば将来子供が育ったときに部屋数が少ないなどとも言うだろう。プランはどちらかと言えばキッチネット付きホテルかテンポラリー用途のコンドミニアムのようなもので、家を持ちたいと思わず、身の回りの状況が変わったら移動することを厭わない自分のような人間には悪くない部屋だと思う。ただし、家賃が充分に安いのであればだが。

(だが、既にそれ以外の方法をいろいろ知ってしまっている身には光熱費や管理費の心配をしながらこれに10万円以上の家賃を毎月支払って住み続けるのはどうなのかと思えても来る。同じ値段ならどこかのビーチフロントの掃除も光熱費も心配せずに住むホテルに居たいだけ居るのとどちらが良いのかと思ってしまうと言う意味であって、通勤に便利だからここを選んでできれば一生、と言うような感覚ではない。)

技術的検討が主と言うことなので、この実験棟についてデザインがどうのと言うのは間違いだと思われるが、見た目は一見100年前のバウハウスデザインのようだった。すっきりしているが、う~ん....。もう一つはこのモデルハウスが共用廊下が足されている以外どれもその内部にのみ注力しているために、住戸がやはり鉄の扉で個々に閉じられているスタイルに何の変更も加えていない、いや多分検討すらしていないのだ。今の状態で見た目の商品性が上がっても50年後にはやはり孤独死はあるだろうと予測できるし、1F部分の住戸を集会上にコンバージョンしたとしてもそれがどう使われるかは未検討のままである。建築ではなく建設の実験なのであるから現時点では仕方ないのだろうと思う。もちろん建設と言う面でのいろいろな実験をこうした形でしてみた事については素晴らしいことだ。

2009/10/05

Cave-dwellers

Cave-dwellers : 穴倉生活者

日本人は穴蔵に住んでいる。

その穴蔵の中でビクビクと怯えながら生きている。
小穴から外の様子をうかがっている。
小穴とはテレビとかインターネットとかそう言ったものだ。
新聞でも雑誌でも良い。

頑丈な扉で閉ざされたその穴蔵に入れば生きていくために必要な物は全てある。
時々の補給を怠らなければその穴に何年も籠もっていることができる。
誰とも会う必要はないし、誰かの侵入を心配することもほとんど無い。
実際にそうして籠もって生き続けている人も多くいる。
だから穴蔵の内部は完璧である。
その意味では最新の原子力潜水艦の内部空間に近いかもしれない。


これは特別な誰かの事ではない。
引きこもりと言われる得意な行動を信条として生きている人たちだけの事ではない。
日本人ならほとんど誰にでも当てはまる。

我々はいつもビクついて生きている。
他人がどうであるか、社会がどう流れているか、何が流行しているか、みんなはどう思っているか。
そして他人が自分をどう見るか。

流行の服を身につける。流行の物を持つ。誰もが知る大学に入る。誰もが知る会社に入る。資格を取る。目立つ行動や言動を慎む。生活や身だしなみや行動や持ち物や言動など、全てに他人から見てみっともないと思われないかどうか自分自身をチェックする。良いも悪いもプラスもマイナスもポジティブもネガティブもその方向は誰かによって決められていてそこから外れる事のないように気をつける。自分には関係ないと思っていても成功と言うものや理想や上下関係などを意識しているのならば、そこから逃れることはできない。そうして一生ビクビクしながら生きていかなければならない。


そんな生き方にとって現在の日本の住まいは最適だ。穴蔵は最適だ。たくさんの収納、広いキッチン、便利な家電製品、快適な家具、そうした内向きの完璧さが丁度良いのである。


さて、それが未来においてもこのままで良いだろうか。怯えながら暮らしているうちに世界はどんどん変化して小穴から見える世界はどんどん先に行ってしまうだろう。そんなつまらない事に気を取られている暇は無いのではないか。他人の評価にビクついている暇があったら何か自分でする事があるのではないのか。生き方が先か、建築が先か、それはどちらでもかまわないが何か先に進める必要はあるだろうと思う。穴蔵を出て光の当たる場所に出るべきなのだろうと思う。

2009/09/08

Y150


帰国したので横浜をぶらついていたら開港150周年記念イベントをやっていた。クモのよううな大きな機械が動いているのが見えたが、それがこの会場のメインの出し物だったらしい。けれども別のところが気になってそれどころではなかった。一体これは何がデザインされていると言うのだろう? 三角コーンが赤でなくて青なのはこれも会場設計の一部であるからなのか?

2009/08/26

ちょっとした工夫


KLモノレールのImbi駅前にある集合住宅をモノレールのホームから写したものである。この下の部分は商業施設になっているが今は寂れてしまったようで人の出入りは少ない。

ご覧のように規則的なグリッドを用いて造られた建物であるが、柱や梁の一部を抜いたり付け加えるなどのちょっとした工夫をする事でこの外観形状を得ている。外側に突き出た部分に住人がガラスで部屋を付け足すなどの改造も行われているようだ。また壁に相当する物が全く見られなくて、構造らしき物で囲まれた穴は全部ガラスで塞がれている。

構造をいじっているので"ちょっとした"工夫とは言えないかも知れないが、構造の上での余裕の範囲でやっているのだろうか。古い建物であるとは言え、よく見ればなかなか可能性を感じる方法ではないかと思える。

2009/08/19

風水により


このKL中心部の比較的新しい大規模ショッピングモール"Pavilion"の前にガラス製の噴水が置かれた。夜になると内側から光を発するので色が変化して見えるもの。ただこのショッピングモールのデザインとどう調和するかと言う問題は考えられなかったようで、どうみてもグロテスクだ。

もう一つ、言われなければわからないのは、これが風水によるものだと言う事。風水では水は富を集める力があるとされているそうだ。そして噴水を外側から内側に噴射するのは富、つまりお金が外側へこぼれ落ちないようにと言う意味である。手前の赤い(これもお金に関係ある色であるのが同じ意図によるものかどうかは知らないが、)看板には、コインを投げ入れろと書かれている。「さあ、みなさんここにお金をたくさん落としていってくださいな」と言うように感じられて興醒めしてしまうような感じがしないでもない。日本にも招き猫と言うのがあるが、似たような発想なのだろうか。

いつでも建築には費用がかかるのであるから、どうしても費用対効果がクローズアップされるのは仕方ないのかも知れない。それは建築に限らず教育でもキャリアでも何でも結局投資した以上に儲かるためにする事で、それがすなわち成功と言うような言葉で表現されるものであろう。そのため世の中には引っ張る力ばかりが多く働いているように感じられる。豊かになればなるほど誰もが自分の方に富を引っ張り込もうとして動く。

幸いにして我々日本人はそう言う時代をもうずっと以前から経験してきている。自分の方に引っ張るための事は何でもかんでもいろいろやった。エコノミックアニマルと言われた事もあった。そうした過度の引力による破綻も経験している。しかし、それで得られたものは何だったかと言われると心許ない少しの答えが出るだけだ。

そろそろ引力ばかり発生していた事に反省してその逆を行ってみる時期ではないかと思う。思い切り外に対して噴射する噴水を置く時代ではないのだろうか。

2009/08/14

未分化 not equal 未熟


「幕の内弁当のような」と言うと、一つの入れ物の中にいろいろ入っていて一つの完結性の高い世界を構成していると言う意味である。ところで、我々が普通に弁当を作る場合でもやはり幕の内的なやり方を自然にしていると言うことを意識するだろうか。多分そう言うことはないだろう。

以前に台湾にいた時、やはりそこにも弁当と言うものはあった。味は別として材料になるものは同じようなものだ。主食は白米、おかずには唐揚げや肉や魚、そして副菜と漬物などである。ただ、同じような材料を使った弁当であってもそれは絶対に幕の内弁当にはなる事が無いのだった。

それは何故か?

各々を分けて配置すると言う指向が無いからだ。白米の上に主菜と副菜が乗せられていて蓋を閉めるとそれが渾然一体となり、まるでそれがたった1つの食べ物であるかのような弁当になる。だから絶対に幕の内弁当にはならないのだった。後に彼らもそれに気付いたらしく、日式の弁当としてコンビニで売られるようになった。もちろんそれは単に弁当箱に仕切りが付いただけなのだが。

そう言う状況を見て、どちらがどうだと判断するのもまた常である。どちらの弁当が美味いか、それは単に学習の結果から出る結論であって決して本質的な議論となるようなものではない。その弁当の所属する国の経済なり社会の状況がどちらの方が良いから、簡単に言えば進んでいるとかいないとか、と言うような事で判断すべきでも無いのだが往々にして勘違いをしたがる人は多い。


この写真のような所が日本にあったとしたら、それは何と呼ばれるだろうか。その名称は多くあるのだろうが、その名は決してポジティブな響きを持ったものでないだろう。そしてある場合においてはそれを課題視することは多々ある。ある場合の中には建築と言うものも含まれる。課題視するのはそこに何か解決すべき問題があると感じるからであろうし、実際に問題が何も無いこともないだろう。

ここで建築になにができるか?と考える。ほとんどの場合、問題視した時点で答えは用意されてしまっている事が多い。答えは十中八九、幕の内弁当になる。それをする本人が気付いているかいないかに関わらず。建築と言う範疇において、そんな基本的なガッカリはどんな場合でもしたくないものだと思う。


デザインとか解決方法とかそんな事の前に自分がどの地面に立って物を言っているのか、弁当でも食べながら考えた方が良い。その場所に問題があるのか、それともそれを問題と思う自分に問題があるのか、そちらの方がずっと大きな問題なのではないだろうか。



写真
左上:歩道が食事の場になっている。
右上:市場。パラソルとテーブルや台が折り重なるように配置される。
左下:道路上の屋台。このうちのどこかで買って道の反対側の食堂に持ち込んで食べても良い。道には車も通る。
右下:屋台村。中心の大木が木陰を作る。

2009/08/09

結晶


結晶したような建物。
KLにはこう言った形の建物がたくさんある。
いろいろな対称形、こんな形を造っていたら日本では落第だけれど。

久し振りの建築の雑誌

KLに来てから日本語の本など見る機会がなかったが、先日KLCCの紀伊國屋書店で(日本の)建築関係の雑誌を久し振りに見ることができた。KLの書店ではほとんどの書籍、雑誌がビニル袋に閉じられているので、有っても中まではなかなか見られないのだが、たまたまその1冊だけが閲覧可能になっていた。

久しぶりに建築の雑誌を見ると、何だかとたんにウンザリした気分になってしまった。ヨーロッパの有名建築家の真剣な眼差しは良いとして、その後のページの何んだか白っぽいページ、白っぽくて複雑っぽい模型、白っぽいデザイン画、その中のフニャっと曲がった細い線と破線やインポーズされた人物らしき形、正面を向いて写真を撮られているボサボサ頭の誰か、とても見ていられなくて閉じてしまった。

何か心が萎んだ感じがした。


今日、近くの小さな公園だか空き地だかにあるバンヤン樹のスダレのように垂れ下がった細い根の隙間から雲の多い青空がのぞいていた。久し振りに見たような気がした。

2009/08/08

屋根とその他


普通のメルセデスのショールームだ。
とても簡易に造られている。
本当に簡易なようだけれども。よく見るとなるほど、と思わせる。

ブルーの鉄の柱がドーナツ屋根を支えている。屋根の梁は四角い事務所のユニットをゴンドラゴンドラのように、そしてガラスの側壁をも吊るしている。地面にある出入り口ユニットと丸い車の展示ユニット(写真には無い)は床に置いてある。全てがバラバラに配置されているようだ。将来の変更は容易そうだ。別に珍しいものでも何でもない造りのショールームだけれど、これでも良いかなと思う。

何かに応用できそうではないか?
(もうやっている例はあったと思うけれども。)


これはKL市内のものだが、メルセデスの他のショールームもこれと同じようなデザインなので統一しているのだろう。

橋をかけるように


この建物は写真に見えないこの反対側も同じように鉄橋のような構造が露出している。両端に強固な構造を配置することで有効な床面積を稼げるのかもしれないが、もしかすると単にデザインなのかも知れない。そこは残念ながらよく分からなかった。

これが鉄橋ならこの構造の先にもさらに床をつなげてどんどん増築する(そして都市の規模まで.....)ところだろうけれども、やっぱりこれは建物なので土地の境界線に拘束されるから、そう言うわけにはいかない。昔の人はそう言う野望を本気で実現しようと考えた。しかし、(特に日本では)今では現実的ではないようだ。

しかし一方でこのクアラルンプールは建物と建物が壁を共有することが自然に行われているのだから、もしかしたら野望は実現する可能性が無いではない? その時実際に接続されるインターフェイスはどんな物になるのだろうか。こんな橋のようなデバイスになると言うことも可能だろうか?


Bukit Bintang 地区の Jalan Sultan Ismail にあるビル(名称忘れ)

2009/08/06

壁とか窓とか


高層集合住宅(写真はコンドミニアム)にベランダがある。数十階もある建物だが何と最上階までベランダがあり、そこにテーブルと椅子を置いてくつろげるようになっている。実際にそこで新聞などを読む姿も見られる。この写真のように通常は電球の取り付けてあるところをシーリングファンに交換している人もいるようだ。

こう言う風景は日本ではほとんど想像できないが、クアラルンプールは年中暑いにしても気候は安定している。シーズンによってはモンスーンが吹くけれども台風のようなものは来ないのでこうして高層住宅のベランダでくつろげる。


台風が来ないと言うことは雨が家の中に向かって吹き込まないのだから横からの防水にあまり気を遣う必要もないかも知れない。その上高層なら蚊や泥棒の心配もそれほど無いので、窓や壁の必要性は薄いのではないだろうか。極端を言えば、外壁と窓は不要かも知れない。逆に窓と壁をキチッとしたものにしてしまうとエアコンと通風を考えなければならないと言うこともあるので、それはまたコストなどリスクにを作りだしてしまうことになる。


最近は、壁とか窓と言うのは世の中にあるものから選択して取り付けるだけになっていて、その操作も別に不自然でもなく行われるが、そう言ったものが本当は何のためにあるのか一度は考えておかないといけないものかなあ、などと思う。クアラルンプールほど恵まれた自然環境でなくてもそれは必要なのではないだろうか。

2009/08/04

箒(ほうき)に乗って


KLCCの上階にあるフードコートから北を見るとこんな建物が見える。
ポストモダン風の外観が、スマトラからのHazeに霞んで少し幻想的に見えなくもない。全然違うものだけれども今公開中のハリーポッターの映画のように箒に乗ってあの屋根の上を飛んでみたらどう見えるのだろう、などと思ってしまう。

全体の趣味は統一されているが屋根の高さがそれぞれ異なっていて少しの複雑さを見せている。そして窓の形は正方形と長方形がいろいろに配置されていて見飽きない。現代的な宮殿のようでいてそうでもなさそうな、想像しても考えてもいったい何だかわからない建物である。

歩いて近くまで行ってみる。KLCCから10分も離れてはいなかった。

近くまで寄ってみるとオレンジの屋根が全く見えなくなって少し残念な感じがする。大きな屋根を持つ日本の家も最近では庭が無いので近づくと壁面にかなり近くなって屋根が見えずその魅力が半減してしまうが、それと同じ現象だ。このビルも屋根が見えなくなると、落ち着いた色の割合普通のビルのようになってしまった。

中なら出てきた人にこのビルは何なのかと訪ねてみたら「普通のオフィスビルだよ。特別なことは何もないよ。あっちのKLCCの方が新しくて良いじゃない」と言われてしまった。近くから見ると確かにそうだと納得せざるを得ないのだが。

ただ、このビルの設計者は相当外観には気を遣ったようで、エアコンの室外機の置き場には工夫が見られた。(写真下段)最近の新しいビルでは空調はセントラル方式なので室外機が見えることは無いのだが、この時代のビルは(KLに多く有る)オフィスでも住戸でも部屋貸しの場合はエアコンは借りた方が用意するらしく、室外機の置き場はバラバラになる。これはビルマネジメントの問題にも絡むのでどうしようもなかったのだろう。そもそもセントラル方式にする発想が無かったのかそう言う設備が入手できなかったのか、それはわからないが。

室外機に対するそうした配慮のおかげでこのビルの外観は守られたようだ。何から引いてきたのはは分からないがこのポストモダンも、最近流行りの妙なモダン(これもクラシックの仲間入りかも知れないけれど)趣味のビル群れが立ち並ぶようになったKLの中で見ると、ホットした気持ちにならないでもないなあと感じる。但し、遠くから見ないとならないが。



こうしたオフィスビルの場合、我々はその外観がどうであろうと (と言うのは単に真っ白で無個性なものであったとしてもと言う意味で) "使える"し、うまく行けばある程度以上の価値を持つことができるのを知ってしまっている。だから周囲に何の配慮もせずに好き勝手にもデザインできるのだし、そんな事せずとも(例えばユニットを積み上げるような設計をするだけで)建物として成立させることもできる。実際、多くのビルがそうして出来上がっていて、それで何の不都合もない。たまに建築家や研究者や評論家がダメ出しするだけのことだ。

"経済性優先"を言うことで環境や外観に対する配慮ができないと言うのであれば、その考えは逆に"経済性優先vsデザイン"の対立を肯定している、つまりどちらの考えも同じ直線上にあるのだと思う。デザインにおける投資に対する見返りが少ないか全くないと認めることになると思うのだ。そんな事を認めて議論の矛先を施主側の姿勢であるとか経済原理の悪弊に求めるのであれば、(とりわけ日本には)建築家は不要と言うことになるのではないだろうか。

そう認めたくはないし、認めなければならないにしてもデザインと経済が共存、共生するのを諦めてしまうのはまだ早いのだと思う。諦めるには未だその試みが少な過ぎるだろう。我々は未だ何もやっていない。



建物の名称:MeganAvenueII
用途:オフィスビル
場所:Jalan Yap Kwan Seng

2009/08/02

パーツがまる見え


ツインタワーのあるKLCC北側にある、Jalan Ampang と Jalang Yap Kwan Seng の交差点にあるこの建物はオーストラリア大使館である。日曜日の大使館にはもちろん入れないから外からながめるしかないが、L字型のこの建物はその全体を皮で包んで仕上げると言う発想で造られることはなかったようだ。なので中身がよく見える。だが見えたところでそれが何を示しているかまではわからない。何らかの建築計画的な階層があって、それがこの形に現れているのだろうとまでは想像できるのだが。

ピカピカで目立つ外観の高層ビルの多い現在のKL市内の景観にあっては、この形も色もそして小ささのどれもがこの建物の何たるかをアピールするには至らないように感じられる。中低層の建物が大きく茂った木々の中に埋もれるように置かれていた10年か15年前であればこの建物の外観はそれなりの魅力を放っていたのではないかと想像するが、果たしてこの建物はいつ頃建てられたものなのだろう。ライトがプレーリー地帯に建てた家と同じように、この建物もこの熱帯都市にぴったりだった時代があるのだろうか。想像するしか無いのだけれど。


以前に見たスカイハウス(菊竹清訓:東京都文京区)もビルの谷間に埋もれたようにあったのを思い出した。テキストに出ていた菊竹氏のスケッチからはもっとながめの良い高台の庵のようなものを想像したのだが、実際には埋もれた状態となってしまっていてびっくりした。時代の流れは誰にとっても読みにくいものだと思う。

ありそうで無い?....トイレ


家の設備は長く使うものなので選ぶ際にあまり冒険はしないのではないかと思う。だからあまりに個性的なデザインのものは見たことがなかったが、この写真のようなトイレはいかがだろう? これはマレーシアではなくタイ製のトイレである。花が挿してある部分には穴が開いていてタンク内部の水が花に供給されるようになっていると思われる。

さて、これを輸入して使うとして、トイレ全体のデザインはどうしたものだろうか?

2009/08/01

仏塔なのか?


インド人街に入って一際目立つこの建物。色も形も巨大仏塔のようだ。

近づいてみるとオレンジの部分がショッピングモール、黒い部分がオフィスの通常用途のビルであった。構造も通常の鉄筋コンクリート・ラーメンと覚しきもので特に変わったものでもないようだ。なぜこう言うデザインにしたのかは謎。インド人街の中心にあって何かの信条を表現したかったのか、それとも目立ちたかったのか。確かにこの一角に入るとこの建物はよく目立つ。何だろうと思わざるを得ない。

外から見て用途の違う部分が違うとわかる。ただ、初めて見た時にはわからない。だから外観が機能を表現しているとも言えない。だからと言って単なる看板のための建築のようでもなさそうだ。内部に入るとこの外観とは対照的に何の特徴も見られ無い。つまらないと言ってしまって良いような内部になっている。

なのに外観は見れば見るほど思考が行ったり来たりさせられてしまう。
変な建物である。



建物の名称は Semua Hause。直訳すると「全ての家」となり、「何でも有る家」と言う意味にもとれる。深読みすれば信条的な何かを示しているようにも思える名前である。Jalan Masjid India(インド寺院通)の北側先端に建っている。

2009/07/31

共に生きること


熱帯の気候の中では木はとても良く育つ。
何しろ高層ビルの立ち並ぶこの大都会にあってさへも、この木々のパワーは圧倒的なのである。
時に木は人の行く手をふさぎ、足元を不安なものにもしてしまう。可憐な美しい花を咲かすこの細いプルメリアの街路樹が路上に敷き詰められたブロックをいつの間にか持ち上げて存在感を誇示するのである。


我々人間は自ら植えた街路樹の機能をどう想定していたのだったろう?
自ら植えたこの街路樹ならずとも自然と言う存在は果たして我々人間と共存可能なものなのだろうか。建築においてはそれは現代における課題であり、我らはその事について多くを議論している。多くは単に「共存」「共生」と言う言葉の中にそれを閉じ込めた状態で終わっている。建築物の周囲や内部に自然から拝借したオブジェクトを単に置いておくだけでお茶を濁す、と言ったら言い過ぎだろうか。


例えば、江ノ島の海岸にトンビが多く飛んでいる。彼らは我々が砂浜に広げた弁当に狙いを定めて下降し獲物を得ては飛び去っていく。この事を我々は解決すべき事象と捉える。ならば海岸に何らかの屋根を取り付けつつ視界を邪魔せず安全に海をながめる事のできる施設を建築としての解決策とするだろう。さて、それは果たして何をしたことになるのか。それは建築的な解決か、共生か、共存か。

共存や共生はキレイ事ではないな、とこの木々を見て思う事はないだろうか。自らの植えた樹木や花でさへこれなのだから、本当の自然との共存、共生は甘くはないだろう。だからと言って排除が解決とはならない事は歴史が証明している。つまり自然と喧嘩しつつも共に生きる事を考えねばならないのだろう。いつでも自らに都合の良いだけの牧歌的な解決策などおかしいと思うべきだと考える。



写真の建物はHotel Novotel Kuala Lumpur City Centreの先端部。この建物は鋭角三角形である。

2009/07/26

The Wall as Architecture


この写真を見るといくつかのキーワードが思い浮かぶ。
今回はそのキーワードを並べてみたいと思う。

●統一
建築から街の美観を言う時には常に "統一" と言うことを思い浮かべるものだ。

その場合、歴史あるヨーロッパの街並みや日本の宿場町のようなものを指すが、大都会クアラルンプールにも時にはこの写真のような風景が存在する。ここは Jalan Tuanku Abdul Rahman(タンク・アブドゥル・ラーマン通)と言って、アラブ系、インド系の住民が多く住み布地を扱う店舗の多い通りである。

こうして見ると軒や屋根のラインが揃っているし、窓の形状や趣味もだいたい揃えてある。軒下はここを訪れる客が自由に歩けるようになっていてその幅もだいたい同じなの第2の歩道となっている。これらは所謂ショップハウス群である。ただ、その通路になっている軒下の高さだけは不揃いなので注意して歩かなければ足を痛めてしまうだろう。なぜかそこまでは統一されないようだ。


●看板建築
この統一された趣味の建物は、故に今では保存されるべきものと認識されているようである。
だからと言ってそこに住む人々や商売の形態までが保存できるわけはなく、そちらはアップデートされている。中にはこの外観のまま中身がデパート風になっていたり、内部を細かく分割して貸し出しているようなものもある。

そしてほとんど全ての建物は裏の通りに面した背中合わせの建物と融合してしまって1つの建物となっている。背面から見るとそれがよく分かる。背面の建物はもう保存されずに形状がマチマチになったところでこの写真の建物と合体しているからだ。

そうなればこの建築物のこの統一された趣味の外観は内部の何物をも表現するものではなくなって、単なる人寄せの看板でしかないと言うことになるだろう。


●interface
つまり、この写真に見える部分は店舗機能と通りの機能を"結ぶ"と言う独立した機能を持った何かであると言えるかも知れない。店舗とも通りとも実は無関係で、それらを結ぶだけの境界線を示す何かであって、言うなればインターフェイスのようなものか。


●環境建築
また、通りを通る者から見ればそれは単にそこにある物で何も機能は持たないが、見えることにより通りの環境をつくる1つの要因にはなっているだろう。これは重要であるし、だからこそ元の建物の内部は保存されなくとも立面だけが保存の対象となっているのだから。

右上の写真は本体が破壊された後にも立面だけ残されている建物だ。造られた時には中身も立面も重要度は同じだったのだろうが、今は立面だけが重要になってしまった事を示しているようだ。写真下段の建物は特にユニークで、残された立面とその内部の新しい部分が分離している例。


●時間の中で独立して立っている壁
これらの立面は建てられた時点の思惑から大きく外れて立面だけが独立して存在する壁となったようだ。時間の経過とともに歩く人は変わり、生活も変わり、店舗も変わり、ビジネスも変わり、あらゆるものが変化し出来ては壊れていく流れのなかでずっとここにこうして立っている1つの独立した建築物となったのだろう。


●拘束
学生の卒業製作などに通りに長い壁のような構造物を作ってそこから街に何かが広がっていく(影響を与えたり実際に構造物が広がっていく)ような作品があるけれども、そのコアになる部分に長く残されるだけの魅力が付与されているかと言うことがあまり考えられていない場合が多いように思う。見た目、有用性、その他の何らかの魅力が例え後からデコレーションされてしまうスケルトンであったとしても何か必要ではないか、と、これを見て思う。でなければ長く残るものは単なる拘束条件となるだろう。

2009/07/25

マレーシアの建売住宅


これまでクアラルンプールの不動産会社による建売住宅の資料をいくつか集めてみた。

そのプランはどれもほとんど同じ構成で、個性のようなものは全くと言ってよいほどに無いようだ。それは建売住宅と言う商品なのであるから仕方ないのだろう。もちろん日本のそれも同じようなものだと思う。


写真は建売のセミ・デタッチ(2戸以上が繋がったタイプ)の模型で、左がGF(グランドフロア)で右が(上階)。

日本人にとってまず最初に気になるであろうことは、これが東西南北のどちらを向くかだろうと思う。セミデタッチであれば尚更シビアに左右どちらを買うか考えるのではないだろうか。正解は"無指向性"である。このプランが広い敷地に無作為な向きで置かれている場合が多いのは、季節らしい季節が無いからかと想像する。


GFの奥の壁の向こう側は駐車場とエントランス。駐車場側から直接GFのリビング・ダイニングに入ることになり、日本の住宅のように玄関のような物は無い。靴を脱がないので下駄箱も無い。GFには通常キッチンとその横に使用人部屋、ゲスト用のベッドルームがある。これよりもっと大きな住宅であればゲスト用ベッドルームの数が増え、ダイニングとリビングが分かれたものとなる。

使用人部屋があるのは現在の日本では珍しいが、マレーシアではインドネシアその他からメイドを雇うのが多くの場合普通となっているのでこの程度の住宅を買える層には絶対に必要となる。(メイドの月給は1000リンギットに達しないそうだ。)女性は家庭を守るよりも外で仕事をした方が良いと言う認識も一般的らしい。また核家族化も進んでいるそうだ。


上階にはマスターベッドルーム(夫婦用)と子供のベッドルームが2つある。各部屋にバスルームが付属する。これより大きな住宅になるとベッドルーム数が増え、階段を上がったところに上階用リビングが設定されることになる。


日本の建売住宅の宣伝文句には収納の多さがあるが、マレーシアでは全くそれは気にされないらしい。カタログにも模型にも収納は考慮されていない。ウォークインクローゼットなどももっと高級な住宅でないと設定されない。ベッド数、床面積、そして見た目が全てだ。

セミデタッチで気になる防音、そして気温の高い地域なので断熱も気になるが、壁面の仕上げはコンクリートにペイントのみとなっていて、そのあたりはとても簡素であるようだ。家具を除けば概してこの模型で見えるものだけが商品としての全てなのである。


もう1つ気になる事は、この多民族国家の住人がほとんど唯一と言っても良いこのプランだけで満足できるのか?と言うことだ。中華系は家で靴を脱ぐ習慣は未だ残しているそうであるし、日光の当たらない暗い部屋を好む人たちもいると思われるので最大公約数でも何でもないであろうこのプランはやはり"モダン"のマジックなのではないだろうか。(これについては以前のArchidex09の記事を参照のこと。)


写真左上は上写真のプランの住宅の外観、右上は隣家との繋ぎ目。
下段は別の建売住宅で、外観はモダンそのものだが平面は上段の住宅とほとんど変わらない。これは比較的向きが揃っている方だが、屋根の傾斜を見てわかる通り東西南北は気にされていない。見た目重視度がわかる。ただ、この程度のモダンっぽさではもう誰も驚けないかもしれないが。

2009/07/23

Islamic Modern 2


前の記事に続きイスラム・モダンの第2段である。

こちらは本当に宗教建築モスクである、クアラルンプールのナショナル・モスクだ。
写真を見ただけでどこかで見たような形状だとすぐにわかると思う。高崎の音楽ホールやF・L・ライトの作品によく似ているようだ。建築マニアにはこの写真だけで楽しんでもらえると思う。

そして、デコレーションと構造を共存させている例としても参考になるだろうか。

2009/07/22

Islamic Modern


"和モダン"と言う言葉が日本ではよく使われる。
それは多分、建築史の中で日本建築とモダンの類似点が論じられ、和とモダンの相性が良いと我々が認識しているためであろうか。雑誌などを見ると多少それも過度であると感じることもあるが。

ただ、モダンと相性の良いのは和だけではない。日本でも書籍をあたれば中華とモダンのキメラデザインを探すこともできる。多分他の国においてもその類のものはあるに違いない。

今回の被写体はクアラルンプールにある"Islamic Art Museum"である。

現代のイスラム建築は日本ではあまり馴染みが無いものだ。だからイスラム建築と言うとタマネギのようなドームが乗っている組石造の建物を思い浮かべるのだが、世の中いつまでもそのやり方で行けるわけはない。よってここにちゃんと"イスラム・モダン"が存在していると言うことになる。


大きな吹き抜けや緩やかなスロープを使った空間どうしのつなげ方はモダンそのもの。縦の線を強調して見せる柱や伸びやかな床面などの幾何学構成はなるほどイスラムデザインと相性が良いように思える。しかしその幾何学構成をデコラティブにも利用しているところがやはりきちんとイスラム建築らしくて面白い。

上部と下部で形状の違う柱、吹き抜けの上部にあるドーム、天井と壁面の間のスリットからグリーンの光が入ってくるようになているところなど、機能を越えた何かを感じさせる演出がなされている。


但し、これは宗教建築ではなくあくまでも美術館である。
全体の構成はコルビュジェの作品にあるような回廊式に手を加えたような形で回廊の中央部分はイスラム建築によくある噴水のある中庭、それを美術館の中から眺められる。つまり一般の美術館のような窓の少ない建物ではなく自然光で鑑賞させるタイプだ。

そう言う意味からもイスラム建築とモダンの相性の良さを感じさせる建物であった。

2009/07/08

エクササイズ



これはJalan Sultan Ismail(スルタン・イスマイル通)にある Menara Purdential と言うオフィスビル。このビルはとても気になる形をしている。なぜ? 何をどう考えるとこれがデザインできる? リファレンスはどこから? 基本に返ってそんな事を考える題材には最適かもしれない。

エクササイズとしてこの建物にコメントしてみませんか?
お好きな方は是非 ! どうぞこちらに! ↓

2009/07/05

Not Only a Tower but...


ペトロナス・ツインタワーができてしまったこと、隣接して同じほどの高さのビルが建ってしまったことなどでこの建物のシンボル性は失われたのかもしれない。以前は有名な建築物であったようだが今はもう誰もこれを見るために訪れることは無さそうで、ひっそりと建っているにすぎない。

これは宗教建築物だと思って見に来たが、中部に入って守衛さんに聞いたところオフィスビルだとわかってびっくりさせられた。しかも35年ほど前に建てられたものとの事。(年代未確認) 近づいて、そして内部に入ってさへイスラム建築の香りがするからだ。驚いたことにこのタワーの中間部の柄が変わるあたりまでは駐車場になっている。駐車場の蛍光灯の光がチラチラと漏れて見えるのがさらに宗教建築物らしさを増幅させる。それより上部は通常のオフィスになっているらしい。

遠くから見ると4本の太い柱状の構造体が中心に向かって寄りかかりつつ支えているように見える。だが実際は中心部にあるコアが全体を支えていて、下部に行くに従って広がっている部分は駐車場の台座に過ぎないようだ。駐車場の台座が中間部で実際の塔状の部分に統合されてこの形を成立させている。まるで富士山のように整った形である。


デザイナーがこの建物に込めた思いはどう言うものだったのだろう? もし自分がデザインするとしたら、そんな思いや祈りのようなものを込めて建築物をつくることができるだろうか? それをするバックボーンが自分の中にあるのかどうか、思いを巡らせてみる必要がありそうだ。

そして、この建物で毎日仕事をするのはどんな気分なのであろう?


写真左側の下部に見える渦巻きは車が駐車場に入るためのスロープで建物裏側にある。正面からは見えない。

建物の名称:Tanbung Haji Building

2009/07/04

ARCHIDEX09 @KL


クアラルンプールのKLCCコンベンションセンターで行われている"ARCHIDEX09"を見てきた。
残念ながら世界の建築家の講演には参加できず。(スケジュールなどいろいろあって。)
コンベンションセンター全体を使っての展示(TradeDayとPublicDayの2日間)のみ見てきたが、中身は建材、家具、設備などの展示だけで建築事務所もデザイン系の展示も無しであった。それでもマレーシアでの一般建築における嗜好が見て取れるようなものが多く展示されていて、それらは日本では見られない物が多かった。概して高級指向でデコレーション指向だ。

アイランドタイプの大型キッチンの展示ブースで若いセールスマンにある質問をしてみた。

「マレーシアにはマレー系、インド系、中国系など多くの民族がいてそれぞれ生活習慣がみな違うはずだけれど、このシステムキッチンはどのあたりをターゲットにしているの?」

「大丈夫、みんなこのモダンスタイルが好きだから。」

そんな話をしている横でインド系の若い夫婦が興味深そうに営業マンに何か質問をしていった。これは韓国LGの製品でステンレスのキッチンテーブルから電動で液晶モニタがせり出して来る、びっくりするようなスペックのモデルだ。



これまでマレーシアのいくつかの住宅メーカーのカタログを見て不思議だったことは、まさにこの事。

どのカタログ、模型を見てもどうも生活感が無い。カッコいいけれどもまるでテレビドラマで見るような現実感の無いデザインとレイアウト。広いリビングとそれを取り囲む独立した多くのベッドルーム。マレーシアの住宅はベッドルームの数と広さとデザインの"モダンさ"がスペックであるらしい。南北すら示されないのに部屋からプールに直接つながるデッキがあったり迷路のような形に刈り込まれた植え込みがある。

他のブースでも同じ質問をしてみたが、返ってくる答えは同じだった。
高い発展段階にあるこの国では住宅に求めるものはかつての日本がそうであったように未来指向であって、伝統や習慣のようなものではないのかも知れない。"かつて"と言ったけれども今の日本も未だスペック主義であることには変わりないだろう。収納の多さや部屋数に対する価格で選ぶのだから。生活と言うようなことを真剣に考えなくても家は建つのだろうし、かえって考えない方が商売にはなる、などとネガティブに考えてはいけないのだろうか。

壁柱による構造表現主義


ペトロナス・ツインタワーを背にしてKLCC公園を眺めると、高層高級コンドミニアムの一群が公園の緑を取り囲んでいるのがいかにも先進国入りを目指すクアラルンプールの街らしい。それらはいかにもデザインしましたと言わんばかりの目立つ外観のものばかりだ。

しかしそれがよくあるラーメン構造にデコレーションとして取り付けた何かであるのか、それとも構造と関係があるのか判別は難しい。けれども、その中の1つであるこの建築中の建物はを見て、単にデコレーションではなかったのだと納得させられた。

まるで戦後日本の構造表現主義を発展させたよう? スカイハウスの発展型のよう?
スチレンボードで造った模型をそのまま実物に発展させたように明快である。


建築物名は"The TROIKA"
コンドミニアムなどの集合住宅と思われる。
(左下に写っている白い建物は手前にある別の建物。)

マレーシアの学生の作品

Student of malaysia

ARCHIDEX09のために製作されたと思われる学生の作品。
(クリックするとアルバムに飛びます。)
何を勉強しているかよくわかる作品がありますね。

感想は?

2009/06/21

敷地境界


昨日、ホテルの部屋を1階から2階に移ったおかげで面白い光景を観察できるようになった。

この写真の中央上に見えるものは、柱ではなくて壁の端面(約120mm)である。壁の端面から写真右下に向かって細く切られたタイルは若干傾斜している。


この個人経営の小規模ホテルの住所は、"173&175 Jalan Imbi........" となっていて、2つの番地の2つの敷地にまたがっている。ただ、1階から入るとそこは広いロビーになっていて2つの建物が繋がったものだとはとても思えない。ロビーは2つの建物の壁を完全に取り去っているからだ。だから最初ホテルのビジネスカードを見たときに"173&175"の意味がわからなかった。

2階ではこの段差によって、これがかろうじて観察できる。共有壁面に穴を開けて通路を通したのだ。こちらマレーシアではよくあるものだとしても日本ではほとんど見られない珍しい光景だろう。

これを見て、いくつかの疑問が沸いてきた。
(1)元々壁面を共有していたとは言え、段差がこれだけ少なくて済んだのは何故か。寸法のモジュールがあるのか、それとも使用される材料にそれがあるのか、または偶然か?

(2)梁はどうやって取り付けられているのだろうか? 鉄筋コンクリート(ラーメン)の建物でどちらか片方が先に建設されるとなると、隣接する後から建設する方は既に有る柱にどうやって梁を取り付けるのだろうか? 柱と梁の鉄筋は接続されていないのだろうか? 梁を壁に(この建物は壁構造ではないが、壁はコンクリートブロックか煉瓦が閉じ込められたものと思われる。)持たせるのか?

(3)壁面を共有する一連の建物(このホテルはその両端を別の建物と壁面共有している。)が、例えば東側から順に作られるのであれば割合平和に連続できるが、適当な位置から好き勝手に建てられる可能性も高いので、そうした時に最後に建てられる建物は柱ピッチが左右で違うはずだが、その時の梁はやはり斜めに通されるのだろうか。


そんな疑問は日本しか知らないから出てくるのであって、こちらの大工にとっては日常の些細な事なのだろうと想像する。こう言う状態を我々が"イイカゲン"ととるか、見えないあるシステムの産物と考えるかどちらなのだろう? これが我々を何かから自由にするか、それともその反対か、と言ったような事も考えてから結論を出すべきではないだろうか。

2009/06/18

Suki ?


ジャラン・スルタン・イスマイルとジャラン・P・ラムリの交差点、林立する高層オフィスビルに埋もれるように建っているこの不思議な形の建物は、レストラン・サングリア・アイランドの看板がかかっている。昼間の間は内部が薄暗く夜間の準備のために何か準備をしているらしき人影が動いている。

この建物は他のどんな建物とも違う外観で、どこから着想を得てデザインされたのかが全く想像ができない。以前に少し調べたマレーの伝統的家屋の発展形でもないようである。


解明のヒントになるは向かって左端の赤と白のシマシマだ。その赤の部分は赤いフィルムを貼ったのか、赤いPVCかの窓になっていて、中身は螺旋階段になっている。その螺旋階段はきれいな円形ではなく、いったいどうやって図面を描いたのだろうかと考えてしまうような不整形の渦を巻いている。

階段室の壁はその階段に沿って壁が設けられていてやはり変な形のまま外形を成している。

そう言う方法でこの建物の外形は決定されているようなのだ。つまりこの建物の外形は内部の空間によって決められているのであるらしい。その意味ではこのずんぐりとしたよく分からない建物は立派にモダンの方法論でデザインされているとも言えるし、数奇のような考え方で発想されたとも言えるのかもしれない。もしくは単なる遊び心かわがままか?


この建物の中から持ち主はこの街をどのように見て暮らしているのだろうか?

2009/06/13

Hotel Maya only for guests


ペトロナス・ツインタワーを出てジャラン・アンパン(アンパン通り)を西に歩く。
ほどなく通りの北側にHotel Mayaが現れる。

だが、宿泊を目的としない者にとってその建物は特に注意を引くものではない。
白く四角いだけの大きな建物、それほど大きくもない車回し、側面には田の字を並べたかのような多くの黒窓。注意してみなければその程度だ。

あえて注意してみると、側面の中央下に建物全体の意匠とは似つかわしく無いトゲのような何かがほんの少しだけ見えている。不思議に思って正面エントランスの暗いガラス扉から入っていって中を覗いてみると驚きの光景がそこにあった。


内部から見れば、この建物が通常の四角い箱ではないとすぐに分かる。この写真のような人工樹木が左右2列をなして生えていて、客室はその真上にやはり2列に並んでいる。と言うことは中間部は全て吹き抜けである。吹き抜けの上部には半透明の屋根がかかっている。

人工樹木はよく見れば客室の床までは伸びてはいない。空中に浮き上がった客室棟を直接に支えているのは幹ではなく枝だった。人工樹木と客室棟の隙間の空中には素朴な樹上露台が置かれていたりと空間構成上の工夫がふんだんに盛り込まれていて、それはもう別世界と言って良いほどのものを創り出している。


全てはこのホテルを選んだゲストだけのための空間であり、言わば"隠れ家"を提供しようとの意図があるのではなかろうか。旅はそれがどんな旅であっても多少冒険の要素があるものだが、こうしたホテルを選ぶことができたならその気分は大きく増幅されるものとなろう。



※不親切にも内部の写真は掲載しない。なぜならそれは宿泊客だけのものだから。

2009/06/12

ARCHIDEX09 建築エキジビジョン@KL

建築、インテリアデザイン、建設のエキジビジョンが7月2〜5日に、ツインタワーの敷地内にあるエキジビジョンセンターで行われる。一般向けに公開される日は4〜5日となっている。これに参加しようと考えている。

ARCHIDEX09

2009/06/10

BB Plaza The Big !


この建物のベストショットを撮ろうとして周囲を歩き回っても、それは無駄だと思い知るだけだ。一番良いのはこうして航空写真を借用してくることだと思われる。

紹介しよう。この建物の名はBukitBintangPlaza(ブキット・ビンタン・プラザ)、通称BBPlazaと言うショッピングモール、写真では赤で囲った部分全部がそれだ。

この建物は実は2つの建物が繋がったものなのではないかとも言われているが、周囲の壁面にはそれらしき分割線が見当たらないので1つとしておいてもよいのではないかと思う。中に入ってみればなおさら1つのようにしか見えない。


写真に撮れない建物をどうしてここでとりあげるかと言うと、それは航空写真を見ての通り、"デカいから" の一言に尽きる。

六本木ヒルズの全敷地の2/3を全て建物で埋め尽くしたと言ったらわかりやすいだろうか。階層は多分5か6の中層。だが実は傾斜地に建っているのとその複雑さでよくはわからない。そして中にはデパートが2つも収納されている。その全部を合わせても全床面積の1/4も使ってはいないだろう。その他は個人経営をはじめとしたテナントとそれ以外にほとんど屋台のようなものが無数に入っている。その総数は誰にもカウント不可能に違いない。また屋上と地下には巨大な駐車場まで備えている。

そのデカい建物がその内部のどこもヒンヤリ感じられ、しかもこれほど混雑しているのに息苦しくもないほどみごとに空調されている。そこには大きさとともに巨大なパワーさえ想像されるのである。


通常、建築物はその機能と造形とそこを使う人の関係性などによって論じられるのであるが、このバカが付くほどの"デカさ"はそうした建築のリージョナルな議論を全く無視して成立させてしまう、一種のパワーなのではないかとこのBBPlazaによって感じさせるのである。

建築学科の学生の卒業製作でこれを提出したら絶対に不合格になりそうなこの建物、いったい何がしたかったのだろうか。その答えは敷地面積の拡大と言う単純な発想ではなかろうか。



さて、これに一番似た建築を思い起こしてみる。

.........ドミノシステム、意外かも知れないが、これが一番近いように思われる。
柱に支えられる床、そしてどのようにも自由に使える内部。コルビュジェのドミノシステムを広い敷地面積いっぱいまで拡大して造る。中身は屋台だろうが商店だろうがマネーチェンジャーの閉じたブースであろうがその他食堂、スーパーマーケット、イベント会場でも何でも商業ビルとして考えられるものは何でも入れられる。そこに外皮を被せて出来上がり。

あまりに広すぎて内部の機能と外皮はほとんど何の関係も持たなくなる。であれば外観デザインがどうのと気にしてデザインなどする必要は全くない。単に囲えばそれで済む。外を歩く人間から見てもあまりに巨大で全体を把握しようとすら思えないほどであるからなおさらである。単にこの街の延長となる部分が何倍かに増幅されてそこにあれば、それで良いのである。


巨大とはそう言うものなのである。建築であるのか都市であるのか、はたまたその中間なのか。ただ"デカい"、そう言う視点から建築を捉えなおしてみるのも面白いかもしれない。




※BBPlazaはやはり2つに分かれていて、南側半分はSungeiWangPlazaと言う建物になっている。よく見ると切れ目はあるが、私のようなKL初心者には難しい。

2009/06/09

Ultimate Contextualism ?


この建物は........と書き始めたが、"この"ではないのだと気付いた。"これらの"建物と言い直す必要があるからである。

つまり1つの建築物に見えるこれらは、実はたくさんの建物の集合体なのだ。隣り合う建物どうしの隙間が無いために一体に見えるが、これは知る限り東南アジアでも台湾もそうなのであるが隣接する建物との間の壁面は共有するのが当たり前と言う習慣によるものである。(この中の一軒のみが建て替える場合にどうするかとか、壁の所有権については説明すると長くなるのでここでは割愛する。)

スカイラインがギザギザなのはこれらの建っている敷地が傾斜しているところに個々に建築されたためであって、デザインされたものではない。しかも道路のカーブに沿って立面が湾曲してもいる。彩色がなされている部分は隣接する別々の建物を1つのものとして借用しているか購入した結果である。2軒分の1階部分を接続して、つまり壁を取り除いてしまっている建物もある。

さらに面白いのは、よく見ると1階の上のペデストリアンデッキ(と呼んで良いかどうかわからないが)が階段状に全て接続されていることである。


こうして別々の所有者が隣り合う建物に合わせて接続するように建築していくと言うのは、きっと何らかの暗黙のシステム、と言うより了解によるものではないだろうか。そして出来上がった建築物は地面のウネリにも道路のクネリにも隣接する建物の意匠やサイズにもよく適応する。もしかしたらこの地の人間関係に関係するものなのか、とも思わせる。

あえて建築の言葉を使って言ってみるならば、これぞ究極のコンテクスト主義とは言えまいか。

また、こうした方法論で建築物が膨張しやがて都市を構成すると想像するならば、どんな都市が出来上がるのであろうか。コアの無いそしてコンダクターの居ないメタボリズム? それとも九龍城? ここに何を見るかによってその答えは大きく違うものとなるだろう。




この場所はクアラルンプールにある Changkat Bukit Bintang と言う通りの Confort Inn と言う安宿のある部分。

2009/06/07

Back side of "Lot10 "


BukitBintang はクアラルンプールの銀座と言って良い街だ。その中央交差点脇にグリーンモンスターのようなショッピングコンプレックスLot10(ロット・テン)がある。

Lot10はその交差点側が正面になっていてそちら側からの風貌はデンとして弧を描く緑の威容(または異様)なのであるが、実はこのビルは"デン"で済むほど単純な形はしていない。裏側には立体駐車場も付いていれば別の敷地が入り込んでいて大きく欠けた部分もあり、しかも裏に行くに従って敷地自体がスロープしている。"デン"と見えるのはそちら側のそう言う意匠を作って取り付けただけなのだ。

そして中身はグニャグニャしたステンレスに輝く大きな吹き抜けになっていて、どこかサイケなどこか70年代から見た未来のような面白さがあるものになっている。但し構造的には多分普通の鉄筋コンクリートラーメンであろうと思われるがそうした構造の単純さを感じさせない勢いを持っている。


今回載せたこの写真はLot10のモノレールの通る大通りに面した南西側、広い歩道とこのビルの敷地の境目がわからないように入り混じった感じになっている部分である。

規則的に並んだビルの丸柱と歩道の樹木が混在する。他ではノッペリした形状のビルのこの部分だけは歩道に面する部分のみ多少複雑にえぐられ、そこに階段とモノレール駅へのデッキが絡まるように配置されている。それにより年中暑いこの国であるにも関わらず林の中のような涼しさを感じさせている。

もう古い建物であるが色も含めてなかなか野心的な造型だったのではないだろうか。



※Lot10の正面写真は観光ガイドまたはインターネットで検索すると出てくると思われますので載せません。建築としては有名ではありませんが観光地としては有名ですので、ぜひ検索してみてください。

2009/06/06

マレーシアの建築散歩

クアラルンプールにしばらく居ることになった。
クアラルンプールの街を見ると日本では考えられないような面白い建物が多くみられるので、せっかくだからレポートする事にした。ただ、有名な建物をとり上げてもそれはきっと既に報告されていて珍しくもないだろうから、ここでは無名のものを中心とする。

2009/05/10

大判プリンタの使い方 講習会開催

本日、東京サテライトに大判プリンタを搬入して置いていただくことができた。これはOB会管理と言うことで、申し込めば誰でも実費でA1までのプリントが可能。今日、来ていただいた方(あんなに多く人数が集まるとは思わず説明書が足りなくてすみませんでした。)には簡単に使い方を説明したが、来られなかった方はMLかmixiなどで分かる人を探して聞いてから使用していただきたい。ドライバとマニュアル入りのCDROMも置いてきてあるので参照のこと。

※プリントの操作の前にドライバーのインストールについて書いているのは、大学に用意していただいたPCにはイラストレータなどのパネル作りに必要なアプリケーションが入っていないこと、環境によってプリンタの設定が微妙に違ってしまいプリントの結果が異なる可能性が出るなどがあるため、できれば自分のパソコンを持って行ってプリンタに接続する方がメリットがあると考えるため。

以下は今日説明した内容である。


HP Designjet 500 による大判プリントの概要
1.ドライバーのインストール

(1)ドライバーはHP(ヒューレットパッカード)社のサイトにある "サポート&ドライバー” からダウンロードできます。下のような選択肢を示す画面が表示されますから←のものを選んでクリックしてください。

HP Designjet 500 モノクロ プリンタ シリーズ
»HP Designjet 500 モノクロ 24-in Roll Printer
»HP Designjet 500 モノクロ 42-in Roll Printer
HP Designjet 500 プリンタシリーズ
»HP Designjet 500 ←これです!
»HP Designjet 500 Plus 24-in Roll Printer
»HP Designjet 500 Plus 42-in Roll Printer
»HP Designjet 500ps
»HP Designjet 500ps Plus 42-in Printer

お使いのOSを選択するとドライバー一覧が表示されますので、
"HP Designjet500/800 HP-GL2ドライバ及びHP RTLドライバ"(日本語)を選んでダウンロードしてください。
(※09年5月9日現在、HPサイトの不都合により最新版のダウンロードはできません。)


(2)インストール
ダウンロードしたファイルをダブルクリックで展開します。
コントロールパネルの "プリンタとFAX” から "プリンタの追加” を選んでインストールします。
Windowsはドライバーを自動で検索できませんので、展開したフォルダにあるinfファイルを手動で選択します。

コントロールパネル内の ”プリンタとFAX” の中に新しいプリンタが追加された事を確認してください。

※この操作はプリンタを接続していなくても可能です。後でプリンタを接続した場合に"新しいハードウェアが検出されました”と言うメッセージが出る場合がありますが、これは無視してかまいません。


2.プリント操作の流れ

(1)用紙のセット
(2)プリントする画像をPCに表示
(3)USBケーブルの接続
(4)プリント設定
(5)プリント
(6)インクを乾かす


詳細
(1)用紙のセット
用紙はロール紙とカット紙が使えます。用紙の材質も選択できます。
サイズはオーバーサイズISO-A1までです。作成した画像に合わせて選んでください。

a.プリンタの電源をONにした後、操作画面から"用紙のセット”を選んでその指示に従います。
b.カバーを上げ、紙セット用の青レバーも上げます。
c.ロール紙の場合は正面右端の青線に合わせて裏側から紙を引き出します。カット紙の場合は正面側から用紙を差込み、用紙押さえのところにある青線と、右端青線に端面を揃えて置きます。
d.青レバーを下げ、カバーを閉めますとプリンタが自動で用紙をチェックします。


(2)プリントする画像をPCに表示
作成したファイルは表示可能なアプリケーションで表示してください。画像のファイルサイズが大きすぎる場合、正常にプリントできない場合があります。その場合はファイルサイズを小さくする、用紙の中央に印刷する機能をOFFにするなどでプリントできる場合があります。

作成する画像はA1での印刷を想定している場合、A1より大きめでオーバーサイズより10mm小さい程度に作成してください。実際にプリントされるサイズには誤差が出ます。(経験上、長手方向に5mmほど短くなった事があります。) 不要部分はパネル化する時に手でカットしてください。

ベタ塗りがある場合はインクの残量と用紙(コート紙などを使用する)に注意してください。
※このプリンタはグラフィックプリント用ではないので、特にベタ塗りでの色の再現は得意ではありません。試しプリントとして使う事にして、本番はプリントサービスに依頼する事も考慮に入れてください。

(3)USBケーブルの接続

(4)プリント設定
使用しているアプリケーションで印刷設定をしてください。用紙、レイアウト、向き、解像度などの選択です。
最小余白は5mmです。(設定項目があります。)
できるだけプリント前に "印刷プレビュー” で確認してください。

プリントの設定はプリンタではなくPC内に保存されますので自由にプリントの状態をコントロールするにはご自分のPCにプリンタのドライバをインストールする事をお勧めします。

(5)プリント
大きな音がしますからびっくりしないでください。
紙がクシャクシャになったら必ずプリンタの操作パネルでプリントを "中止” してください。
プリント中でも電源コードを抜いて止めてしまってかまいません。
(プリンタ内部のベルトに負担がかかり、ベルトが切れると交換が必要になってしまいます。)
プリントの状態が変だと思った場合も中止してください。

(6)インクを乾かす
インクは用紙にもよりますが1分間程度の乾燥が必要です。反応性のインクが使われているためです。

3.その他の注意
(1)プリント品質がおかしい場合
パネルのインクメニューでトラブルシュートができます。ほぼ自動でヘッドの状態の診断ができますから指示に従ってください。

(2)紙の保存
ロール紙は湿気を帯びると波打つことがあります。必ずビニール袋に入れて保存してください。
また、波打った部分は切ってから使ってください。
波打ったまま使用するとプリント中にクシャクシャになりベルトが切れる可能性があります。

(3)プリント前のクリーニング
プリンタのカバーを上げて、用紙押えの上部にはベルトのカスが落ちています。これをプリント前に吹き飛ばしてから使用してください。プリント中にカスが落ちるとプリント品質が悪くなります。

(4)交換部品
交換部品は以下となります。
a.インク (4色独立)
b.プリントヘッド (4色独立)
c.用紙 (塗り面が多い場合は特に用紙を選んでください。CADの平面図などでは普通紙でOK。)
d.ベルト (切れた場合。自分で交換可能なようです。)

(5)予め、HPのサイトにてサポート情報を見ておく事をお勧めします。

2009/04/23

JIA東海卒業設計コンクール 落選

JIA東海学生卒業設計コンクールの審査結果がクロネコ・メール便で送られて来た。

落選だ。

応募作品数は59点だったそうだ。
そのうち入選は10点。
10点中名古屋工大6点、三重大1点、豊田工業高校専門学校1点、名大2点。
残念ながらASUは入選無しだった。
今年度の人にはがんばっていただきたい。


以下の展示会に応募作品の全てが展示されるとのこと。

入選作品展示会
名古屋都市センター「まちづくり広場」大研修室
(名古屋市中区金山 金山南ビル11階)


この通知が来たので早速模型は解体してゴミ袋に収まった。

2009/04/05

道具の話 その2

道具でもう1つ書き忘れていたものがあったので追記。

15.ブログとインターネット
まず、このブログ。
文章に書くと言うのは思考の断片を整理して一方向に収束させる作用がある。それはブログも同じ。ただ、他人に見られるのを意識して書くのだからメモ程度の内容であってもある程度まとまり感のあるところまで持っていく必要はあると思う。(勝手に思っているだけだが。) それはすなわちレポートのような物を”まとめる”と言う時には頭の整理として有効だったと思われる。

その手前の発想の段階では紙に絵を描くようなメモになっていたり、マインドマップのような発散したものを描いている。できればそうしたメモが残せるブログがあれば良いのだが。しかしまあ、まとめると言う行為も必要だったから今の形のブログは役立ったと感じている。


しかし、残念に思うこともある。

その昔、インターネットで便利なことは?と聞くと、ほとんどの人が (つまり仕事で最初に使わざるを得なくなったオヤジ世代。つまり私と同世代も入る。) 調べ物に便利だと言っていた。その名残は今でも残っていてたぶん多くの人は今もその用途で使っているのだろうと思う。

できれば、ここに書いたものについて批判的、または批評的な意見が寄せられると嬉しかった。たまに意見やヒントをいただけたが、数は圧倒的に少なかった。こちらの気分を害することを気遣っての沈黙だと思われるし、コメントを入れるか入れないかはその人の判断に委ねていること、そして入れていただけたらラッキーな位のことなので贅沢は言えないとも思っている。


しかし、これから同じ様に勉強する人達にはもっと意見交換の機会が必要ではないかと思うので、そうした中でもしインターネットやブログなどのツールを活用するのであれば少しづつでもコメントを入れ合うことや自分の作品や考え方を他人に見てもらうようにするのが、自分のためには良いように思う。

最終作品を発表する前に誰かに何かちょっとでも言ってもらえるのは本当に幸せなことだと、心から思う。

2009/04/03

道具の話

パソコンが壊れて修理に出たのを記念して、大学での勉強に使った道具について書いてみようと思う。


1.パソコンについて
2年前に大学に入る事を決めたときにパソコンを新たに購入することも決めた。CADに使う事がわかっていたから、それまで使っていたモバイルタイプのノートでは絶対に不足だと分かっていたためだ。コストと性能を考えればデスクトップタイプを選ぶべきだが、少し大きくても持ち運びをする予定だったのでノートで性能の満足するものが前提になる。

性能の指標はAutoCADスペックから引けば良いのだけれど、そこには触れられていない画面の解像度なども考慮する必要がある。それに値段も。そうなるとあまり選べないことがわかる。HPかLenovoのハイスペックなノートパソコンで、パソコンと言うよりモバイルワークステーションてやつだ。ただし、普通に買うとすごーく高い。

選んだのはLenovoの"Thinkpad T60p"と言うモデル。画面はWSXGAサイズ。本当はWUXGAがあれば良かったが、値段でこれしか選べなかった。秋葉原の安い店で半額強で買った。


2.プリンタ
卒研のためにA1サイズのプリントができる大判プリンタを中古で入手した。
送料込で6万円、紙とスペアのインクをアマゾンで買って全部で8万円になってしまったけれど、20枚程度プリントすればキンコーズでプリントするのと同じになる。それに半日待たされなくて済むし何回も失敗できるからそう高くなかった。おかげで1mx0.9mの模型の型紙もできた。

本当は使い終わってから売れたらもっと良かったが、今は不況で出物が多くてオークションに出しても値段が付かないからダメだ。逆にこれから卒研の人は4万円程度で買えると思う。

HP Designjet500 (オプション付:HPGLカード+160MBメモリ)

これを使って他の人の卒研を手伝ってあげたかったけれど、発色などの印刷品質にクセがあったし、ソフトで編集したファイルの出来によって印刷にコツが必要だったのでそれはできなかった。ごめん。そう言う意味で誰にも勧められる方法ではないと思う。


3.Inkscape
Adobeのイラストレータのようなベクター画像のためのソフトで、無料で使えるもの。プリンタがあるおかげで出力センターの指定するソフトを買わなくても、これで済ますことができたと言うわけだ。

済ますと言ってもこれは今まで使って来たアプリケーションの中で最も使いやすいものだった。アイコンを見ただけで使いかたに迷うことがないほどうまく出来ているのにかなり高機能を備えている。マニュアル本も出ているが必要なかったこともあって、これはかなり好きになった。

この手の道具は業界標準のようになっているものを使うのが普通なのだけれど、建築のデザインと言うのは他人がやらない事をやると言った意味もあるわけだから道具だって本当は自分で選んでも良いだろうと思う。ソフトじゃなくてペンや模型材料だったら迷わずそうするのだから、ソフトでも自由度を獲得したらどうだろう。

但し、現バージョンのInkscapeには印刷の面で重大な欠陥があった。ただ、それを補う方法もあるからあまり心配はしていない。


4.OpenOffice.org
無料で使えるオフィスソフトだが、これがあるおかげでMS-Office付きのパソコンを選ばなくて済んだ。ワープロ、表計算、ドロー(絵を描く)、プレゼンテーションなど一通りのことはできるし、MS-Officeのファイルも読み書きできる。

得に重要だったのが、ドローで、これは上に書いたInkscapeと同じような機能のソフト。あれほど高機能ではないが、CAD図の縮尺を心配せずにパネルレイアウトはできる。これでレイアウトして提出した設計課題もある。使いかたはMS-Officeとそう違わない (但しMS-Officeにドロー機能は無い。オートシェイプと似た操作でできる。) し、こちらの方が便利と思うこともある。無料で使える。


5.GIMP
これはAdobeのフォトショップにあたるソフトで、これも無料で使える。
これは高機能なので複雑なことをやろうとすると少しは慣れが必要だ。でも最近は建築の雑誌でもパソコンやCAD雑誌でも紹介されている。

大学の提出物も卒研も最終的には紙だから、どんなソフトを使っていてもあまり問題はないと思った。


6.Picasa3
Googleが配っている写真アルバムのソフトだけれど、ちょっとした写真の編集にはこれがとても重宝だった。基本的な色修正や切抜きは高機能だけれど重いGIMPを使わなくてもこれで大丈夫だった。たくさんの写真の中から選びながら作業できるのが良いと思う。


7.AutoCAD Architecture 学生版
CADはスクーリングで使ったこともあるのでこれを1万円ほどで購入。壁や柱やその他基本的な建築で使う要素が用意されていてとても楽。最初から最後まで全て3次元でモデリングできるのも素敵なことで、2次元でやっていた時とは頭の中も違ってくるように思う。卒研では2Dは全く使用せず3Dだけでやった。

通常版が高くて買えないのが欠点。


8.スキャナ
1200dpiほどの解像度のCanon製スキャナをフリーマーケットで100円で購入して使っていた。ドライバソフトはCanonからダウンロードできるのでパソコンとの接続は何も問題なし。パネルのプリント解像度が高くて600dpi、通常で300dpiで充分なのでこの古いスキャナはとても役に立った。価値ある100円だった。今どきそんなヤツはいないだろうけど。


9.神奈川県立川崎図書館
これは道具と言えるかどうかわからないが、かなり大切なものだ。
大きくてどんな本でも置いてあるのが良い図書館と考えがちだけれども、それは全く違う。この川崎図書館には大学指定の参考書が8割は置いてある。もし無くてもその代わりになる本がすぐ目に見えるところに置かれていて、あまり迷うことなく目的の資料を手に取ることができる。また、かなり貴重な資料も保管されていて東海大学のパラーディオの著書(翻訳)まで出てきたりする。本がちゃんと選ばれているのが重要なのだ。

ここがあったおかげで在学中に本の購入費がほとんどかからなかった。どうせ買ってもほとんどの本は1回しか目を通さないのだから、それより良い図書館の方が役に立つと思う。

この川崎図書館は建築の基礎を勉強する人間にとっては聖地かもしれない。


10.自転車
自転車は発想の道具だと思う。机に向かって一人で考えていると血液の循環が悪くなるためか、なかなか抜け出せない。自転車に乗ると必ず1つや2つ、新しいアイデアが出てくる。どれだけ助けられたことか。


11.マクドナルド
今は120円だけれど、ちょっと前までは100円でコーヒーが飲めてお代りもできる。しかも冷暖房まで付いているから試験勉強には最適。コピー用紙を持って行って試験回答の練習を2回転ほどしたら試験はほぼ完璧だ。でもスタバじゃ高過ぎる。


12.0.9芯のシャープペンシル
大学の試験の回答用紙の紙質が良過ぎて最初の試験では字がグニャグニャになった。きちんと書こうとして消しゴムを使う時間が長くなって困ったものだから、Bで0.9の芯を入れたシャープペンシルに替えた。回答用紙にはいつもだいたいイラストも入れているから、これは良い選択だったと思う。


13.カメラ
建築ではカメラは必須。これはあたりまえ。以前はリコーのR2を使用していて、これが壊れてからはニコンのP50にした。もうどっちも旧式モデル。そしてどっちも画角28mmの少々広角で乾電池が使えるモデル。電池が切れて撮影出来なくなったときに乾電池ならどこにでも売っている。ジャングルのようなところでも人がいれば乾電池はあった。長期間の取材ではこの条件は外せない。そして最低28mmあれば大きな建物はほとんど入るし、室内撮影もできる。だからこの程度は必要だと思った。

本当ならもっと大きくてちゃんとしたカメラが良いのだろうけれど、どうせたいした写真撮れないからコンパクトカメラにしている。使ってみてリコーの方がニコンより良かったと思う。ニコンは近くのピント合わせがリコーより下手だ。


14.家族
何をやるにも支援は必要だ。これも道具と言ったら失礼だろうか。
イチローだって自分で努力したかも知れないが、将来どうなるかわからない野球をやり続けることを許した家族あっての事に違いない。

2009/04/02

遅れてきた建築探訪 アテネフランセ

いただき物の本「大竹康市番外地講座 これが建築なのだ」を読みながら地下鉄都営線に乗っていたら視線の斜め上方に”アテネフランセ”と書いたピンク色っぽい広告が貼ってあった。どこかで聞いたような単語だと思ったら、持っているその本の中に出てきた外国語学校のことだった。

72ページの最初の行に、大竹氏が大学3年のときに仙台からわざわざこれを見に来て「なんと奇妙な建築なのか、なんでわざわざ醜いプロポーションを選んで...」それが心に引っかかったと書いてある。

なるほど、そう言う目で見ると確かに全体の形は変だ。ピンク色の部分と中央の塔のような部分とステンレスの波の部分がまるで別々の建物のように見えるし、調和している風でもない。

中も変で、窓が三角だったりするし、天井が斜めでその斜めが別の角度の斜めと変な感じにぶつかっている。にも関わらず平面図はそれほど変わったものでもない。

とても解釈し難い建築物だと思う。この本によれば詳細からスタートしたものらしいと分かるが、詳しくは書かれていない。大学の課題で語学学校を設計せよと言われたら、まずこれはできないだろう事だけは想像できる。無理だ。

下は裏側から見た図。波打った屋根が乗っているのがわかる。

何だか良くわからなかったが、昭和の一時代にこのような色やデザインが受け入れられていたのは朧(おぼろ)げながらわかるような気がした。

遅れてきた建築探訪 東京カテドラル聖マリア大聖堂

東京カテドラル聖マリア大聖堂を見学させていただいた。

「たったこれだけの事しかしていないのに、こんなに素晴らしい空間が!」と言う見本のような造形だけれども、よく見ると”たった”とも言えないディテールの工夫が見られる。東京文化会館や西洋美術館などにもあるような壁面の筋や光の取り入れ方がモダニズムの見本のようだ。



外見からは大きな斜めの壁が互いに寄りかかっている様子が印象的すぎるほどなのだけれども、その銀色の壁はその下端の全てをどっかりと地面に着地させて立っていたわけではなかった。内部から見るとやはり教会らしく側廊が設けられていて、それは斜めの壁の外側にあるから壁はそこで切られていて地面に接していない部分がかなり長い。

外からその部分をよく見るとあの派手な造形の斜めの壁の足元の部分も、その造形に工夫が多いことに気付く。この周囲に付加された建物も同様であった。

最初にこれを外から見たときには、意外と小さいのだなと思った。中に入ると想像以上に大きな空間に驚く。目が慣れてくるとディテールにも驚く。そんなわけで、歩いて移動するたびに”うわー”などと口を開けてしまうのだけれども、そのあたりはこの記事の中の文字に反映されないので悪しからず。(妻の友人が以前にここで結婚式を挙げたときに妻も中に入ってやはり”うわー”だったそうだ。その気持ちが確かにわかった。次回の結婚式はここでしよう。)
一般に見所と言われるような写真も掲載しないので、それも悪しからず。有名建築物なのでそんなのは要らないでしょう。

遅れてきた建築探訪 高島平団地

今が旬でない、あまり注目されない建築を探訪してきた。

この高島平団地は噂通り巨大な敷地に巨大な集合住宅棟を数多く並べた団地だった。都営三田線の駅を3つも占有しているほど幅がある。それだけでもびっくりさせられる。

建物のいくつかはその地面に接する部分に商店やスーパーマーケットを備えていて、生活に必要な物を買うには不自由しない工夫が成されているようだった。団地が駅に直結していて、そこで買わなければ他に買うところが無いわけだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。

ただ、駅に近い建物に大手百貨店系のスーパーがあるが、その他は八百屋さん床屋さん書店などの小規模な小売店が多かった。閉店してしまってテナント募集の貼り紙も多かったから居住人口が多いだけでは商売は成り立たないのかも知れない。

ちなみにその貼り紙によれば、店舗使用料金が月額12万円ほど保証金は6ヶ月となっていたから団地に住んでいる誰かに出店してもらうと言った、内部循環的な発想で店舗スペースが確保されているのではないらしい。あくまでも住民は消費者とみなされているのだと思われる。そのあたりはどこかの街の再開発地と似たようなもので驚くにはあたらない。

店舗スペースと同じような場所には保育所も用意されていてちゃんと稼動しているようだった。保育所はなぜかとても厳重に囲われていて少し違和感を感じざるを得なかった。なぜなら、保育所の周囲はもちろん広い団地の敷地であるから広い芝生の庭のような場所になっていたし、建物と建物の間は広いなんとか広場が必ずあるので保育所に預けられる子供たちはそこを利用しないのだろうか、と思ったからだ。

そのわけはこう言うたくさんの看板の群れを見ると納得できなくもない。この敷地にはこうやって見学のためだけに出入りするのも自由なのだから、たまにおかしな人間が入ってきて子供に危険が及ぶこともあるかもしれない。それならばと言うことで、ここに住む特定の人間のためだけにここを全て囲ってゲーテッド・シティにしてしまう事も考えられなくもないが、これだけの規模であると”特定の人間”と”不特定の人間”の区別は難しいだろう。やはり子供たちだけ囲いに入れる方が現実的と言うことだろうか。

そう思いながらここを歩いていると、棟ごとの大きなゴミ集積場が並んでいるのが目に入る。一つ一つがかなり大きくてそれだけでもここの規模を思い知らされるようだ。

そこでもう一つびっくりすることがある。それは、ゴミ箱のアルミ缶専用コンテナにアルミ缶が山ほど入ったまま放置されている事だ。北京オリンピックが過ぎたとは言え、アルミ缶がそのまま手付かずでこれほど見られる光景があるとは思いもよらなかった。

これがK市ならアルミ缶だけ集めて売ると言う商売をしている方々が多くいるのでアルミ缶が放置されているなど今時有り得ない。逆に言えば高島平団地にはその敷地の建物内に住んでいる人しかほとんど出入りしないと言うことだろう。そんな場所でも子供が保育所で囲われなければならないのは不思議である。同じ意味でこうした禁止看板が多いのも不思議だ。

団地には緑地がかなり多くて明るい印象であったが、その緑地はどうやら住民が自由に使える種類の緑地でもないらしい。これだけ人が多ければ家の前の地面に花を植える程度の道楽をする人間が少しはいそうに思うが、そうでもないらしい。ちなみに先のK市なら道路にはみ出るほどプランターを置いていたり、公園の禿げたところに勝手に花を植えていく人間はけっこういると思う。この写真には植木鉢があるが、昔に放棄されたものらしい。

少し見て回っただけなのだが、団地と言うのはこれだけの人間を集めてもそれを街とか村のようなものにはさせない力が働いている特別な場所のように思われた。人が多く集まっただけではそうしたものにはならないのだろうけれども、団地とは住むと言う機能を集積して特化したものと定義されるのだろうか。

2009/03/31

SDL2009オフィシャルブック プレゼント?

せんだいデザインリーグのスポンサーである(株)建築資料研究社、つまり日建学院からSDL2009オフィシャルブック プレゼントのメールが来た。

出展者にはもれなく送料まで無料で送ってくれるとの内容。メールの中のURLはダイレクトに申し込みフォームのWebページに繋がるようになっている。会社の先頭ページURLじゃないところが危険な臭い。このメール、本物なのか!と疑わずにはいられなかったから、建築資料研究社で検索してそちらを見たがその同じフォームの場所が見つからない。隠してあるらしい。こまったものだ。

とりあえず、本は見てみたいがこの申し込みフォームに個人情報 (電話番号や住所、性別、生年月日、大学名などが必須になっている) を記入して良いのか悪いのか、ちょっと判断がつかない。もし本物のメールだったとしてもどうせ日建学院からの勧誘メールやらDMが届くことになるだろう。嫌だなあこう言うの。放っておこうか、どうしようか? タダより高いものは無い?

2009/03/30

決算2

08年度の学費の決算をしてみた。

(1)20年度分として大学に支払った額(学費、スクーリング費用、切手など)
40万円強:この額は去年とあまり変わらなかった。

(2)教材費(模型材料、本、CADソフトなど)
14.5万円程:去年は4万円だったので大幅増加。卒研の模型代、中古大判プリンタ8万円が大きい。

(3)その他支出(交際費など)
18万円程:去年は旅費が大きかったが今年は無いので大幅減。

(4)20年度合計
74万円程:但し、奨学金10万円をいただいたので実質64万円となる。


(5)2年間の合計
上記(1)+(2)の必須支出=99.6万円
   (約100万円:奨学金を差し引くと約90万円となる。)
総合計=166.5万円(交際費など必須でないものを加えたもの。)


3年次編入で2年間で卒業するのにどうしても必要だったのは約100万円だったと判明。通学で学ぶよりかなり安いだろう。愛知産業大学の通信はとてもお得だとわかった。

今年は卒研があったので、中古の大判プリンタを買ってしまった。ロール紙2本とインクと送料含めて約8万円かかったが、これは模型の型紙、パネルなどに使った。パネル印刷が外注で約4~5000円であるから、20枚程度印刷するのと同等の金額になる。自分で印刷するのであるから高いソフトは必要ないし、時間待ちもないので実際は10枚以下でもお得かと思う。しかし発色だとかパソコンの具合など工夫が少し必要だったので、誰にでも勧められる方法ではないし、他人のもプリントしてあげられる品質にはならなかった。
また、本は図書館に頼ることができたのでほとんど買っていない。


去年度の決算
決算



追加
集計の方法は郵貯の通帳(勉強に関わる費用専用の通帳を予め作っておいた)から使った分づつ引き出して行き、引き出したら通帳に手書きで使途を記入しておく。時々表計算ソフトに転記して集計した。

卒研の回収

今日で学内の卒研展が終了だったので終了時刻少し前に建築会館に行き、作品を回収してきた。これで本当に大学関係の行事は何もかも終了だ。この余韻にいつまでも浸っていることはできなくて、そこから離れて自分で歩き出すのが必要だし、また恩に報いることなのだと思う。

今やっと建築の世界を歩くための靴の履き方を教わったところなのだ。


今後のこと。
2級建築士の試験は受けない。もともとそれを考えて大学に入ったわけじゃないし、途中で受けようと思うこともあったが自分の中では現実的な選択とも思えないから。
建築とは関係なく海外で仕事をしてみるのも良いかと思っているが、それは建築とは無関係なことなのでこれ以上書かないが、どうなるかわからない。他の案としてはマレーシアあたりで英語を勉強してみたいとも思う。少し一人で歩ける場所を増やしておきたいから。ちんさんがツテでチュラロンコーン大学の先生を紹介してくれるならアジアの建築を研究してみたいとも思ったりもするが(現実的なのかどうかわからない)、それ以外は未定。

2009/03/29

東京にて卒業懇親会

懇親会があった。
これで大学関連の公式行事は全部終わり。
先生方、OBの皆様、一緒に学んだみなさんに感謝いたします。

.....でも、このブログはまだ続くつもり。
なぜなら、建築に対する興味は尽きないから。

2009/03/26

大学の卒研展に模型を搬入

17時頃に先生から電話をいただいたので、田町の建築会館に模型を搬入してきた。学内の卒研展のことが既に頭の中に何も残っていなかったのでびっくり。そうか、まだそちらも終わっていなかったのだ。東京での懇親会もあるのだからそれはそうなのだが。

模型を置くついでにJIA東海に提出したパネルの写真もプリントして置いてきた。せんだい向けのパネルまでは時間が無くてプリントできなかったが、同じようなものだからJIA向けだけで良いだろう。パネルの実物はダンボールが貼ってあって立体だが、今回置いてきたのは写真だから平面だ。それに写真を引き伸ばしているから画像も良くはない。それにA1より少し小さめ。仕方ない。


ところで、模型を置いた台の向うの壁には1月に大学に提出した2枚のパネルがアルミのフレームに入れられた状態で吊るされていた。もう何年も以前のパネルのようで何だか気恥ずかしい感じがした。あれからまだ2ヶ月しか経過していないのに、今だったらこうはできないなあと思った。小学校の入学式の朝に真新しいランドセルを背負った撮ったセピア色の写真を見せられたような、あの感覚に近い。


せんだいに出されていた物もいくつか置かれていたが、せんだいではパネルが1枚のみであったことでどうしてもインパクト重視だったのだなあと改めて思った。こうして当初の通りに2~3枚のパネルが揃うと、ああなるほどそうだったのか、とわかるようなところもあるけれど、逆に説明ばかりでその作品の中に入るとどう感じるのかと言ったエモーショナルな部分が不足するものもあるようだった。勉強になるなあ。

2009/03/24

家は潜水艦


家の外にあるもの、例えば道、公園、図書館、商店街などいろいろ、それらをどう捉えるかは家のあり方をどう捉えるかと同じことじゃないかと思う。

家を考える(それは戸建でも集合でも)ときに我々は完璧にしようと思って何でも詰め込む。そうすると潜水艦と同じになる。潜水艦はじっと息を潜めて敵を待つために生きるために必要な何もかもを蓄えていて、しかもコンパクトだ。家もそれと同じ。ただ、自ら移動しないところが違うだけ。

そう考えると現代の街はたくさんの潜水艦が停泊するドックだ。道路は防波堤のようにコンクリートで家を繋ぎ止めている。その上を補給のための人員が行き来している。人員は補給に疲れるとときどき休暇をとって息抜きに出る。給金が良ければ遊園地とか動物園や飲み屋に行くし、そうでなければ公園あたりで一服するかもしれない。それはどっちでもかまわない。家にほとんど何でもそろっているから家に閉じこもっていることだって可能なのだ。家が完璧だから外なんかどうだってかまわない。




その昔、日本の街には”かいわい”と言う独特な場ができている、と言った人がいた。でも、それももう昔のこと。

40年位前の家では家に入ると家族は玄関の方向を向いて暮らしていた。小さな家でも誰かが訪ねてくるとか近所の人が声をかけることを想定していたから。今は家に入ると玄関に背を向けている。玄関はもう玄関じゃなくてただのドアになった。だから”かいわい”なんて出来っこないのかも知れない。

ドアの外がどんなに環境を整えた街であってもそれはそれ。たまに息抜きに出るかも知れないが基本的には何の関係もない。街の環境のためにドブ掃除させられたりしたら敵わないのだ。家が海の底に沈んでいても関係ないのかもしれない。