2008/07/31

AutoCADのモデルをGoogleEarthへ

建築対象となる場所の状況を見るのにGoogle Earthを使うが、そこに自分の作った建築物を置くにはどうしたら良いか?通常は同じGoogleで無料配布しているSketchUpでモデルを作るのが普通だと思う。これはとても簡単にできるから。

ただ、SketchUpの無料版を使うとkmzファイルへの出力に限定されてしまう為、そこから図面を起こせない。そうなると別途CADで描く必要があって、二度手間になってしまう。しかも、一度作ったkmzファイルを再編集することもできないから、今日半分描いて後は明日と言うこともできない。これは困ったものだ。


そこで、AutoCADで作成した3DモデルをGoogleEarth上に表示する方法を使うと良いようだ。

Google Earth Extension for AutoCAD -Autodesl Labs

1.ここから"Google Earth Extension for AutoCAD"をダウンロード。
2.zipファイルなので解凍する。
3.setup.exeを管理者でクリックしてインストール。

ここからは管理者でなくて一般ユーザーでの仕事。
4.AutoCADを開く。
5.コマンド"CUILOAD"とタイプしてEnter。
6."Browse"ボタンをクリックして、インストールされた"GoogleEarth.cui"ファイルを選んでLOADする。

これが終わるとアイコンが4つある新しいツールバーが出現。
図面を表示した状態で一番右の地球儀のアイコンをクリックするとkmzファイルが作成される。
途中で緯度経度を入力するところがあるので記入。

できたkmzファイルをGoogleEarth上にドラッグすると表示される。(下図)



これがCADⅡの課題で作ったものをどこかの田圃の真ん中に置いてみたもの。
緯度経度の設定がうまくいかなかったらしく、いいかげんな場所に表示されてしまった。
図面では地面も作ったので地面の切れ端も表示されている。kmzファイルにする前に地面はフリーズしておくべきだろう。色も少し変だ。

9月試験の申込み

昨日、9月の試験の申込み書を送付。

9月6日 東京サテライト
2限目 建築計画学Ⅱ
3限目 景観デザイン論

2008/07/28

「結論はまた来週」

駅でR25を貰って時々読むが、今回(2008 7.24 No.201)の最後のページの「結論はまた来週(高橋秀実(たかはしひでみね)」は面白かった。そして興味深いものだった。


サブタイトルは「蟹工船はつまらない」と言う題名でが書かれた文章で、その中の一節に以下のようなところがある。(そのまま書き写した文章ではない。)

現在は「勝ち組vs負け組」のように社会を分かりやすく図式化して考える風潮があって、いかにも勝ち組と負け組の「闘い」のようだけれども、闘うつもりなんて無い。なぜなら、その図式にハマると人は図式をなぞりたくなるものだから。蟹工船の登場人物達のように資本家と労働者の図式の中で自分を労働者階級だと認識すると、資本家を倒すことより、自分が労働者階級であることを維持したくなる。負け組も同じで自分が負け組を確認したがるのである。階級さを実感したくて負けるようなものなのだ。


高橋氏は蟹工船を読み返してそう書いているのであるが、これは建築もそうなり兼ねないのではないかと思う。建築の世界には社会の中の問題を建築でどうにかしようと言う考えは当然のようにあって、建築を志す人間ならその解決策を自分なりに考える。格差、孤独死、コミュニケーション、家族、環境、教育などいろいろの問題について、建築の人間も建築とは無関係な生き方をしている人々と同じようにマスコミを通して知るのであり、その解釈等についてはそれほど変わることは無いのでその方向性について考える事も特に変わる事はないだろう。

ただし、もしそれに向けて建築で解決策なりその一部を提案する事になれば、その解決策はその問題を確かに"固定化"してしまう事になるのではないか。


例えば、老人医療や介護の問題において、法制度を整備してそれに向かって急激にその為の施設を充実させたが、逆にその問題を固定化させてしまったとは言えないだろうか。介護を必要とする人が一定割合居て、それを解決するには決った手続きをしてスケジューリングされ、ある基準を満たす"施設"を使うというエコシステムが発生している。

これは世の中に老人問題と言うものがあって、その為には保険料を徴収してそのお金で誰かを雇って施設も作ってと言う当然のような事であるが、そもそも本当にその問題はそう言う問題だったのだろうか。

これまで核家族化が進んできてしまったが、その核家族も歳をとれば身体が衰えたりどこか不自由になったりする人も出てくる。そうなれば孤独に一人でどうにかするしかないが周りに誰も頼る人がいない。もしそう考えるならこれは人が歳をとって介護が必要と言うだけの問題ではなくて、問題はもっと広い社会の在り方の問題と見えなくもない。また、賃金が減少してしまって主婦も働く必要が出てきたために親の面倒を見る時間が取れないのであればそれは雇用や経済動向の問題と見えなくも無い。


建築と言う作業には、注意していないと、分かりやすい図式と解決策をなぞって固定化させてしまう危険があるのではないだろうか。

この春のレモン展にも介護施設を扱ったものがあった。それはより良い介護施設のような志のあるものだったけれども、それはやはり簡単な図式の中での捉え方しかしてなかったのだと思う。それが"より良い"なら良いほど悪い部分を固定化してしまうだろう。こうした捉え方は無関心から来るものか、建築と言う「クライアントが居てその要件に従って造り仕事はそこまで」となる作業の宿命なのか。

2008/07/27

ゼミ2回目



テーマに変更なし。

試験があって準備があまり進んでいなかったし、以前の卒研の資料を見てピンとくるものが無かったのでCADで造形の概念を示してみた。現存する何ものも壊さずにそのまま包み込むイメージである。

みんなそれぞれ悩んでいる様子が伝わってきた。
他人のテーマへの取り組みを聞かせてもらうのはなかなか勉強になる。

その後の親睦回で去年と3年前に卒業された先輩のお話を聞くことができてよかった。実体験話には臨場感がある。

2008/07/26

建築施工学の試験終了

今日の問題は
2.落下防止
8.4種類の溶接の概要と長所短所

どちらも表に分類し、説明を添えた略図を描いた。
どうにかなったと思う。

2008/07/25

景観デザイン論のレポート返る

景観デザイン論のレポートが早くも返ってきた。
結果は「A」だった。

多少、文章が情緒的になってしまった部分もあったが、建築学上の景観に関する用語も取り入れて書いた部分をきちんと読んでいただいたようで、赤で下線や囲みが入っていた。丁寧に読んでいただいたことに感謝したい。

この課目は選択で、しかもM先生なのでとった人は少ないだろうか。
レポート作成は楽しい課目だったと思う。
早く返却してくれた事にも感謝。これで9月の試験は最後の2科目を受験できることになった。



追加
「景観デザイン」と言う方法について。
「景観」を「デザインする」と言う方法に関して、ずいぶんと考えた。

建築物をデザインするのは、元々自分の自由になる物体をデザインするものなので、ある意味何とでもできる。(周辺とのつながりについての問題はあるとしても。) だが景観については、そのほとんどが他人が考えてデザインした(多分したのだろう)物で埋まっていて、動かせる部分は極度に少ない。その場所との関係を拒否した物、考えずに置いただけの物ばかりであると言ったほうが良いかもしれない。故に「日本の街並みは....」と言われるのであるが、それを景観の観点から一掃してしまうわけにはいかない。

それで、発想を改め、これらを全て「ありのままに認める」ところから考えてみた。そして、最小限の労力で何らかの目標に到達する事だけを目指してやってみた。見せたくない物は、取り除く事はできないので「目立たせない」。見せたい物はその逆に目立たせる。その為に良い方向だけに「視線を絞る」ことにした。

景観デザイン論


日本の街の景観はどこでも酷い。
だが、考えようによってはそれは景観以外の何か複雑な事情から造られたものであり、そこに人間の何らかの意図と言うものはあるだろう。

建築と言う方法はどこか何時も理想論的で、そうした多くの事情よりも建築の意図を優先して語る事が多い。だが、建築の意図はそ例外の意図と比べて優先できるほどのものなのか、それは多くの場合わからない。

ならば、最小限の理想論をもって別の事情や意図と共存するやり方を模索すべきなのかも知れない。別の考え方をも包含するものになるべきではないだろうか。それが理想と相反するものであろうとも。

2008/07/23

建築施工学

1.工程表(横線工程表とネットワーク工程表)
省略



2.建設現場における落下事故防止のための仮設工事
・朝顔養生
・金網養生
・シート養生
・防網
・手摺と囲い
その他

金網とシートは実際に行う場合の用途が重なるようだ。

墜落、飛来落下の防止 建築施工技術マニュアル TOKEN



3.粘性土質における地盤改良工法
レポート課題の内容と重なるので省略

地盤改良 -建築施工技術マニュアル TOKEN
重点用語解説 -三協安全株式会社


4.地業工事における「ベノト工法」と「アースドリル工法」および「スライム処理」

工法に関して
工法一覧 -ジャパンパイル株式会社
工法の説明 -(社)日本基礎建設協会

スライム処理に関して
掘削方法 -産業調査会



5.コンクリート打設時に発生する鉄筋コンクリートの欠陥と防止策

参考資料
「最新建築構造入門」青木博文 実教出版(建築構造学のテキスト)
コンクリート -Wikipedia
特集 コンクリートの欠陥を見抜く -有限会社タフ技研 (1~4回)
コンクリート構造物の初期欠陥について(延命への一歩) -(財)山口県建築技術センター



6.山留め支保工事における「逆打ち工法」

逆打ち工法 -三井住友建設 技術情報
工期短縮を図る新しい地下構築工法を実工事へ適用 -鹿島



7.溶接と高力ボルトの併用制限
原則
例外
法令等

よくあるご質問Q&A 高力ボルト(設計編) -帝国製鋲株式会社


※土木と建築では順序が反対
高力ボルトと溶接の後先 -MSN相談箱

土木施工お勝手情報



8.溶接
・突き合わせ溶接
・隅肉溶接
・部分熔け込み溶接
スロット溶接 -溶接用語

溶接継手の種類とその特徴を教えてください。 -JWES



9.鉄筋コンクリート造における外断熱と内断熱における防水の比較

修繕・改修のQ&A -万書運再生協議会
防水豆知識 -中央建材工業株式会社



10.現場監督の立場における産業廃棄物低減の方策

2008/07/22

CADⅢの成績到着

CADⅢの成績が到着した。
「A」だった。
スクーリングが終わってからずいぶんと長い時間がかかっての到着。
もう忘れていたほど。

あの時にはその先生に卒研でお世話になるとは思っていなかったが。

2008/07/21

「集合住宅デモクラシー」

7月12日の朝日新聞のopinionに「集合住宅デモクラシー」の著者、竹井隆人氏(政治学者)が書いていた。

建築のテーマにおいての「コミュニティー」は、単にコミュニケーションが"可能な場"で終わったり、その中身を問うところまでは行かないものがほとんどだと思う。この記事は建築に対するものではないが、その中身をどう見るかと言う意味では重要であろう。

新聞コラム要約
「コミュニティー」と言う言葉は「仲良し社会」のように用いられていて、それに疑念を挟む人はいないが、この仲良しが強化されるほど異論者をKY として粛清することになる。そうなると人は主体性を失い、同じコミュニティ内の他社を分身と見なすような限定的な社会構造しか作れなくなる。

哲学が古来よりずっと命題としているのは社会(構造)に対する主体性ある自己の実現で、それを解く鍵は「社会をつくる自由」にある。それは他者が自らと異なる存在であることを前提とした社会構成原理を奉ずるものだからだ。

そのためには人々が社会に対する順応を放棄し、KYとならざると得ない状況を作り出す必要がある。著者が提案するのは集合住宅における管理組合と言う「私的政府」でそう言った私的政府に地方自治体から権限委譲するのが良い。この限定的な直接民主制は人民主権のモデルとなるものになるであろう。



「集合住宅デモクラシー」について
ついでに、この本が図書館にあったので読んで見た。
(以下、要約ではないことに注意。)

「コミュニティ」と言うとき、建築では個人の相互交流のような意味でこれを使う。擬似家族的で情念的な交流を意味するものであろう。つまりその言葉の中に、その交流の持続やそれによる人間どうしの関係その他の問題の解決にとって何らかの解答を示してはいないだろう。

確かに建築の形や機能としてはその方向を指し示していると言えないことはないが、それは単にそう言う使い方も"可能"と言うに過ぎないのではないか。

相互交流は個人の選択にゆだねられたままであり、人の入れ替えが激しい中でそれが持続可能であると保障できるか。仮に持続可能であったならばその建築の開発利益を社会として抑制してしまうがそれは許容できるのか。コミュニティの持続を願う上で個人の権利を制限することになる事を可とするか。このような問題に建築には解答が無いままではないのか。

「コミュニティ」と言う言葉に対して理想主義的、楽天的態度ではなかったか。


ラドバーン方式の敷地計画と、先日調べた山本理顕の保田窪団地の構成は良く似ている。
成り立ちは異なるが、住民がどちらを向いて生活しているか、この一角がコミュニティを構成すると考えられる形状をしている点においてとても似ている。

そう思う事に、警戒感を覚えるべきなのだろうと考える。
(簡単に言うと、反省した。)

なぜなら、日本の建築的理解はその形と機能により多くの関心を向けていて、そのやり方で理解しようとしてしまうからだ。ラドバーンのような方法はそこに人間の住むための住区を作る方法論(つまり機能)として理解されている。建築計画の教科書を読んでもそのようなニュアンスで書かれている。

だが、そこにある住民の意思決定システム、社会システム、政治システムとしてのソフト面の機能は解釈されていない。なぜそこに集まって住区を作ることが快適なやり方なのかと言う根本についての理解はなされていないのだ。つまりこれは集合住宅と言うシステム全体を何も理解していないと言うことに繋がる。

日本における集合住宅と言うシステムは高密度に住むという都市の要請、投資者への開発利益の還元のような経済のシステムの中にある。ハワードの田園都市のように開発利益をサービスや施設のために用いることで持続可能な住み方を提案しているのとは根本が違うのだ。

マンションは共有施設を充実していると広告されるが実際の利用はほとんど無く、プライバシーの確保や匿名性の確保の方が実は商品性を高めている事実。そこにコミュニティは無いだろう。私化は進んでも、自立性ある住まい方、自立性ある相互関係は築かれることはないだろう。

つまり建築的には"可能"かも知れないが、それは単に"可能"なだけで何らの影響も与えていない可能性が高いだろう。



「集合住宅デモクラシー」この内容は建築にとって、見たくないものから目を逸らしたままであったと気付かせてくれると言う意味で、相当にショックなものであるはずだ。

非理想主義的に

卒研ゼミのブログに書いたものの転記。
内容は卒研のテーマについて。こんな記事にコメント入るんだろうか?




設計でお世話意なったS先生には理屈っぽいと言われながら、それ以外の方法が見つからないので、と開き直っています。Mさんのところで近代建築に関するお話も出てきていることですし、ここはちょっとお付き合いください。

現代の建築は往年の巨匠たちが考えていたような理想主義的なやりかたはもうできないだろうと言うことになってきているようですが、人が建築をする以上やはりどこかに理想主義的な考えが入り込むものかも知れません。それは多分建築のと言うより人間の性質から来るものでしょうか。人間は何故か自分の立てない場所に視点を置いて見ることが出来てしまう動物なのですから。

「あそこをこうしたら良いだろう」とどうしても思ってしまいますし、建築の方法論を勉強する上では全ての空間、領域に意図の無い偶然の産物を残す事は罪悪とされています。

今回はそれに対して、「わざわざ何もしない部分を大量に残しちゃえ」と言うコンセプトを立てたいと思っています。

近代建築の巨匠は「自由」を強調していまいしたが、その自由が何故か今は「管理」の入れ物に使われてしまっているようなところもあって、当初の(と言ってももう近代ではないですが)目的からちょっと外れるなあ、と思っています。

私の田舎者の母も花は植えてもその下草は全部雑草扱いで抜いてしまって、花は大変よく咲くのですが土埃がすごくて思いの外楽しめません。私は雑草の間からコオロギが顔を出す程度が好きなので、建築でもできるだけ自由気ままに雑草が生えるのが良いように思います。その雑草が美しく花を咲かせなくても、それはそれで健全な証拠かも知れません。



NYのハーレムのように今まではそこは問題の場所で、壊されるときになってやっと「文化」と言うようなのはどんなものでしょう? 建築はそれを壊すために使われるわけですが、その前に何かしておくのも建築の役目では? 現実を認めてそこがそうであるために何かすると言う態度は取れなかったのでしょうか。デベロッパがお金を投じないとそこに建築が発生しないのだとしたら、いったい建築に何ができるのでしょう???

どうやって形にしていこうかな、と考えているところです。

2008/07/19

建築計画学Ⅱのレポートが帰ってきた

建築計画学Ⅱのレポートが帰ってきた。
結果は「A」だった。

労働会館の分析については現地調査、インタビューを交えて独自の分析を行ったところが評価されたが、平面図に尺度を入れなかったのは減点であった。自分で測定すればよかった。
指定管理者の仕組みについても言及すると良いそうである。




建築物の長寿命化については、建築物の経年による変化を明確にした上で、その対処方法について述べた。その中では理念や考え方、計画時に行う事、経年後に行う事、その間の通常の管理に分類して述べた。またLCCにも言及した。これに対して講評では計画や運営への住民参画等についても触れるとさらに良かったとのこと。

その他
参考資料には発行年を記入のこと。

2008/07/17

奨学金いただく

大学から奨学生合格の通知が来る。
ラッキーにも10万円いただけることになった。
安い学費しか払ってないのに、ありがとうございます。

卒業研究オリエンテーションの自己紹介で「無職」と言ったのが効いたのかもしれない。
今年分の雑収入として税務申告しなければ。

2008/07/14

資料:山本 理顕

山本 理顕 - 生活・空間・環境 -東西アスファルト事業共同組合公演録

達人-その限りなき挑戦8 建築家山本 理顕

INTERVIEW:山本 理顕 -FLAT.net

山本理顕X廣村正彰の仕事。 -コトブキ建築デザインセミナー2001「コラボレートする建築」


追加
上の中で語られている議論を読んでみた。
クラッシックな議論だし、お話の範囲が狭いし、あまり面白みが無かった。


Riken Yamamoto officisl web site

景観デザイン論のレポート発送




景観デザイン論のレポートを送った。
先日の「工場の景観」を残したい景観として取材し、今回のこのスケッチの景観を「変えたい景観」として提出した。

上のスケッチは写真の上にトレーシングペーパーを置いてそこにペン絵を描いて裏面に彩色したもの。うっすらと透けて見えるのが写真部分。

変えたのは以下の点。
①中央の背の高い街路灯を背の低い灯篭タイプに変更。
高いところの意匠が凝ったものであっても見えないし、視界の開けたところでは道横にあるマンションに視線を誘導してしまう。それに空との境目がうるさくなり過ぎている。灯篭のように低いといつも視界に入るし、経路案内の代わりにもなる。夕方以降の雰囲気演出にもなる。
②路面テクスチャ変更とボンエルフ化。
灯篭が似合う場所なので石畳風で歩く場所を演出。
③壁面に瓦を貼る。
これは既に商店などで行われているが、できれば、と言うことでマンションにも貼ってみた。ここには昔の物が何も残っていないの時代考証的にはイイカゲンであるが、この先にある寺(観光地)のコードを1つだけいただいてきた。

ほんの少しの変更に留めた。



これで今年のレポートは全部終了。但し、課題提出はまだ2科目有り。


19枚でコピー代100円
送料40円(切手不足分のみ)

2008/07/13

ゼミ1回目

今日はテーマの持ち寄りと言うような内容。

卒業研究と言うのは他の課目と大きく違うのは、他の課目のように「何かを知った」とか「何かを身につけた」と言う事を評価してもらうのではなくて、建築の世界全体に対して「ここはおかしいだろう」「ここはもっとこうすべきだろう」と言う事だと思う。だから建築の中に「開かれた言語」を用いて自分の問題意識と解答案を提示しなければならない。大げさに言えば安藤忠雄、磯崎新、伊東豊雄など多くの建築家を含めた先輩達の議論に参戦する事だろう。

噛み砕いて言うと、巨匠達が気付いていなかった問題を「これは問題だろう」と言ってやるとか、未解決の問題に「これが答だ」と突きつけてやるようなもの。だから問題意識が重要で、それがすなわち卒研のテーマになり、これに対して異端と思われるほど独自の解答を用意しなければならない。過去の巨匠達の著書を読むと、皆そうしてきているようだ。


自分のテーマは今のところ、先日書いた「再開発をぶっとばせ!」のままである。

2008/07/11

CADのマニュアル届く



マニュアル到着。
しかし、Architecture版専用マニュアルではなくてAutoCADの一般マニュアルだった。

つながり

卒業研究関連で何故秋葉原や路上ライブを取材しているのかわからないと言う意見をいただいたので、話は前後するがここにその元になるところをメモしておこう。


建物には機能がある。
その機能分けはその建築物に与えられた名前によって決ってしまうもので、図書館と言ったら建築は図書館と言うタイプの建築物を作るし、学校と言えば学校、コミュニティセンターと言えばコミュニティセンターが作られる。

このような事は普通の事だ。施主が○○○を建ててくれと言えば建築家はそれを建てる。とても機能的な仕組みと言えるものだ。それでその要求にかなうものを造形的に見た目良く提案することもできる事かもしれない。

けれど、もしそれをしてしまうと、建築物は機能を入れる単なる入れ物と言う事になるのではないだろうか。一方で、我々はこの日本と言う社会にいくらか不満があるけれど、それを放っておいて単に入れ物を造りたいだけならそれで良いだろう。


だが、入れ物は自分の人生にとっいつでも快い物ではないと言う実感がある。
子供の頃にある年齢に達すると小学校に入れられる。そこからまた数年経過すると中学校、そして高校、大学、会社、たまに病院、役所、歳をとるとそこを追い出されて今度はまた介護施設であったりと入れ物の間を歩き回らされる。

それは自ら好んで入る場合もあるが、多くは仕方なしであったり、入れられる事もある。人生は途切れることなく流れる川のようなものであるのに、グラスの水は突然他に移される。その突然の瞬間が快いものと感じられる場面は少ない。(多くはそれを仕方ない、当たり前とあきらめてしまってるはず。混雑した通勤電車のように。)

建築はその入れ物を造る行為かも知れないのだ。人間に備わった"分ける"と言う合理的な習性に従って人の人生の時間を切り分ける入れ物を造るのだとしたら、その意味は重大ではないだろうか。


逆を言えば、その方法論は"つなぐ"事にも使えるものではないのか、と言うテーマが浮かんでくる。多くの建築家はそれを目指したし、これまでの多くの卒業研究もそれをテーマとしていると思われた。

根本的には本当に簡単な問題で、建築は人と人を"つなぐ"、人の人生の時間を"つなぐ"事を旨として造ると言う、単にそれだけの事をやれば良いのだろうと思う。機能を造るのはそれ以前の当たり前、あまり議論する事もない位の事ではないか。(それが簡単とは言わないけれど。)

そんなわけで、人のつながりの状態を路上観察させてもらっている。


同じゼミのMさんの発言にこんなものがあった。
「都市に於ける道路とは点と点を結ぶ機能しかなく、単なる移動手段。住宅とは個人個人を集積するだけの箱となっていて、路でつながっている、ただの点。点と点のつながりを、横のつながりに変えられないか。」
こう言う事だけを目標にできれば良いのかと思う。



都市のあいまいな構成の可能性

2008/07/10

路上ライブの取材

秋葉原に次いで、駅前の路上ライブを取材してきた。

(1)2mの壁
ライブ演奏者と観客の間には2mの壁がある。これは秋葉原アイドルには無い距離だ。

この2mの壁が作られる原因らしきものは、演奏者の習性にあるように思う。

演奏者は無意識に自分がステージに居て歌っているような立ち方をする。
必ず、壁や木や人の通らない閉じた空間を背にして立つ。横か後ろには楽器のケースや荷物を置いていて、簡易楽屋のようになっている。告知用看板がある場合には自分の前に置く。

そして話し方。それほど多くない観客にであっても、たくさんの不特定多数の観客がいるように話しをする。例えば、リクエストを受け付けてそれを歌った時にでも、その人のために歌うのではなく(仮想)客席にいる多数に向けて歌い、終わった後の話しも同じようだ。

つまり、どうしてもそこには一定の距離がある。ステージのように段差も何も無いのに、それがあるように振舞う。観客は多分、それに従っているのだと思われる。

(2)プロトタイプ
このようにして人前で演奏するスタイルは、今日見た5組とも同じであった。どの演奏者にも2mの壁は存在していた。どうも、人前での演奏と言う行為のプロトタイプがあるように思う。それはプロがそれをやっているのをテレビや実際のステージなどで見ているからかも知れない。

(3)2mの壁を崩した瞬間
今日見た中で、2mの壁を崩した演奏者が1人いた。それは歌っている時ではなく、CDを買ってもらってサインをしていた時だった。彼はサインをしながらいろいろと話をした。その内容は「ありがとう」とかそう言った一般的なものではなくてもっと普通の会話に近いものだった。1人のお客に話していると、CDを買わない客が5~6人近づいてきて、会話に参加し始めた。1曲歌っている時間よりも会話の方が長かったかもしれない。そこで雰囲気は全く変わって、ステージと客席ではなくなっていた。これは秋葉原アイドルのやり方と同じようだ。2mが50cmまで縮まった瞬間だった。


こうなると、人と人を近づけるには、その人のスキルが重要と言うことになってしまう。建築にそれができるかだが、それが必要かと言う事も含めてここでまた少し考えよう。

再開発をぶっとばせ!



卒研のゼミブログにアップした写真。

再開発地にできた施設はだいたい面白くも何とも無いものばかり。お金がある企業しか出店しないからどこも同じようになっていて、1度見ればそれで後は用が無い。そう言うのとは違うやり方をした方が楽しいだろうと思う。

以前に1年間住んだ北九州市は地元の若い人が繁華街に小さな店を出していた。台湾でもそうだったし、他の都市もそれがある。それに比べると東京周辺はどこも皆同じでつまらないことが多い。東京周辺はそう言う所だからどこに行っても接客は均質で面白くも何ともない。結局意識が集中するのは"物"とか"値段"と言う事。別の地方の人は東京が刺激的かと思っているかも知れないけれど、意外とそうでも無い。お金が無いと何もすることが無いところだから。

写真の赤線で囲ったところをどうにか料理してみようと考えている。もちろん秋葉原効果も加味して。

建築法規の試験成績到着

建築法規の試験の成績票が到着。
「A」だった。

またまた一安心。
(そんな事すっかり忘れていたのだけれど。)

2008/07/09

工場の景観

川崎の景観


工場地帯の景観を取材してきた。
決して美しくはない。

現在、田んぼのある風景は美しいものの仲間に入れられている。
ずっと昔からそれは美しいものと認識されていただろうか。それは調べて見ないとわからない。ただ、田んぼは経済活動の中のものであった事は確かだ。棚田は山間部で米を得るために仕方なく自然の斜面を切り崩しながら造られたもので、決して外から見た美観を意識してはいないだろう。工場は工業化社会の田んぼと見ることはできないか。


大きな地図で見る

2008/07/08

景観は美しいものばかりか?

景観デザイン論のレポートを書こうと思い、近くで変えたくないと思う景観を探していたがどうしても見つからない。歴史から言えばここは東海道の宿場街、そして多摩川の渡し場、お寺もあるのだが、どれももう「かつてここありました」と言う市が作って立てた鉄製の看板になっていたりお寺も単にそこにあるだけで街道の面影もなく、ただ小汚いビルが雑然と並ぶだけ。ゼネコン製の大きな寺も街並みとは何の関係もなくそこに居座っているだけで周辺は分譲住宅地になっている。

こんな景観が保存の対象になるものとも思えない。ここの住人はきっと誰もそう思っていない。ダメだ。

と思っていたら、こんな物が出てきた。

神奈川/川崎の夜景写真・夜景壁紙(川崎工場群周辺)

川崎工場群周辺2 神奈川/川崎の夜景写真・夜景壁紙

壁紙ダウンロード -石油連盟

Industrial Anatomy -wkさんのブログ

倭文 ~工場地帯探訪~ -Shito-Oriさんのブログ

こんなどうしようも無いものも、時代が変われば見方も変わる。
こう言う写真が海や花や夕日の写真と同等に扱われる時代になっていたとは、思いがけない事だ。

かつてこの地は灰色に塗りつぶされた何の色も感じさせない工場の街だった。新聞やテレビで扱われるのは公害のひどさやそれが原因で起こされた訴訟があった時だけだ。隣の横浜は自転車で行けるほど近いのに何たる違いだろう。

しかし、今は工場撤退が相次ぎ、その跡地にはキレイな大型マンションが建つようになった。住民の色もだいぶ変わってきた。そうなればこの街がどう言う街であったのか、ここに暮らした人々が何を思って生きていたのかと言う記憶も消え去ってしまうだろう。だとすればもう、これらは景観の構成要素として認めて得るものと言えるだろうか。

2008/07/06

秋葉原にて取材

取材のため、秋葉原に行く。
あの事件が起きたために秋葉原は歩行者天国が無いし、その前の過激パフォーマンスアイドルが出たために街頭パフォーマーは居ないようだった。残念なこと。

今日の目的はアイドルさん達の周りに集う、所謂オタクさんたちだ。

オタクさん達と言えば昔は一人で部屋にこもっているか、秋葉原に何かを探しにうろうろしている人達で、誰かと一緒に何かするような人ではなかった。しかし最近は集団行動している姿がテレビで見られるようになり、どこで練習するのだかぴったり息の合った踊りまでしているらしい。

なぜこの人達に興味があるかと言うと、多分元は個人個人で歩いていたり何か物色しているだけの人達がどうして集団を結成できるのかが不思議なのだ。こう言った現象は他にはあまり無いだろう。

例えばディズニーランドに行く人はたくさんいて、パレードでミッキーの振りに合わせて踊る人達がいるらしいがこの場合には秋葉原のオタクさんたちほどに組織化はしない。終わって帰れば他人に戻る。学校であれば集団で体操でも踊りでもやらされるし、職場なら嫌でも新人は花見の席を取りに出されたりするからもともと組織化が前提で利害関係も生まれ易い。これは理解できる。

普通に考えて、何かのイベントに出かけてたくさんの人に囲まれたとしても、一言も喋らずに帰ってくる事の方が多いのではないだろうか。毎日身体が触れ合うほどの満員電車に揺られても、それが毎日ほとんど同じ顔ぶれであったとしても、その人達と言葉を交わさずに何年も経過してしまうことの方が、今の日本では考えやすいように思う。



今日話したのはあるタレント事務所に所属し、歌や芝居もやっている女性とそこ(秋葉原駅前)に定期的に集まると言う男性数人であった。

びっくりしたのは以外に彼らは誰にでも"開いている"と言う印象だったことだ。初めての自分に多少「何だろう」と言う目はされたが、すぐ次の瞬間には敵対心が無いことが理解されいろいろ話してくれる。もちろん女性はタレントだからそれもある意味商売のようなものだけれど、売らんかなではなくていたって"普通"に話す。今合ったばかりと言うような感じではなく、本当に"普通"だ。タレントさんでなくて"普通"なのだ。

男性達も全く"普通"だ。それが単に秋葉原にいて、中心にアイドルがいる"だけ"なのである。何もジメジメした人間関係も何もないようにサラッとしていて何だか気持ちの良い集団なのだった。これでは仕事場にある変な人間関係などよりずっと良いと思う気持ちも分かる。男女関係のへんなジメジメ感すらも無い青春ドラマのような感じに近いかもしれない。

彼の男性たちが、本当にこれを望んでいるのかはわからないが、それにしても"美味い落しどころ"を見つけたのだなと思う。


秋葉原がそれを許す何かを持っているのだろうとは思うが、それは何だろう。他にもこう言う例はあるのだろうか。そしてそれを他で何かの形で作り出す事はできるものなのだろうか。



建築は建築物のある機能を作った。そこに人間が入ってその機能にはほぼ満足しただろう。家は外敵から身体とプライバシー守るために鉄の扉を持った。それだけが原因ではないが、そこには少なくとも秋葉原のような現象を発生させることは無かった。もし建築物がミニ秋葉原現象を作り出せるとしたらしれは楽しいか、幸せか、それともその反対なのだろうか。



追加
秋葉原に展開される人間関係が良いか悪いか、生きてくために必要な本当のもので無いと思う人もいると思う。その点も本当にはわからない点のままである事を付け加えておく。今回はその現象のみについて扱っているつもりだ。

2008/07/05

建築計画学Ⅱのレポート提出

建築計画学Ⅱのレポートを提出

24ページ
コピー代130円
切手代20円(不足分のみ)

レポートの内容は前に書いた通り。
文字数削減のために表と図多用。

2008/07/04

家が無いとはどう言う事か

今朝のニュースを見ているとホームレス襲撃の記事が出ている。最近やけに多い。

「ホームレス」...「ホームレス」...家が無い

家が無いのは多分何かの結果であろうと思うが、家が無いとはどう言うことなのか。知っているようで知らない。逆に、家が有るとは何だろう、とも思う。
家とは何だろう、と、またそこに戻る。
人間には家が必要なのか。

ブルーシートで作られた家のように見える物は、あれは周囲からは家とは認識されないもののようだ。しかし、形を見る限り家、つまり建築的には家だ。しかし、社会的には家では無いと言う事か。

家か。
家が無い生活とはどんなものなのか。

以下単なる資料
ホームレスコミュニティの共生型居住に関する研究

寄せ場型地域における地域再生とホームレスの人々への居住支援の可能性

公共複合施設の計画学的分析

サンピアン川崎へ取材に行った。

この施設の面白いところは、あまり無い。
が、少しはある。

この建物を見ると1つの大きな塊に見えるが、実は北側半分と南側半分にキレイに分かれている。中で行き来できるのは、基本的には1Fロビーにおいてのみだ。ロビーでもガラス扉を閉めると完全に行き来できない状態になる。つまり、この建物はコーヒーの実(種)のような構造になっている。1個の赤い実の中に2個のコーヒー豆が入っているようなものだ。

なぜかと言うと、それは北側の大ホールと南側のコミュニティ施設部分とで、営業時間が違うからだろう。それにホールとコミュニティ施設では管理者も違う。HPを見ても一見してそこまではわからないが、これはインタビューして判明した。指定管理者が全体を管理しながら市や他の団体に又貸ししている構造なのだ。

ただし、又貸ししていない部分もあって、そちらは貸室と自主企画講座での営業を行っている。また1Fレストラン、喫茶、売店はさらに民間企業へ再委託した形となっている。


「労働会館」この厳しい名前の由来は、川崎市が労働者の街である証拠なのだ。いや、今となっては労働者の街であった、と過去形で言うべきだろう。工場撤退と工場労働者の減少、その跡地に巨大マンションが建ち、川崎の色もだいぶ変わった。今は文化の街を強調しているが、果たしてそうかどうかはわからない。どうも特色の無い街になってきている気がする。煙モクモクよりはマシだろうが。

労働者が減少すると、この労働会館の利用者は減る。ホール以外は年あたり10%以上も減少しているらしい。

以下は分析に用いた図の一部。

簡単に利用の流れを図にしてみた。


サービス圏域。

2008/07/03

規制と根性

柵の設置義務付けで学校の天窓事故をなくせ -ケンプラッツ

人命が無くなると言うことは重大である。
だからその度に法は厳しくなる。それは世の中を平和な状態に保つ方法としては簡単で実効性あるものだ。

ならば、学校と言う建築物のプロトタイプを法に盛り込んでしまってはいかがか。
つまり建築家はもう学校を考える必要が無い状態とするのである。これまでの事故データを全て収集して事故率の一番低い建築物の要素だけを組み合わせて仕様と図面にする。そしてそれ以上の事は何もしないのだ。そうすれば事故に関する限りほとんど無くなるかもしれない。ハード面ではこれで完成。

ソフト面では保護者、自治体、教員、教育委員会など関係者がその責務を自覚し、安全管理やしつけがおろそかにならないよう常に肝に銘じるだけで良い。


とてもお気楽な結論。これで誰も死ななくて済むのならこんなに良い事はない。


ハード面が法規制、ソフト面が根性論、それだけで誰も死なないのである。
素晴らしいとしか言いようが無い。


ついでに、自殺防止策として建築物の高さは2階までとし屋上に上がれるものは禁止しよう。道路は転んでも怪我しないゴム製に統一、ドアははさまれると危ないから必ず20㎝だけ隙間ができるものにしてはどうだろう。



我々日本人は人の命のような重大な事を考える場合にはどうも思考停止してしまうようだ。自分の職分の中のことであっても他人に任せる癖がついてしまっている。例えば法のようなものに。

そして最後は根性論である。仕事場で問題が起こった時によくある「充分な注意」朝礼などでの「周知徹底」で済ませる事は多い。そんな場合、必ずまた同じ問題は起きる。起きてから「注意喚起はしていた」となる。そして「さらに徹底」だ。日本ではこう言ったやり方も(ハードに対する)「ソフト」なのだ。

根性論でない、本当のソフトの枠組みを考えることが必要ではないだろうか。そうでなければ我々は永久に法令集を太らせ続けるのだろう。

2008/07/02

「都市のあいまいな構成の可能性」の素の素


卒研のゼミのブログができたので投稿してみた。
具体化する必要あり。


ゲシュタルト心理学 -Wikipedia
カテゴライズするのは人間の性質か。

セシル・バルモンド+伊東豊雄 (アイカ現代建築セミナー)

アイカ現代建築セミナー
セシル・バルモンド+伊東豊雄に行ってきた。
文字で書くのが面倒なので絵にした。(下の絵をクリックで拡大表示)




セシル氏と伊東氏は最初は個別に話す時間があった。
セシル氏は自分の信条とするストラクチャーについてその原理から親切に話してくれた。伊東氏はカルマン渦から始まって次第に自分の作品解説方面へ行った。同じ建築作品を共同で手がけたと言っても、それぞれに問題視している所は全く違うし、建築一般への見方もまるで違うらしかった。

セシル氏は構造家と言うこともあって、自然の中にある構造、それも深い部分にあるもの(アルゴリズム)を抽出して建築に応用する方法。しかし、それは自然の真似をするのではなく、そこから幾何学の法則を導き出して用いるのが人間のする仕事だと考えているようだった。この姿勢は西洋では昔からそうなので、姿勢についてはある意味、古典的かも知れない。現在の建築家が幾何学を用いるのもその名残りだろう。("名残り"つまりそれを意識せずに幾何学を使ってしまう人がいるから。安藤忠雄が幾何学を用いる理由は?と言って答えられる?)

もう一つ、やはり古典的、いや近代的と言った方が良いかも知れないが、に思えるのは、「構造と形態の一致」を強く試みている事だ。出来上がりはすでに近代では無いにしろ、その部分に関しては目指すものは一緒であるらしい。だから、伊東氏が外と内、裏と表の繋がり、流動性について言っても、セシル氏にとっては建築はあくまでも"固体"のようであった。


伊東氏は最初にカルマン渦を出してきてびっくりさせられた。先日CADⅡのために見ていた画像の動画版そのままだったから。ただ、以前からの氏の著書は読んでいたので現在どうなっているのかと思っていたら「流動的な」がどんどんただの固い物の中での議論になってしまったようで、以前のように「メディアとしての建築」のようなものでは無くなってしまったらしい。追求しているのはやはり形のように思える。であるが、ちゃんと外部空間にある何か、例えば敷地前面にある公園の緑のパターンなど、を気にしてそれを流し込もうとする律儀さはまるで学生作品のようだ。

外と中の繋がりで気になったのが、仙台メディアテークの時と今の台中オペラハウスでは立面の「切り方」が違うと言っていたこと。仙台ではガラスを用いて内外を一体的に見せようとはしていたが、どちらかと言えばそれは昔の日本家屋の縁側のように単なる"開放的な"ものであって、台中は外に繋がるはずの所をスッパリ切った余韻のある切り方と言うような意味だろうと思う。先日調べていた磯崎新氏のプロセス・プランニングとか60年代のメガストラクチャー建築を思い出すような言葉に思えた。

つまり、問題点はその頃から変わっていないのじゃないだろうか。あの時の巨匠達は既にちゃんと問題点を認識していたと言うこと。解決はできなくて、今にその問題が残されていて受け継がれているのだろうと思う。(そんな事誰も言わないだろうけれど。)

しかし、外との繋がりの問題は薄くするとか (伊東氏はそこに穴とかフラクタルなどを加えてみようか等と言っていた。)そう言った物理的なやり方で解決できるものだろうか。本当の意味でそこにある境界は、敷地境界のような物理的なもなのか? 建築家でない立場から見れば、その境界は建築家が建築家であるために仕事の領域を暗黙のうちに決めてしまっている事によるものではないのか。なぜなら、建築家以外の人間はその敷地境界を簡単に行き来しているのだから。