2007/05/31

ヴィトルヴィウスの建築書の概要

建築史のルネッサンス建築に関連してローマ時代の建築家「ヴィトルヴィウス」が登場します。ルネッサンスの建築家たちはヴィトルヴィウスの建築書を発見してその様式を研究したとの事。

そこで東海大学出版会から出ている「ウィトルーウィウス建築書」(ウィトルーウィウスはヴィトルヴィウスの別発音)と言う本をザッと斜め読みしてみた。原書は10書から成っているところを、本書では1冊にまとめている。

第一書
建築家の備えるべき教養とその理由。
諸技術(学問)の特質。

第二書
材料について。
その特質と工事の方法。

第三書
イオーニア式神殿における比例と配置、基礎など。
(ギリシア建築の様式研究)

第四書
ドーリス式、コリントゥス式とその成立に関する考察。
神殿の平面計画など。

第五書
公共の建築の平面計画。
劇場と音響、浴場など。

第六書
私人の住家のつくり方とシュムメトリア(比例関係)。
視覚による加減。住宅の間取、方位、基礎。

第七書
仕上げ。壁画。

第八書
水。井戸や水道。

第九書
日時計と時計。天文学。

第十書
機械。
荷揚げ器、水揚げ器、水力オルガン、武器。


ヴィトルヴィウスはギリシアの建築を範として書いているようである。
住居における平面計画などを見ても、ギリシアとローマの生活習慣の違いから来る平面計画の違いを認めてはいるが、機能毎に厳格に間取り分けすると言った基本的考え方は共通するものとして書いている。また、身分や商売による住居の違いについても述べているがその計画方法にはどれも比例関係を用いている。比例関係(シュムメトリア)が普遍の法則として考えられている事を示すと思われる。



147ページ第六書の中にヴィトルヴィウスの人となりを示す記述がある。

「このわたくしは技術から得らるべき金銭に勤勉を売り渡すのでなく、悪評を伴った富裕よりもむしろ良い評判を伴った貧乏を良しとしました。(中略)わたくしには、頼んでする仕事でなく頼まれてする仕事を採り上ぐべきであると、先師から伝えられています。...」そしてこの本が全ての人にとって有用となるように建築の全般ならびにその理法を書きまとめると書いています。


「ウィトルーウィウス 建築書」森田慶一訳註 東海選書 東海大学出版会(1979)

2007/05/30

寝殿造 -建築史のレポートのために

建築史のレポートを書こうと思った。
「寝殿造、書院造、数奇屋造の3つの様式の中から一つを選び.....」となれば、どうしても資料の多いできるだけ最近の時代を選ぶに限る、と思って調べた。

数奇屋造->お茶文化の影響を受けていて、「杮葺(こけらぶき)のむくり屋根、土庇、色土壁などを特徴とし....」など説明が多いことは多いけれど、形に自由度があり過ぎていっこうに特徴の要点がわからない。->と言うことで却下。

書院造->早くのうちに割りと装飾的で形式的なものになっていった付書院、違棚、押板床などを持つ広間を中心に構成した造り。しかしこれは武士の時代が長すぎて、まあ構法が安定しているとは言え武家にも上層から下層までバリエーションが多いので一時が万事のようには説明し辛いと判明。->なので却下。

寝殿造->書院造が発生する以前の経緯を調べていくと、資料が少ないまでも寝殿造の成立がなんとなく見えてくる事もあって、わからない部分が多いながらもどうにかなりそう。->採用。


寝殿造 -生活との関連から-
(書物に書かれていないアイデアを中心にメモ。通説とは全く異なりますので本当にご注意ください。一部を除き、下に書いた参考資料のどこにもこんな事は書かれていません。)

0.平面の変遷
寝殿以前の住居は掘建て柱で囲まれた長方形を長手方向の途中の間仕切りで2つに分割し、その一方を壁で閉鎖的にした寝室、もう一方を開放的な空間としたものであった。この長方形の周囲にさらに柱を立て巡らせて庇で囲む形状としたものが寝殿となる。後に閉鎖的な寝室部分は次第に小さくなり、やがて固定的な寝室の機能は消滅していく。(完全にハレとケに分化したのは平安末期と考えられる。ケの場所を常御所と呼んだ。)


1.貴族社会はファミリーを中心に成り立っている。
家は母から娘へと相続される。しかし女系と言うことではなく、政治的、社会的に男性が優位となっている。(実女性-名目男性)

これは当時の社会がファミリー関係中心であった事によると考えられる。家で生まれた息子を外に出して別の家に入れた方が他の家族を自分のファミリーにするのには有利である。もし現在と同じように女性を嫁に出すと女性が出て行ってしまうだけで縁としては弱く、ファミリーは増えない。

また一夫一婦制で無いこともあり、男性が1軒の家を持つよりは男性が外で別の家の女性に子供を産ませ、それが複数である方がファミリーの成員を増やし易いというメリットがあるとも考えられる。

この後の武士社会では武力の大きさ=政治勢力となる。その為、ファミリーを増やすよりも腕力のある他人を多数集めてグループ経営した方が有利である。よって貴族社会とは違う上下関係重視、名実ともに男性が家を継承する形に変化していったのではないだろうか。

武士の時代の争い方は「戦争」であるが貴族の時代には「暗殺」が多い。これは武士が腕力を基礎とする徒党を組んでいるのに対して、貴族はファミリーが基本であった為に、権力闘争の場においても現在で言う親族殺人の要素が強いと解釈できる。

2.南面の庭と寝殿
敷地の南側では多くの儀式が行われた。これはしきたりや仏教儀式などの定期的に行われるものが多く、実際に政治的な決議を行う等は少ない。現在的視点で見れば、これらは仲間同士の交流会、つまりお遊びに近いものである。

そう言った交流会を行うための場所が南面の庭と寝殿である。

こうしてお互いの交流とレジャーを重視するのは、上に述べたファミリーを中心に据えた社会構造によるものと考えられる。

3.庭と寝殿へのアクセス
庭と寝殿に外部から入るには中間廊の途中に設けられた中門を通らねばならない。これは庭にアクセスするだけでも建物内部を通らねばならないと言う事で、完全に外に面した空間とは言えない。つまり主にファミリー向けの空間であると考えられる。

4.寝殿の北側
初期の寝殿は寝所でありプライベート空間であったが、次第にプライベート空間は敷地の北側に後退し、寝殿は儀式の場の北庇以北となった。北庇、北孫庇は来客に料理を用意するユーティリティとしても使用された。

寝殿以北は生活の為の場であったと考えられるが、どこまで敷地内だけで自己充足可能であったかは不明。水洗トイレ(穴の底に水が流れる)はあったらしいが、それ以外の事、調理場の様子、食料保存、買い物には誰が行くかなどはよくわからない。

5.池の存在
平城京、平安京などは中国型の四角形に整った都市を模して計画されたために、どうしてもある程度まとまった広さの平地が必要であったと考えられる。日本でその条件が満たせる場所は盆地が多い。そのために夏は暑く冬は寒い。冬については着衣によって凌ぐ事が可能であるが夏の暑さは区画整理され建築物ばかりの都市では風通しだけでは凌ぎ難い。よって敷地内への池の設置は見た目の良さに加えて夏の暑さを凌ぐのに適していると考えられる。

6.「家族」の概念
特に寝殿造が設営された初期には男性の通い婚が通常であり、後期においては男性を迎え入れる形で婚姻が成立していた。現在の「家族」(夫婦+子、または爺婆+夫婦+子)の概念が相当異なっていた可能性がある。(この部分は不明。)

7.晴と褻(ハレとケ)
晴と褻が完全に分化したのは平安末期と考えられる。
晴と褻が公的な文書に多く登場するのもこの頃。
(東三条殿では寝殿東北の御車寄廊に常御所があった。1157年)

寝殿造の「ハレとケ」は基本的には敷地内の構成から成っている。
ハレは儀式の行われる南部分、寝殿と庭。
ケは寝殿の北部分である。

家具による代表的しつらいとしては、屏風がある。
屏風絵は、その絵の前に広がる空間の性格を視覚的にしめすという役割を持っている。
唐絵屏風はそれが置かれる事でハレの空間であることを示し、やまと絵屏風は日常、私的なケの空間であることを示す。

その他にハレとケを分けるものは服装とその色であった。大陸文化の影響を受けた、全ての物事の進化と後退の輪廻を五つの形に集約して説く「五行思想」に由来する考え方である。



参考資料
「対訳 日本人のすまい」平井聖 市ヶ谷出版社
「図説 日本住宅の歴史」平井聖 学芸出版社
「日本住宅の空間学」宇杉和夫 理工図書
「日本建築史図集」日本建築学会 彰国社
「日本の住宅」吉田鉄郎 鹿島出版会
「日本中世住宅の研究[新訂]」川上貢 中央公論美術出版

2007/05/28

秋田商会




下関にある秋田商会ビルです。


1915年大正4年、日本で2番目に作られた鉄筋コンクリート構造のビルだとの事。しかも空中庭園付き、しかも個人で建てたビル。そして日本に現存する中では最古の鉄筋コンクリートビルだとの事。








中身は外観から想像できるような全面洋風モダンな造りにはなっていなくて、海運会社の従業員を集めて大宴会が開ける畳敷きの大広間もある。何はともあれやっぱり日本人の作ったものなのだ。

日本人の、と言っても、いったい何故秋田商会の社長さんはどんな建築家とどこの大工に何と言って注文を出したのだろう? 初めての構法で始めての形をどうやって何を考えて造ることにしたのか。空中庭園まで作らせる事ができるほどこの構法について知っていると言う事は、よくある丸投げではないだろうから、この当時としては新しいこの構法について詳しく知っていて造らせたのかもしれない。

洋風の建物はこの近くにもいくつかあったし、外国人も住んでいた土地柄だからそういった繋がりで建てたのかも知れないし、海外との貿易の過程でそういった建築や技術を見てきたのかもしれないけれど、それを決断するに至った経緯はどういったものなのだろう。新しいものを求める時代の空気とかその勢いによるものなのか。

だとすれば、ウィーンの街にいきなりアールヌーヴォーの建物が出現したような、そんな空気が大正初期の下関にもあったのか。この建物からだけそれを想像するにはちょっと無理があるようだけれども、その時代独特の何かが感じられるようです。

科目終末試験の申込書を送った

建築計画学Ⅰの終末試験の申込書を郵送した。
6月23日の3限目(東京サテライト)

受験資格証明書を申込書に貼ってしまうと証明書の証拠が手元に残らない。郵便局が封書を無くしたら何も証拠が残らないと言う事に気付いてコピーをとって置くことに。時々配達しないで捨ててしまう郵便局員が見つかることがあるけれど、あの中に受験票なんかが入っていた事は無かったのだろうか、などと想像。

2007/05/26

森美術館「ル・コルビュジエ展」始まりました

森美術館で「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」が始まったようです。9月24日までと、ちょっと長い開催なのですぐに行かなくても大丈夫そう。

「現代建築論(03340)(選択)」のレポート第1課題のための取材になるかも?

ル・コルビュジエと言う人の名前は建築素人の私でもよく耳にします。氏に関する書籍も多いのは知っています。そして氏がいなければ今どこにでもある四角い建物はこの世に存在しなかった可能性すらあるとの事。言ってしまえば現在の多くの建物の造物主、つまり神様みたいな存在と言えるのでしょうか。

そんな人が自分と同じ人間と言う種類のものであって、どんな人であったのか興味が沸いてこないはずはありません。もちろんこれも建築を勉強し始めたからなのですが。

「ル・コルビュジエ展」行ってみようかなあ。(学割で。)

実測術 ? ! ? ! ? ? ?

建築史演習は選択科目、レポート課題だけで試験無し!

そろそろやろうかと思って「科目概要」を見たら、
「実際に訪れ、聞き取りや簡単な実測、スケッチをして...」
と書いてあって慌てる。

テキストと参考書にあるいくつもの場所を調べると、西日本ばかり。関東は日光など、少ししかないじゃないか!日本だと宿泊費がかかるから東南アジアってなると、バンコクやバリになる。どうしようか?

そうだ、その前にスケッチのやり方って?
道具は何が必要なんだ?
困った困った。


テキストの「実測術」を読んでみる。
書いてあることがフィールドワークの時の思い出話ばっかりで役に立つ情報がそんなに多くない。「何の為」を決めずに「とりあえずやってみた」って、つまりは「体験」が大事らしい。

そんな事でどんなレポートが書けるんだろう。
困った困った。

2007/05/23

『「51C」家族を入れるハコの戦後と現在』と言う本

昨日(5月22日)、朝日新聞に戦後の公営住宅標準間取「51C」について書かれていた。たまたま図書館の書棚を眺めているとこの本が見えたので借りてみた。

結論から言うと、すごく面白い本です。

51Cの考案者である建築家の鈴木成文氏と社会学者である上野千鶴子氏の、これはまさに"戦い"の様相を呈しています。その議論の中心は現在の住宅で当たり前になっている「nLDK」と言う間取についての批判、そしてこれを半世紀も生き永らえさせているのは誰の責任であるかと言うことです。

鈴木氏
「51C」と「nLDK」の間にはその理念上隔たりがあり、全く違うもの。
「51C」は住み方調査によって得られた「食事の場と就寝の場を分ける傾向(食寝分離)」、「子供が成長すると親と寝室が分離する傾向(就寝分離)」を戦後の少ない資源を元に実現する1つの型として提案された。
「nLDK」は家電製品等が増えて自然発生的にできた公的な場「L」と住宅を商品化して売るために安易に部屋数「n」を増やしていっただけのもの。

上野氏
建築家は理念を間取として提案する「空間帝国主義者」だ。空間や間取が生活や家族を規定できる、理想(タテマエ)の方向に導こうとするが、実態(ホンネ)としての家族の有り様はそれとは随分と違っている。空間の方を実態に近づけるべきだ。

その他いろいろあって、箇条書きにしてもとても書ききれない。


最後に一つだけ加えておくと、日本が高齢者の多い社会になってきている中、人の生活スタイルとか家族の有り方を考える上で、つまり建築に関わる者にとっては住宅や街や都市を考える上で多くのヒントを与えてくれる資料だと思われる。


『「51C」家族を入れるハコの戦後と現在』鈴木成文・上野千鶴子他 平凡社

建築計画学Ⅰのレポートが帰ってきた。

建築計画学Ⅰのレポートがたった今、帰ってきました。
評価は良かったようです。初めてのレポートに丁寧な講評でびっくりしました。

講評について
第1課題「スカイハウス」について
多くの参考文献を読んで書いたことを評価していただきました。その上で「メタボリズム」についてさらに追求してみると面白いでしょう、とのアドバイスまでいただいています。

第2課題「代官山ヒルサイドテラス」について
現地に行って写真を撮影してきた事が臨場感があって良いと評価いただきました。実際はここからそんなに遠くないのと、以前に見た記憶があるのに何も心に残っていなかった不思議さを自分で解明したかっただけなのですが。また、この建物を採り上げたきっかけが「東南アジアによくあるショップハウスとの類似」と言う点だったのですが、これをもっと掘り下げて比較したら面白くなったでしょうと指摘がありました。



けっこう思い切って自分なりに感じた事を中心に書いても大丈夫なものなのでしょうか。

第1課題の「スカイハウス」は文献をいくつか読んでみると、初見で感じる印象とは全く違って、かなり日本建築を研究した結果の産物であると事がわかりました。これはけっこう奥深い建築だと思います。建築家本人が書いた資料ばかりでなく、他人が分析して書いた文章の中にもこの建築を分析する上で参考になる記述が見つかりました。建築家自信が自覚せずに前提条件にしてしまっているものもあるのだと思います。
最初この写真を見たときには人工的な木の上の「ツリーハウス」かと思ったのですが、その清々しさが「日本家屋」から来ているとは以外でした。

第2課題は「集合住宅」について書かなければならなかったのですが、実際にヒルサイドテラスを見てもどこの資料を読んでも、さらに建築家本人の書いたものを読んでさへ「住宅」としての記述が全然ありませんでした。これには相当困りました。
そこで仕方なく住宅部分を外から見てどう見えるのか、そしてそれはどういった配慮なのかを考えて簡単に記述しました。(住宅部分の見え方を写真資料として添付し、ペンで外からの視線を矢印で書き加えました。)住宅の中身については何も触れていません。コンセプト上仕方ないと開き直ったようなものです。
初めてのレポートだった事もあって設問に応ずるような書き方をしてしまいましたが、自分がこの建築を選んだ動機をもっと重視して自由に書いても良かったのだなあ、と講評を読んで思いました。


今からなら6月の試験申込に間に合いそうです。

2007/05/22

51Cの記事 -今朝の朝日新聞

今日(5月22日)の朝日新聞朝刊の生活面の記事「わが家のミカタ」に戦後の公営住宅の標準間取り「51C」について書かれています。この間取りの考案に携わった鈴木成文(すずきしげふみ)氏の解説付き。

51Cの考案のための調査でわかった事。
・台所とふた間の家でも夫婦と子供が別の部屋に寝る事がある。
・食事と睡眠の部屋を別にする傾向がある。

そこで、
・台所を調理とともに食事ができる場所DKとして広めにとる。
・他の2部屋を壁で仕切って独立した寝室にできる。

その他の工夫
・玄関脇に物置。
・台所は南側。(主婦の在宅時間が長いため。)
・シャワー室とベランダをドア1枚で結ぶ。(子供の行水。)

福岡県の今川橋団地(1951年)の写真が掲載されています。
近く解体予定だそうです。


51C後の集合住宅
・L(リビング)ができる。(家電の普及で音楽などを楽しむ部屋が欲しい。個室が欲しい。)
->中に閉じこもるような住宅になっていった。外との接点の無い家。孤独死。

2007/05/18

建築構造学Ⅰのレポートできた

鉄骨構造に用いられる鋼材の種類と用途
鋼材の分類方法は2つ
「材質」と「形状」


鉄骨における継手
継手は2種類
「ボルト」と「溶接」
各々各種方式がある。


「防火」と「耐震」
鉄骨の防火は「表面を熱から保護する方法」が主。
鉄骨の耐震は「建物の構造に工夫する方法」が主となる。

鉄筋コンクリートは熱に強い。
鉄筋コンクリートの耐震は帯筋、あばら筋などでそれ自身を強くする方法、梁やスラブと接続するなどの構造による方法、耐震壁などで補強する方法がある。


参考書
「近代建築史」桐敷信次郎 共立出版
「図説建築構造のなりたち」日本建築構造技術者協会 彰国社
「新版 建築材料学」笠井芳夫他 理工図書


明日5月19日に郵送する予定。

2007/05/14

落書きノート





小学校や中学校で勉強するときに「ちゃんとノートとりなさい」なんて言われて大学ノートみたいな罫線のある紙に横書きで上から下にきちんとまとめていくと言う習慣があった。

これが高校になると、罫線を無視して書くようになった。それは罫線が細かくて後で見て汚い字が読みにくかったことや、字だけで強調する部分がわからなくなったと言うような理由で。普通のノートに強調表示するには蛍光マーカーが必要で、それを使えばすごく良いかと言うと試験の前にその色分けの意味が全然記憶に無くなるから無意味。これなら2色使っても1色でも同じ。だったら1本のペンで丸囲いしたり大きな文字で書いた方がマシ。だから罫線なんていらないと思った。

それでさらに気付いたのは、上から下に普通にノートに書くのは意味ないんじゃないかって。教科書が仮に200ページあったとする。ノートが50ページあったとして、後で見直す時には元々の200ページが250ページに増えてる。これは効率悪い。だから教科書に直接書き込むかノートだけにしてしまうかに限る。

それと鉛筆は使わない。消すのが面倒なのもあるけれど、自分の間違いの履歴はけっこう役に立つ。バカさ加減が自覚できる、つまり反省のチャンスが増やせる。

最近はもうノートなんてほとんど買わない。直接的には勉強する習慣もメモとる習慣もないからだけれど、コピー用紙ならプリンタ君から分けてもらえる。そして書き方も「書き」じゃなくて「描き」にした。世の中、みんな漫画ばっかり読んでるのに勉強になったら真面目に上から下に文字を埋めていくって変。やっぱりビジュアル系だ。

鉄とコンクリートの建築の変遷

建築構造学Ⅰのレポート課題2(1)の、「鉄骨構造」と「鉄筋コンクリート構造」の歴史と変遷について調べた。

概要
(1)材料の歴史

18世紀初頭:鉄の精錬にコークスが使用されるようになる。
18世紀半頃:銑鉄の大量生産が可能となる。
19世紀中頃:鋼鉄生産ベッセマー法。
19世紀末頃:連続製鋼法。
コンクリート
18世紀末頃:水硬性セメント使用。
19世紀初頭:ポートランドセメント。
19世紀中頃:パリで鉄網コンクリート住宅販売。

(2)鉄骨構造
●18世紀末から19世紀にかえて橋などのエンジニアによる建築物が作られる。(建築家によらない)
●建築家によって鉄が本格的に注目されるのは19世紀末から。
●19世紀末~20世紀アールヌーヴォーで伝統にとらわれない形状で鉄材が使用される。
●19世紀末~ロマン主義でも伝統様式に鉄、ガラスなどが使用される。
●19世紀末~アメリカ高層建築で「鉄骨耐火構造」、その後20世紀中頃に「チューブ構造」。

(3)鉄筋コンクリート構造
●19世紀末建築家ウィリアム・ウォード、鉄筋コンクリートによる自邸建築。
●1890年シマン・タルメ(鉄筋コンクリート+レンガ壁)構法。
●1900年パリ万博で多く使用。
●1911年三井物産ビル。
●1968年霞ヶ関ビルにて「柔構造」。

(4)派生した構法
●1921年日本興行銀行ビルにて「鉄骨鉄筋コンクリート構造」。


近代以降の「構法に焦点をあてた建築史」は資料が少ないようです。どうしても「様式」「思想」が主に語られる時代なので拾い出すのはかなり面倒くさい。下の参考書はその点で少し読み易いものだと思います。

参考書
「近代建築史」桐敷信次郎 共立出版

2007/05/12

タンポポ・ハウス

図書館にあったある本の表紙の写真が面白そうだったから借りてみました。
本の名前は「タンポポ・ハウスのできるまで」です。

タンポポ・ハウスとはその名の通り、壁や屋根からタンポポが生えてると言う変な家です。

詳しい説明は本とリンク先にお任せしますが、これを企画したのが藤森照信氏と言う大学教授、そしてタンポポ・ハウスはご自宅だそうです。自宅を自分の「作品」にされる建築家は多いですが、藤森教授は「建築緑化」を考えられている方って事でこれになったらしいです。

しかしそれを実現したのが、自分の理想を実現するとか理論を実践して世に訴えると言うような事かれではなくて、どちらかと言うと藤森教授のファンタジーですね。本の最初の方にコルビュジエなんて出てくるのが教授らしいけれど、結局はお人柄でしょうね。

こう言う個人のファンタジーを大切にしているところがなかなかです。それに「しまった」ってのも書かれていて読んでいて楽しいものでした。ムーミンハウスに匹敵しますね。



「タンポポ・ハウスのできるまで」 藤森照信 朝日新聞社

2007/05/10

建築構造学Ⅰのレポート、半分できた

建築構造学Ⅰのレポート、課題1の木造構法まで書いてみた。

「構法の成立と歴史的発展」なんて建築史みたいな課題で実にめんどくさい。何も知らないから2000年も遡って検討しないといけなかった。

それより余計に分からないのは在来工法が何時からあって、なんて事建築史にない位新しすぎて資料があまり無いのに驚き。

さらに有りそうで無いのが木造3構法をまとめて比較している資料。これはとうとう見つからず。(横着するなって?)仕方ないから別個に調べてイラストにして表にまとめてみた。出来は???

おかげで今までそんなに使っていなかったOpenOfficeの練習になった。無料のアプリなのにかなりイケるぞ。

明日からは鉄骨やります。

2007/05/09

木造3構法の比較

「A.在来工法」「B.伝統構法」「C.枠組壁構法」

1.歴史的起源
A.大正8年の「市街地建築物法」により始めて構造規制。
 ひうち梁、すじかい、柱の太さ、仕口と継手、その他。
 その後戦後の建築基準法により発展。
B.建築史参照
C.1970年代以降、アメリカより。

2.主要構造比較
A/Cはトラス構造の考え方。
B.ラーメン構造の考え方。

3.小屋組比較
小屋組には大きく分けて2つの考え方による構法がある。
(1)梁等への曲げモーメントで受持つ方法。
(2)トラスで受持つ方法。
A/Bともに(1)(2)による構法選択可能。
Cは(1)のみ。
但しCは合掌造りもあり。


在来工法は意外と新しいものだったようで、びっくりしました。
テキストや参考書では個別に解説されていて比較表などはが見つからず、けっこう面倒臭い思いをしました。

参考書
「日本建築構造基準変遷史」大橋雄二 日本建築センター
「建築法規の変遷とその背景」大河原春雄 鹿島出版会
「日本建築様式史」太田博太郎 美術出版社

2007/05/08

熊本北警察署

逆三角形の不思議な建物「熊本北警察署」について調べてみた。

街を歩くといろいろな建築物がありますが、今まで機械しか見てこなかった自分の目からそれらを見ると、「建築家って無理するんだなあ」と思う事が多いです。単に形状を作るために鉄と鉄を溶接で繋げさせているし、大きくて太い鉄を1個だけ特注してみたりと、機械の世界ではほとんど許されないコスト感覚を感じます。

逆にその意匠デザインの為に建築家がお金を貰っているかと言えば、名の通った建築家であってもそうでなく、機能や性能にのみ支払われるとも聞きますのでこの矛盾はいったいどうやって折り合いをつけているものでしょう。

熊本北警察署にしてはそこらへんはどうだったのでしょうか。もっと単純な形でもアートは成立するんじゃないか? と、誰か言わなかったのでしょうか。


この建物が作られた元プロジェクトです。
くまもとアートポリス-Wikipedia


くまもとアートポリスのHP


ここからは作者の篠原一男氏について。

作者 篠原一男氏のことが書かれています。
とんとん・にっき

作品にしか触れていません。
篠原一男 -Wikipedia

これを読むとさらに分からなくなります。
篠原一男 -関心空間

もっとわからない。
text02 篠原一男論

篠原氏はアートとして建築を作られる方のようです。あの形に何か実用的な意味があるかと深読みしても無駄なのでしょうか。調べるほどに謎は深まります。

プロジェクトについて、Web上で調べる限り概ね評価は良いようです。しかしその評価は建築(学)の上だけでのもので、それを使用してどうか、街の文化としてどうだったか、県の経済に及ぼす影響があるのか、財政的にどうななどはほとんど出てきません。民間の建物も含むとは言え、普通に「箱物行政」ではないかと勘ぐってしまいますが、実際はどうなのでしょう。

ちょっと気になったのは日本中から有名建築家を集めて行政とその人たちばかりが盛り上がって「住民不在」であったようなコメントもちらほらある事です。


結局、熊本北警察署の逆三角形の意味はよくわかりませんでした。

2007/05/04

木造在来構法と木造伝統構法

建築構造学Ⅰのレポート課題の中に「木造在来構法」と「木造伝統構法」と言う言葉が出てくる。ここで問題なのが「構法成立・変遷の歴史的起源」を説明しなければならない事。

伝統構法であれば大仏様、寝殿造、書院造などと辿れるけれども、「在来工法」を辿るのは最近の事であるにも関わらず難ししい。何故なら最近の事であるが故に歴史の教科書に書かれていないから。科目概要にある参考図書を見てもそんなのは載ってない。


それで、やっと見つけたのがこれ。(シリーズになっている。)
「在来工法」はなぜ生まれたか - 建築をめぐる話・・・・・つくることの原点を考える

2007/05/01

建築計画学Ⅰレポート提出

今日は郵便局が開いているので建築計画学Ⅰのレポートを郵送した。

初めてのレポート提出なので念入りにチェック。
レポートの表紙に大学指定のレポート課題提出票をステープラーで取り付ける。右上には提出日、今日の日付を記入。返信用の封筒も用意する。指定の封筒に入れて郵便局へ。

A4サイズなのに第四種郵便物なので15円で済む。封筒の中に入れた返信用封筒にも15円の切手を貼った。窓口の人に渡して終わり。

何かまだ忘れていないかと不安になるが、大丈夫だと思う。

大丈夫かどうかわからないのはレポートの中身。これが評価されて返ってくるまで1ヶ月、不安だ。