2010/09/12

マレーシアの典型的な民家のイラスト


ショッピングモールのイベント会場で見つけたイラスト。
田舎の典型的な家をマレーシアではこんな風に見ているのだと思われる。
日本では昔はサザエさんの家だったけれども今はどんな家を思い描くのだろう?

2010/08/18

ジャカルタ タマン・ミニ・インドネシア・インダー

1008 Jakarta Taman Mini


ジャカルタの郊外にある「タマン・ミニ・インドネシア・インダー」と言うテーマパークに行ってみた。

インドネシアの建築に興味がある人は一度は見ておくのも良いかと思う。ただし、ここに展示されている建物は云わば模型のようなもので全くの本物ではない。地面に接する部分は元の建物が木造であってもここの展示ではコンクリート製になっていて腐らないようにしてある。

2010/08/17

ジャカルタのビル・デコレーション

1008 Jakarta Building


ジャカルタへ行ってきたのでビルの写真を撮ってきた。
短期間なので外から見たデコレーションだけだ。
(クリックするとアルバムに飛ぶ。)

2010/08/08

Masjid Jamek-あまり意味は無いのか?


KLの有名なモスク、Masjid Jamek(マスジッド・ジャメ)の駅の駅舎の屋根である。
内部はガランドウで特にこの形である意味は無さそうだ。以前に設計2の課題を出した時に「ボリュームをランダムに並べたのか?」と疑われたことがあった。あの時はランダムではなく何度もスタディして窓や外部からの見え方が最適になるように調整したつもりだったが、この駅舎はどうだろう?

この駅舎の形を外部から見るには周囲の高いビルの中からしか見えないだろうけれども、駅舎自体が高いビルの谷間に埋もれた状態になっているのであまり良く見えるとは思えない。この写真の角度だって普通の人が歩いていて見るものではないのだ。この屋根の形にどんな意味があったのか量りかねる。

柱の位置を見ると、柱どうしが近くなったり遠くなったりしていて複雑なように見えるが、これも屋根の形を先に決めたがために庇を支える柱が余計に必要になったのかと思われる。駅舎の床はかなり高いところにあって、これは真下にある川やホームやその他の整合性をとるためにこうなっているのだろう。道路側からのアクセスは細い階段を使わねばならず便利ではない。


建物単体についてだけ考えてデザインすると言うのはこう言うことなのかと思う。

2010/08/01

これも看板建築か


クアラルンプールのマスジッド・インディアは布屋さんの秋葉原のような所。その中ににあるこの2軒は強烈だ。ビルの下から上まで全てをショーケースにしてしまっている。展示物の詳細が見えるわけではないが何と直接的なのだろう。

こうしたビルは人が通路を歩く地上階にショーウィンドウを設けて人目を引く。その展示によりお客が入るかどうかが決まるのだけれども、このマスジッド・インディアのように布屋と雑居ビルが多く交じり合っている場所では中身がデパートのように高層階までショッピングエリアなのかそれとも外から見える部分だけなのかは全くわからない。地上階だけかと思って入ってみると奥にエスカレータがあってずいぶん上階まで連れて行かれることもあり、逆に大きな間口の店だから大きなショッピングセンターだと思って入ると見える部分しか無かったりもする。

ありそうで無いこの方法なら、特に何も工夫しなくとも上まで店舗が広がっている大きな布屋だと簡単にわかる。面白いじゃないか。

Serembanの街と家



クアラルンプールから電車に乗って1時間半、ヌグリ・スンビラン州の州都スレンバンの街を見てきた。街はそれほど大きくはないし現在ではマレーシアの中で特徴ある街であるとも言えない。ただ、無料で見られる博物館には100年ほど前の高床式の王宮と家が展示されているので興味がある人には良いと思う。ヌグリ・スンビランの特徴ある成り立ちなどは他のサイトでもガイドブックでも読めるし、自分もそれほど詳しくはないのでそれは割愛させていただく。まずは写真をクリックして見ていただきたい。


写真では家の構造や構成を紹介しているが、家としてあるべき物が欠落しているのに気付く。台所、トイレ、風呂、玄関、収納などが何も無い。水や火は外部で扱い、トイレと風呂は川その他か別棟に作られるだろう。玄関はもちろん日本だけのものだから無い。形としては日本の古代の寝殿造りに似ていなくもない。棟持ち柱が地面から生えてはいないにしても。

2010/07/18

人工の谷



マレーシアの1 Utamaと言うショッピングセンターの中にある人工の谷間。

特にすごい事をしているわけではないが、しかしアイデアは誰にもあるにしても、その誰もが本当にやってみる事ではないと思うので写真だけ掲載しておくことにした。


左右にはCADで描きました、と言うような目新しくもない曲線の曲がりくねった通路など。中央奥には人工の岸壁に滝。滝から流れた水は正面の床で川となり右側のもうひとつの小さな滝に流れる。水はさらに地下の駐車場の池にまで達する。

レゴ



マレーシアのスバンジャヤのタイパンにある大手不動産会社が持つオフィスビル。巨大なレゴで組み立てられたようだけれども、中身は普通の鉄筋コンクリート。ギリシャやローマの古い建物をレゴでデフォルメしたように見えなくもない。

アメリカ人だって自分たちの歴史とまったく関係のないローマ風の建物を政府機関や大学や図書館などのために造る。結局造ると言う行為ってのはまったく無からポンっとできる事はほとんど無いわけで、誰かがどこかでやった何かを参照したり真似したりしなければならない。このビルだって外観だけだけれども立派に見せようと考えてこう言う形になったのだろう。

別の方面から考えれば、これをデザインした人はそのあたりを効率よく勉強したと言うことでもある。この地方の限られた人しか見ないこのビルであってもどこかで見た立派さの手法と近代の方法論とをミックスして施主がなるほどと思える程度にプレゼンテーションができたと言うわけだ。あまりたいした事でもないのだけれど、そうした事を厚顔無恥にできるかと言うと逆に誰にでもできる事ではないなあとも思える。そうした厚かましさもプロには必要なのだろう。

素人にはもっと必要かも知れないが。


最近あまり書いてなかったのでつまらない建物だけれども載せてみた。

2010/04/25

デクノボウ

建築と言うのは多くの場合幾何学を使用しています。
その大きな理由の1つは、「人間は特別な存在である」と言う表現です。

幾何学の要素は自然からいだだいています。だた、それを抽出して抽象化できるのは人間しかいないと言うわけです。多くの建築家の作品や表現もその考え方に従っています。

例えば森の中に建物を建てるとそこには対比ができます。

インスブルックのスキージャンプ台(Zaha Hadid)

こう言うことです。

さて、ここで問題になるのは、この山の上に作った物がもともとそこに居た、またはあった木とかミミズに対して何かしてくれるのかと言う点です。多分何も無いか、邪魔者扱いじゃないかと思うのです。


ツルツルの建物には鳥はつかまれません。蛇も上れません。酸素も二酸化炭素も作れなければ水も供給しない。もしそれが人間だったらどうでしょう。あなたは何のためにそこにいるの? あなたは何のために生きてるの?って事になりませんか。建築は人間以外に大してデクノボウかも知れません。今まで建築はそうやって成立してきたとは言えないでしょうか。

もしこれからも人間が特別でありたいと願うなら、人間以外に対しても何らかの利点の提供者である必要があるのではないかと感じます。

2010/02/06

統一は課題なのか

都市や街の美と言う話になると必ず出てくるのが「統一感」と言う言葉だ。


ハードロック・カフェに入ると、そこには独特の濃さがある。ドア1つ隔てただけで外界と隔絶された独特の趣味がその正体だ。そしてそれは統一を生み出す。その欠点の無さを人は楽しみ、統一は美の1つの基準となる。それは多分あの歴史の街についても同じことが言える。歴史ある街の再生と言うと、だいたい想像の範囲を越えない統一された意匠の街を書き割り的に作り出してしまうのはそんな言う理由によるだろう。「統一」、それは何と甘美で魅力的な響きを持つ言葉なのだろう。

さて、統一、それは都市や街やそして建築にとっての課題たり得るのであろうか。



マレーシアには3つの民族が住んでいる。だからマレーシアと言う国は1つでも、マレーシア人はいない。

その代わりにマレー人、インド人、中国人がそこにいる。対して日本にはほぼ日本人しかいない。国ができて何十年も経っているがマレーシア人にはならなかった。彼らの文化は今でも全く別々だし共通に使う言葉はあっても母語はそれぞれのままだ。最近は「1 マレーシア」と言う掛け声によって多民族が1つのマレーシアと言うアイデンティティを持て国造りをしていこうと言う動きがある。

その意味するところは何なのだろうかと思うが、全員がマレーシア人となり混合される事だとは誰も考えないだろう事だけは確かであろう。そこには日本人が考えるタイプの「統一」はきっと無い。

「1 マレーシア」が厳密にどう言う意味で言われるかはここでは置いておくが、統一は実際に誰にとっての課題なのか、と言う疑問の1つのヒントではあると思う。そこには誰が何をしても可とされる自由、それを互いに認め合う事の方が本来は必要なのではないかと考えさえせられるものが有りはしないだろうか。


統一と言う甘いドロップをそろそろ口から吐き出してしまうべきなのではないかと思う。
(もちろんそんなのはとうに分かっている人も多い。)

2010/01/10

中国様式モスク


ニュースによれば、マレーシアのスランゴール州3箇所に中国様式のモスクが建造されることになった。デザインは古代中国様式とイスラム様式をミックスしたものとなっている。建設地はペラ、マラッカ、ラワン。モスクは一定の時刻にアザーンをスピーカーで周辺地域に流すが、これもマレー語と中国語で行われる。新聞ではこの建設の目的を華人社会(中国系住民)にイスラムの教えを理解して欲しいこと、イスラムが他の宗教に対しても寛容であることを示したいためと書かれているが、数少ない中華系ムスリムのコミュニティ等がこれに関与しているのかどうかは書かれていない。

モスクと言えば建築史の教科書にいくらか出てくるがそれらの多くはタマネギ型のドームを持つものだ。しかし実際にはイスラム様式と言うのは定義があいまいで、中国にあるモスクのほとんどは仏教寺院と区別が付きにくい。また東南アジア、インドネシアなどにあるモスクも三角屋根のものが多く一見してそれがモスクかどうかは分かりにくい。形の無いモスクと言うのもある。例えば日本では空中店舗方式のものもあって単にビルを一部間借りしている部屋である場合だってある。

そう考えるとこの中国風モスク建設と言うのはかなり恣意的で、はっきりした目的の記号として建設されると解釈される。もちろんそれは新聞に書かれている通りだろうが、それはモスクの本来の目的とは多少違うことになるだろう。


逆にもっと根本的な問いとして、モスクとは何かと言う疑問もある。
それに関しては、以前、KLのイスラミック・ミュージアムでドイツのモスク建築を展示していた中の一文が興味深い。

それによれば、ムスリムの祈りはどこで行う事も可とされ、ほとんどの場合それは1人で行われる。特に規定はされていない。中には他宗教のように神を象徴するイコンがあるわけでもなくガランとしていて特に何もない。ではなぜモスクが建設されるのか、これは当のムスリムにとっても基本的な問題なのだそうだ。結論は祈りの象徴であったりコミュニティ形成の場であったりと言う割合一般的に考えられる結論となる。

そのようなわけで、モスクの"様式"と言うのも怪しい。教科書ではモスクと時代の建築様式が結び付けられて書かれていて誤解を招くのだが、それは時代の様式なのかモスクの様式なのかよく考えてみる必要があるだろう。

新生中国様式モスクは2年以内に完成と言うことなので完成後には見に行ってみたい。