2007/09/28

建築の価値と存続

宮崎県の都城(みやこのじょう)市民会館の解体が決まったようだ。
以前に書いた黒川紀章氏のカプセルタワーとともにメタボリズムの遺産がまた一つ消えていくことになる。

市民会館の今後の方策について -都城市

都城市民会館 -建築マップ

以前に採り上げたスカイハウスを作った菊竹清訓氏の作品だ。

解体が決められた主な理由は次のようなものだ。
そのまま使うには維持費がかかる(5000万円/年)し別の施設を作ってしまったので使い道が無くなった。改修して別の用途とするにも大規模改修が必要であるし、それをしたからと言って新たな用途が見つからない。また設備面、バリアフリー化なども大変である。文化財としての価値は建築時に計画変更されていて菊竹氏の計画そのものとは言い切れない。そのままの形でとの要望も多いが、それではメタボリズムの考え方とは反することになる。


築後約40年しか経過していない。
先日のニュースでは道頓堀のキリンプラザに関してはその半分のたった20年で解体になることが決まったそうだ。どちらもあまりにも短すぎる。木造住宅と変らないのである。


メタボリズムと言う考え方
残すものと変えるもの。この建築の下半分の鉄筋コンクリートで作られたホールの座席になっている部分は残すものとして作られていて、上半分の扇形の部分は変える部分である。それは一体何のために変えると考えられたのだろうか。老朽化か、用途変更か。設備も変えられる方に入っているから老朽化は大きな理由だろう。

しかし、これを想定したのは建築家の方であって、使う側はメタボリズムの考え方をそれほど意識してはいなかっただろうと想像する。建築物はほとんどの場合そのまま使うものであって、よほど困らないと改修はしないのが一般的だ。テレビのリフォーム番組を見ていても、現実の多くの家を見ても、本当にもうダメかと思ってからやっとリフォームを考えるものだ。給湯器のような設備機器だって家電製品より過酷な条件に置かれている(中身は1200℃、外部は氷点下、雨に濡れる、掃除機のように溜まったホコリを掃除してもらえない)にも関わらず、買い替えはテレビの方がすっと頻繁なのだ。

そう言った意味でメタボリズムは日本にとって早すぎる考え方だったのかも知れない。しかも成熟しないままに捨てられた。バブルのような状態が起こればお金は使った方が勝だ。

もう一つ言えることは、建築家の仕事は造ったところで終わりと言うこと。それをどう運用するかは施主の問題に移るから、世の中がこう変ったら何かを変更すると言う考えを継続はできないだろう。黒川紀章氏のカプセルタワーのカプセルほど簡単なものであっても老朽化してカプセルをメンテナンスのために下ろした人はいなかったらしい。造った後に建築家は何も言う権利はないし、メンテナンスの仕組みまでは売らなかったのだと思われる。


未来予測
いかに偉大な建築家であっても未来を予測するのは難しい。人間は時代と言う大半径のカーブを直線と思って走ってしまうもので、これから先、時代がどう変化して行くかはわからないだろう。それを思ってメタボリズムを導入したとて変化できる範囲を超えてしまうとは誰にも予測できないものだ。


使い続けること
建築はそれ自体では存在できないものだ。誰かがそこに居て、それを使い続けることだけが建築を生かす事なのかと思う。それには建築を造る以上の想像力が必要だろうが、そんなクリエイティブな人間はごく僅かなのではなかろうか。


分離志向
ギリシャの神殿は数千年も存在することができた。そして今後も存在し続けるだろう。その事に現在の誰も異論は無いだろう。我々はそこへ観光に行く。そしてそれは多分またずっと生き残るだろう。それには価値があると考えられるから。

一方、自分の街の公園や役所の建物はどうか。用がなければわざわざ見には行かない。ギリシャ神殿のような価値を認めないからだ。逆に言えば、ギリシャ神殿ほどの価値を持たそうと思って公共の建物や自分の家を造るのか。絶対にそんな事はない。

観光地にある遺跡のようなもの、自然遺産のようなものと日常の建築物や家は全く違うものだと考えているからだろう。観光地には美しい自然や価値ある遺跡を求めるが、そこから切り離された身の回りの日常にはそんな快適さや美しさは全く求めようともしない。分離志向である。

一方で建築家はそれをしようと本気でする(人もいる?)。歴史に残る何かを造りたいと思う。この街をローマやベネツィアにしたいと思う。しかしそこには壁がある。建築家以外の誰もがそんな事は望まないと言う壁だ。観光地まで行かなくても美しい街並みも、寛げる街があることも望まない。我が街の建築は一時的な入れ物となり看板とはなるが、遺跡には成り得ないのである。

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