2008/03/31

建築設計のパース



調子に乗って壁を曲面で設計してしまったらパースの描き方が難しかった。以前の造形Ⅱでは壁が全て平面であったから描き方がテキストには出ていなかったので考えてみた。

要は、曲面のビューポイントから見える曲面の前に仮想平面を作り、それを実際の曲面である壁面まで後退させて描くと言う方法。

2008/03/30

来年度の教科書が届く

4年次用の教科書一式が届いた。
「卒業研究の手引き」だけは履修許可が出てから配本との事でそれだけは入っていなかった。
履修登録も間違いなくできていたようだ。


4年次履修科目

建築造形Ⅲ(課題)
建築計画学Ⅱ(試験)
設備計画学(試験)
建築施工学(試験)
建築法規(試験)
建築の世界(スクーリング)
CADⅡ(スクーリング)
CADⅢ(スクーリング)
建築設計Ⅱ-1(スクーリング)
建築設計Ⅱ-2(課題)
建築設計Ⅲ-1(スクーリング)
景観デザイン論(試験)
卒業研究Ⅰ
卒業研究Ⅱ(スクーリング)

2008/03/29

卒研展@東京

卒研展@東京に行ってきた。
なかなかレベルが高くてびっくりした。あと1年であれほどのものが自分にも造れるのかは疑問だ。

1つ面白いと思ったものがあった。(M氏の「individualistic apartment」)
通常、個人は家族の中に含まれるために個人の部屋は家と言うものに包含されるように設計されている。だが、個がそのまま外部環境に露出して社会の中の個であると言うこともある。そうなれば個の部屋が家族の家の中身である必然性は無い場合もある。その事を今までの当たり前の家でない形で表現していた作品があった。個人の部屋が家を経ないで外部に露出しているものであった。

今まで当たり前と思っていた概念が当たり前の家を造らせる。それに何も疑問を持たないと言う事は現実を見ていなかったと言うことだと考える。こんな作品を作れる人が1年先輩にいるとは心強いとともに恐れ入った。素晴らしい。



その後は同級生との宴会。
一緒に卒業製作に移れるのが嬉しい。

2008/03/28

パン屋のアイデア



パン屋さんの設計のアイデアの幾つかをメモしておく。

この絵を見ても何の事やら?だろうと思う。
きっと後で自分が見てもわからないと思うので解説。

一番上の絵は竜安寺の石庭のようなもの。
石はコケが生えるほど変らないが、家の中にも人が生活する限りにおいてあまり変えられないものがある。食べる事、風呂に入ること、寝ることなどがそれだ。そう言う機能は石のように固定しておくことにした。
波打って流れる砂利の部分は流動的でどうにでもなる部分。建築家がここはこう使うだろうと思って設計しても固定されていると時間が経ってから何かしら不都合が出たり、事情や環境が変わって使い難くなる事は想像できる。であるからある程度まとまった空間を何にでも使えるようにしておく。図面にも具体的な家具を仮想線で描いたり、xx室などと書いてはおかない。
逆にそうすることで家主さんがいろいろアイデアを出しながらエイジングしていく事を考えた方が楽しんでもらえるだろう。それに固定された石のような空間の周りとの距離感をいろいろに感じるなどと言う微妙な楽しみ方ができたりしたらもっと楽しめるかもしれない。これはちょっと建築趣味的でありすぎるか?


2番目の絵は犬がオシッコでテリトリーを作っている図。
家族と言えども個人個人なのであって、ある程度のテリトリーは作られる。お父さんはお母さんにうるさく言われない書斎で本を読みたいと思うだろうし、子供も男の子と女の子の兄妹なら必然的に時間の使い方も違ってくる。
しかし、テリトリーを仕切るのに壁では重過ぎると思う。もっと時々の事情に合わせて流動的であっても良いだろうと考える。だから壁は極力用いないことにする。その代わりに何を使うかはいろいろ考えてみた。もちろんオシッコの臭いってわけじゃない。


3番目の絵は糸を引いた蟻さんがお互いの糸を結ぼうとしている図。
地域のお店と言うのはただ物を供給するだけでもその機能としては満足なのであるが、それだけではライバル店が近所にできた時に、例えば大きなスーパーができてそこに安い量産されたパン屋が入っただけでそっちに移ってしまうお客さんだって少なくはないはずだ。だから初めからパンを売るのは当たり前品質と考えてそれ以上のものである方が良いだろう。(普通の考え方だ。)
以下は想像通りなのであえて書くまでもないだろう。

もう一つ、地元のパン屋さんは自営業者なので時間もお金も私生活と商売で完全に分ける事が難しい。急いで食事を掻き込んでまたすぐパン作りをしなければならないだろうし、お店用と家庭用の物をいっしょに買ってくることもある。ならば、割り切って私生活とお店をある程度混ぜてしまってもそれはそれで楽しいものになるのではないか。お客さんにとってもどこから来てそのショーケースに並んだのかわからない物を食べさせられるより、この人が作っているパンと分かる方が良いと思う。「いらっしゃいませ」で始まり「ありがとうございました」で終わる買い物にはしたくない。そう言うのはコンビニやファミレスに任せておこう。看板が綺麗に書かれていなくても「こんにちは」って普通の挨拶で普通に迎えてくれるパン屋さんを作ってはどうかと思うのだ。

そんな事と以前に現代建築論で調査した黒川紀章の考えかたをミックスして図面を引いてみた。そうしたら建築設計Ⅰ-1(スクーリング)でやった住宅と何だか似てきたようだ。

2008/03/25

CADは苦痛

建築設計Ⅰ-2で設計の練習をしながらCADで作図をしている。
どうしてもCADで引ける線に頼るように頭が働いてしまうのを感じて苦痛だ。トイレの両壁は真っ直ぐ平行でなければならないわけではないだろう。仕方なしに家の隅っこに置かれるトイレなど描く価値があるのだろうか。

2008/03/21

猫はどうして

建築設計Ⅰ-2で「パン屋さん」の設計をしている。
....している、とずっと考えているとどうしても「パン屋さん」を造ろうと思ってしまう。

でもそこにはパン屋さんを営む家族が住んでいる。つまりパン屋さんであると同時に普通の住居でもあるわけで、そちらを疎かにするわけにもいかないのだと思い返す。お店も家も両方同時に造らないといけないのである。

パン屋さんを営む家族はきっとパン屋さんの商売がうまくいく事を願っているだろう。しかし同時に家族の生活にもそれを望んでいるだろう。となれば、家を設計したときにその家を見てその家族にはちゃんと自分の家だと認識してもらわなければならない。


猫は引っ越してもその家を自分の家だと認識するのにたいへん時間がかかる。ダンボール箱に布を入れ、餌を置き、臭いを付けて快適にしてやってもなかなか自分の居るべき場所だとは思わない。最後には半ば諦めさせるようにして家だと認識させなければならない。

それに対して人間は順応性があるために、自分の家と考えてそこへ入ることに躊躇が少ないだろう。逆にそうであるからちょっとした違和感に対して設計者に何も言ってくれないかもしれない。少しの無理をずっと我慢して住み続けてしまうかもしれないだろう。


そのあたりをちゃんと考えて描かないといけないのだろうと思うが、CMのように「帰りた~い、帰りた~い♪」となる家はどうしたらできるのだろうか。

2008/03/12

建築設計Ⅰ-2にとりかかる

建築設計Ⅰ-2の課題のパン屋さんの設計を始めた。

以前にも黒川紀章を考えている時にアイデアの端っこが出てきたりしていたが、そのときから頭の中は進んでいなかった。考えていてもなかなか出てくるものではないので、白い紙にスケッチしてみたり近所を歩いてみたりして少しだけ進めてみた。

人はどんな所を通りたいのか、どんな所を通りにくいと感じるのか、反対に留まりたいと思うのかを考えてみた。少しアイデアが浮かんだ。


この後は何かアウトプットしてみなければ、と思っていきなり図面を描くのは止めよう。見るのがあのM先生なのだから、やっぱり模型から入るべきだろうと思う。これも良いアイデアだろうか?

2008/03/10

進級手続完了

4年次への進級手続をした。

学費26万円を郵便局から振込み。手数料330円。
進級手続願に振込受付証明書を添付してコピーしておく。10円。
進級手続願を郵送。80円。

2008/03/09

遺跡の写真公開

中部ジャワ遺跡群の写真を公開した。

BOROBUDUR


こちらはプランバナン地区のいくつかの遺跡をまとめたアルバム。
PLAMBANAN

建築史演習のレポートを提出

建築史演習のレポートを提出した。
図表含む全部で62枚(内A3の計測図1枚)。
316.5gで送料は45円だから往復で90円。

内容は帰国後に書いた記事から変更無しとした。
今回は持ち帰った写真などの資料が多く、整理しながら使うものを選ぶのがたいへんだった。。結局テーマを絞り切れず、網羅的になってしまった。こんな物を基礎知識の無い人に読んでもらうのだから、少々つまらない読み物と言われてしまいかねない。こちらはまだ現地の臨場感の中にあるのでそのギャップは大きいだろう。
仕方ないので現地の写真をいくつか集めてA4にコピーして添付した。

2008/03/06

たくさんのつまらない事

建築の勉強をする合間にここに書いたり、別のブログを書いたり、他人のmixi日記を読んだりいろいろな事をやっている。

そんな事している暇があったら肝心のレポートを仕上るだけに集中した方が良いと言うだろうか。レポートも試験も素早く終わらせてしまった方が効率が良い。終わらせたら別のことができるだろうと。


大学受験の勉強まではそれは正解だったと思う。(20年も前の事)
なぜなら小学校の勉強も中学校でもそして高校であっても、問題の答えはたった一つだったから。そう言うやりかた、考え方が今でも普通だと広く考えられているのだから、そう言われるのも最もだと思う。


人間の頭の中は実際、そう単純ではない。たくさんの事を平行して考えたり吟味したりアイデアを思い浮かべて検討しているのだと思う。その中から一見関係ないと思われるようなある物と別の物を結びつけてみて「はっ!」と新しい物が産まれることが多いのだと思う。もちろんボツになるものも多い。


レポートの下書きを書く時にはワープロを使う。ただ、これは最終段階になった時であって、単に「まとめる」作業なのである。そして文字数カウントが便利なだけなためだ。その前段階は思考は四方八方に分散して立体的である。これをワープロのように上から下に、つまり結論だけを求めて考えていくことは意味がないし、現実的ではない。ワープロ思考では、つまり手っ取り早い結論だけを求めるのではダメなのだ。

そこに至るプロセスには寄り道に思えるような副産物がたくさん出てくるもので、結果的に必要なさそうなものでもそれは必要であって、結論にも厚みを与えてくれるものになる(はずだ)。


優先順位をつけて計画通りにただこなすのならそれは流れ作業である。
日本は子供(将来大人になる一人の人間)の学力に流れ作業のような、予め用意されたたった一つの答えを出す能力を長い間望んでいた。現在も変わってはいないだろう。そんなことのために今勉強するとしたら、それは機械にプログラミングして資料でも何でも検索させて自動で羅列して自動でA4にプリントさせるべきなのだと思う。

今まで生きてきて、そんなにうまく予定通りに人生が運んだことはほとんど経験していない。土台、計画通りなど無理なのだし、そんな人生楽しくも何ともないだろう。

人間はゲロゲロとたくさんの副産物を吐き出しながらうろうろと歩き回っているものじゃないか。余計に吐き出された副産物が不要で、それが効率的でないと言うなら、人間はコンピュータや生産のための機械に憧れていると言うことか。

そんな事が望みならそれはできない事じゃない。(日本なら)そうする選択肢はいくらでもあるはずだ。ただ、「したいか?」と聞かれたらほとんどの人がまっぴらごめんと答えるだろう。(「でも現実にはね」?)

少なくともこうしてレポートを書いている間は....したくないんだ。

2008/03/02

BATAVIAのコロニアル建築

0802Jakarta


ジャカルタ北部コタ地区の写真をGoogleWabアルバムにアップしました。
あまり良い写真ではありませんが雰囲気は感じられるかと思います。
(上の写真をクリックして見てください。)


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Picasaからボタンを押すだけでこんなに簡単に写真公開できるとはびっくり。知識はあったけれど実際にやってみないとわからないものだ。