2007/12/06

祈り



メキシコ料理店で昼を食べた。
27Fの大きな窓からは街が見下ろせる。海上に広げられた埋立地には知らない間に随分と建物が多くなっていた。この埋立地は観光地の目玉であり新しいオフィス街として、市が鳴り物入りで造成したものだ。

ここに出来た最初の建物の一群は港の街のイメージに合わせて帆船の帆の形、そこに連なる靴かのものは海に向って屋上の形を傾斜させたものなどであった。このままの方法論で行けば、それが美しいかどうかは別として統一感ある海に開けたビル群による新しい都市の予測が成り立っていたと思う。

だが今現在、その予測は裏切られているようだ。その後に埋立地に入る企業は少なくなり、市長が大手企業に頼み込んで本社機能を移転させたように聞いている。そんな努力によって長い間空地になっていた土地に次々とビルが建ち始めた。だが時を置いて立ち始めたそのビル達は当初のビル群とはデザイン上何のつながりも持とうとはしていないようだ。

今やそこは元海であった所のようではない。たくさんの屏風のように林立したビル群に遮られて海の痕跡は内陸部からは確認できないようになってしまった。一目でそれとわかるオフィスビル、通信関係企業の建設した大きなアンテナの付いたビル、そしてマンションである。

一目でそれと分かるのは、もちろんどこにでもある四角い、そして蜂の巣状の穴が細かく規則的に並ぶビルに、オフィスビルであれはガラス窓が空を反射させているし、マンションであれば個別空調機とベランダが付いている、所謂見慣れたものだからである。


こう言う風景を眺めるのに飽きたところに、メキシコ料理店の窓の横にある陶器の人形が目に入る。多分安い土産物であろう。だが土産物であってもその形は、きっと何かを表しているのだろう。それが何であるか良くはわからないが全くデタラメに作ったような気はしない。

昔の人はこう言う物を何らかのために作ったのだろう、とだけ想像される。何かのために。何かとは願いであろうか、祈りであろうか、それとももっと別の何かかもしれない。豊かな実りを望んだのか健康であろうか死後の事なのか、我々が神社に賽銭を投げたりするのと同じかどうかはわからない。いずれそう言ったものであろう。

彼らはその願いや祈りに相応しい形を作らんと粘土を捏ねたのだろう。頭の羽根、クチバシ、首に掛けた何か、装飾品。きっと希望に相応しいものであったに違いない。

そこにはきっと、我々がこんなに大きな建物を造るときには気にする事の無い、いや気に掛けることすら忘れた祈りや願いが込められているのであろうか。



そんな事を考えていると、最近聞いた建築家の言葉が何かしら、単に機能についてのみ言っているに過ぎないのでは、と感じてしまうのである。

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