2009/12/15

マンションの一室のような自分

建築物身体論と言うのがある。
建築を1つの身体として捉える考え方であるらしい。


マンションの1室は完全性を備えている。少なくとも完全性を求められる。鉄のドアの内側には全てがある。補給を怠らなければほとんど何も不足はない。そこは自分以外誰も立ち入ることのできない領域である。

この意味でマンションの1室は現代人によく似ている。または、現代人はマンションの1室に似ている、だろうか。

他人は自分の身体や思考に立ち入ることができない。できないと考えられている。現代の成人は完全でなければならないと考えられている。自分でほぼ全ての事ができなければならない。全ての事とは隣人と同じ事ができると言う意味だ。それが完全性の定義である。

完全性を求められる身体は不完全を恥じるし自己の責任を重く感じることになる。全ての負荷を自らの身体に背負ってずっとどこまでも歩かなければならない。そして人生の全ての時間は完全性を求めるための"過程"となる。そこから想像できる未来は果たして"結果"と言う果実を手にした己の姿であろうか。


この姿は全て"完全性"を求める嗜好から来るものだろう。だとすればその完全性とはどう言うものだろう。それは実際のあるべき物なのか、それを信じる事にどんな利点があるのか、強いて言えば幻想ではなかったか。完全性が得られない事に恥じらいを感じなければならないのはどう言うわけなのか。



もしその完全性を諦めてしまったらどうだろう。

少なくとも一生を恥じて生きる必要はないかもしれない。責任を自己の中だけに閉じ込めておく必要はないかもしれない。楽だろうか。ただ、その代わりに手放さなければならないものもあるだろう。そちらの方もまるで想像できない事ではない。自己の内部の不可侵な領域がいくらか、またはかなり多く減ることになる。



完全性を手放すのとそのまま保持しながら精進する事のどちらが良いかは、どちらが快適に生きられるかで判断できると思われるがどうだろう。

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