また東京は赤坂に新しい再開発スポットが出現して、それが例によってテレビ局が入っていることもあって大きく報道されている。少し前に六本木にも2ヶ所、東京駅の目の前にも、汐留にも、そしてもう忘れてしまっているけれどあちらこちらにその手のものが出来ている。
新名所ではあるが、建物物の外見からはそれほど目立つものではないように思う。と言うよりけっこうつまらない。
「ヨーロッパ建築案内3」を眺めているとハンガリーの項にイムレ・マコヴェッツなる建築家が立てたものが幾つか出て来る。こう言う建築家はやっぱり普通じゃない。念が強いと言うのか何かそう言ったものが一見してあるように見える。何かを祈ったり願ったりすると必然的に降りて来る形とでも言うのだろうか。こう言う建築物であれば近所に新名所が出来ても埋もれてしまう可能性は低いだろうと思う。
近所では夜景で有名な香港。香港の九龍から見た香港島の建物郡、あれは絶対に見られる事を意識して造られている。その上隣のライバル会社のビルより風水上絶対有利になるようにも気遣ってデザインされている。あんなに現代的なビルでもやはり念や祈りがあるように感じる。だから何年経ってもわざわざ見に行く人が多いのかも知れない。
その点、東京の新名所は新しいライバルが出来ると必ず埋もれてしまう。埋もれないためには常に新しいイベントを用意して宣伝にお金をかけなければならないだろう。1年経って行ってみるとあの行列したお店が人知れず無くなっているのはよくある事だ。結局、本当の意味で「必要無かったんじゃないの?」と言うことだろう。何事もブームで終わるらしい。うまい事に東京は人口が多いし地方から観光客も来る。だからちょっと宣伝すれば一時的には人が来る。しかし必要なわけではないから忘れられる。
ガウディの造ったサグラダ・ファミリアが建築家の死後でもずっと造り続けられているのは有名な話。あれもやっぱり念だろうか。そういったものを今の東京に求めるとすればどこだろう。そしてこれからそう言う建物はどれだけできるだろうか。最近の建築家が建てたかなり特徴ある建物にしても、どちらかと言えば意匠と構造の間を行き来している風にしか見えず、イムレ・マコヴェッツの作品などに比べたら現代日本の多くの建物はあまりにも禁欲的過ぎるのではないだろうか。
8 件のコメント:
表現したいという欲望は、性欲と同じで皆もっている。
が、その表現が自己満足に終われば、オナニー小僧の数滴と同様、果てて何も残るまい。
建築であろうがなんであろうが、それが評価されないことは、あたかもオナニーで書いた絵を嘲笑されるに等しい。
だから禁欲して 濃いイ表現を出してもらいたいものであるし、自分自身も出さねばならないとは思う。
もっとも単に禁欲して出せるのなら、何日でも何年でも出さずに 我慢するが・・・
東京駅界隈から浜松町あたりまで、まるでブームのように 否 乱交パーティのように繰り広げられるガラスカーテンウォールのビル郡。
そういえば六本木あたりでもパーティは繰り広げられていたっけなあ・・・
少しは、禁欲 自重するべきではないだろうか。
マンキー
東京の建物は多勢の利便さを追求したもので、建物に精神的な拠り所は求めていないでしょう?東京は一極に人口の集中する特異な都市であり東京での建築の有り方は経済を回す為の物、今有る問題を解決する為の物だと言えると思います。建物には理由があり、欧米を崇拝して日本のそれと比べるのは浅はかで有るように感じます。東京は強烈な資本主義競争の中にあるので他の都市とは比べられないと思います。私のスキルは世界的には50円位のレベルかも知れません、しかし東京では800円位は最低でもくれるでしょう。私たちは、この経済の恩恵に守られているのだと考えます。東京では、建築は経済の中で只の道具でしかなく、精神的な拠り所では無いのです。 マンキーさん、自分だったらどういう建物にするのか、どんな都市計画にするのか、絵や模型を造って写真撮って見せてくれませんか?デザイン不要派の私が評論しましょう。。
産業革命を経て、現代社会においては分業化が極度に進んだ。
人と人との間に、マネーが入り込み、マネーなくして社会はなりたたなくなった。
と同時に、人と人の間に心の交流はなくなり、家族すらも分断され、老いた親を見る子もなく、そこには金で雇われた介護者という人種が介在する。
そして殺人が日常茶飯事となっているのが現代社会そして都市の姿だ。
無機質なガラスに包まれた林立するビル郡。
温かみのない街 そして人の関係。
人はいったい何を求めているのだろうか。
どこへ向かおうとしているのか。
現状を甘んじて受けるだけでは、その応えは見つからない。
その答えを探すべく 今私は日々努力しているとだけ申し上げておきましょう。
マンキー
追伸
都市について率直な見解を述べたい
例えば新宿という街
特に 東口
私が 知る限りでは 日本で一番醜く臭く猥雑で 悪気 邪気が溜まった 史上最低最悪のエリアだと思う街です。
まるで、3ヶ月間洗っていない野村監督の猿股の内側にこびりついたチンカスみたいな裂きイカ臭い街です。
それでも それでも それでもなおかつ 有象無象がわんさか群れてくる
正気か?と疑いたくなる
いったいその原理はナンなのか
この連中の脳みその中はいったいナンなのか
そんな連中が きっと東京都いう都市を 田舎から180度乖離した いわば彼らにとっての「都会っぽい都会」にしたてあげているのではと思うのである。
つまり 自然など微塵もない夢の中で描く「都会らしい都会」
しかし 現にそこで生まれ生活している人間にとっては 最低最悪の環境を生み出してもいる。
いやなら地方にいけと 言う者もいるだろうが、地方の人間は都会の人間ほど新参者には寛容ではない。行けるか。
とにかく 田舎者の貧弱なイマジネーションで都会をさらなるゴミ捨て場にするのはよしてもらいたいと願っている。
人間は自然の一部であるから、自然から乖離した都市は それだけで持続可能性はないと思う。
やはり 都会は 都会に住む人間が 都会の頭で作るべきだ。
The city for, of, and by the people living in the city.
言い換えるなら 自然環境を極限まで配慮した都会が 本来あるべき姿である。
「田舎都会」略して「田都」
そのプロットの中で デザインを論ずるべきであると考える。
マンキー
マンキー節ひさしぶりですね。
しかし下ネタは使わなくていいのでは。
女性も見ているんですよ~。
太郎さんリアクションありがとうございます。
今日はなんだか 色々言いたい気分だったのです。
ASU
明日
未来・・・
頑張りましょう!
マンキー
いいねえ。盛り上がっているのが。
デザインと言う言葉の定義ははっきりさせておいた方が良いようです。凝った芸術的意匠を用いるのがデザインと言うものなのか、それとも用に足るのもデザインなのかと言うことです。
私はどっちもだと思います。
何かのために、つまり機能として造る場合でも、もっと個人的発露のために、つまり芸術的な表現として何かを造る場合であってもやはりそこには人の何らかの「思い」はあると思います。それをどう形にするかではないでしょうか。
造ったは良いけれどそれが忘れ去られるようでは当初想定された価値を失います。デザイナーと言うのは単なる自己満足ではない使ってもらう表現が必要ではないのかと思うのです。
異議なし
マンキー
コメントを投稿