唐突に思えるかも知れない記事。
でも卒業研究関連のメモとして。
先日のレモン展に出ていた作品「TSUBAKI」がまだちょっと気になる。
介護保険制度が始まって、今までよりケアセンターのような介護介助のための福祉施設が注目を浴びている。実際に昼間の道路を見ているとデイケアのためにお年寄りを運ぶバンがかなり目立つようになった。その施設の目的は介護や介助であるわけで、その事については確かに必要な人がいてそのサービスを受けるのだから合理的であるように思われる。
それは子供がいて学校がある、病気になる人がいて病院がある、人がいて家があるほどに普通なのかもしれない。だけれども、ちょっと引いたところからそれを見るとちょっと違う事を思わないでもない。
子供がいて学校があるのは納得のいくことではあるが、ただ、子供に学習の機会を与える方法は学校だけではないはずだ。世間には学習塾があり、家庭教師がいて、本があり、図書館もあり、親が教えることもできるし、それを近所のおじさんが代わりにやっても良いし、最近ではインターネットも使える。
なのに学校と言うシステムを維持するのは何故か。
その答えは「効率」に尽きるのではないか。
一人の先生が35人~40人の子供に知識を分け与える効率を我々社会は無意識に選んでいると思うのだ。学校は勉強のためだけじゃなく、社会性を学ぶ役割もあると言われるかも知れないが、それは別に学校以外のシステムを使ってもできることであるから、やはり効率が第一なのだろうと思う。
介護、介助のシステムや施設もカテゴリー分けされた人達を効率よく扱うためのものと考えればやはり学校と同じだろう。
ただ、このようにカテゴリー分けして扱うのは、人間をマス(群れ?)として見る視点からのものである。
試しに自分が介護施設に入る(または入れられる)事を考えたらどうだろうか。若い2級とか1級のヘルパーさんが我々(施設の中では複数の一人として扱われる可能性がある)を前に歌を歌いましょうとけしかけるかも知れない。手の機能を衰えさせないために折り紙を渡すかも知れない。
自分はなぜそれをしなければならないのか、そう思う可能性は無いとは言えない。でも、我々と複数で言う中の一人であれば、幼稚園の時と同じでそれを多分しなければならないだろう。その時それを自分はどう感じるのだろうか。
カテゴリー志向を止めて、一人の人間の人生と言う尺度で考えたらどうか。
産まれて育って成熟して歳を重ねていく途中に仕切りは無い。全て地続きだ。時間とともにいろいろあって、大人になればだいたい自分で何かの決断をして仕事に就いたり移ったりするだろうが、その流れはその場その場で自然な成り行きのものである。
例えば何か一所懸命仕事をやっているとして、ある時歳とって足が衰えたからその仕事のうちの何かがし難くなったとする。しかし、意識の上ではまだ自分には続きがある。会社の定年のようにそこで切るわけにはいかないだろう。
歳をとったからと言うだけで、生活も何も変えて別のカテゴリーに入るのはおかしいのかも知れない、と思う。しかもそれが自分で望んでではなく、家族の都合であったり、制度上のものであったりしてはどうか。人生の時間が続いているのを無理に切って、カテゴリー分けから作られた空間に入れるのは一人の人間にとって苦痛を伴うものではないのだろうか。
建築はそのカテゴリーを許容して作られるのが一般的で、しかも無意識であったりする。TSUBAKIではそれをいとも簡単にやってしまっているように感じられて仕方ないのだ。ケアセンターに子供の施設をつなげると言う複合カテゴリーは「効率」を別に考えた場合、人間の人生にとって正しいことなのだろうか。子供とお年寄りの間の世代もつなげてしまうようなシステムや施設、建物を考えてみることは何故できないのだろうか。
もっと言えば、学校も病院も街も公園も会社も公共施設も図書館も、そう言った無意識(では無いと言われるかも知れないが)に許容されたカテゴリー分けに従って造られるあらゆる建築やその周辺システムは正しいものなのだろうか。もしかしたら、そういった機能はもっと街や都市に溶けてしまっていても良いのではないだろうか。
(もちろん結論は無い。)
5 件のコメント:
まだ 本文は読んでいませんが
おラングさんに提案
農業始めたらどうですか
建築と 農業
たぶん あっていると思いますよ
マンキー 農 マンキー
マンキーさん
それ一緒にやりましょう。
農業政策関連のテーマって建築の人はあまりやらないですよね。
これまで減反政策で個々の農家に金をばら撒く方法ばかりやってきてますが、これで休んでいる田は日本の全部の田の面積の半分ほどになっています。今年もまだ補助金で減反させるために税金を使うのですが、そう言うことに税金を使っているうちに世界の食料事情は悪くなるし、農業は効率良くはならないので転換していかないといけません。
そこで、小さな田圃とともに効率の悪い農業を維持するために税金を使うのはやめて、そこに農業のトヨタ、農業の松下みたいなのを誘致するのです。自動車や家電は日本が一番安いでしょう。でも農産物は一番高い。しかも税金まで投入してる。
どうかな?
とりあえず
身軽な おラングさん
やってみてください
私は 将来は
何らかの形でやります
べつにつきはなすわけじゃないが
わたしのインスピレーションで
たぶん
そういうのにむいてそうだから
たぶん 社畜には むいてないから
まあ 無責任な提案ですがね
とにかく 人生 何通りもあるじゃないですか
私は 私で きっちりと
この社会に問いかけていきますよ
マンキー 道 マンキー
私はサラリーマンやったこともありますけど、社畜だめですね。若い学生のうちの多くは社蓄希望らしいですが、そんなの楽しくないと思うんですけどね。マンキーさん、社会に還元だなんて、言葉はきついのに社会性あるんですね。びっくりだ。
やはり
2:8の論理ですよ
おラングさんは 社畜には
なりたくても なれない
社畜になるものは 否 社畜にしかなれない者は
もう 運命できまっているから
おラングさんは 社畜には絶対になれない
個性という 宝物があるから
だから 絶対に その宝物を
実現させてください
もがいて 苦しんでも
絶対に あきらめないでください
理解者である 奥さんが
いるのですから
私も がんばりますから
マンキー
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