卒業研究関連で何故秋葉原や路上ライブを取材しているのかわからないと言う意見をいただいたので、話は前後するがここにその元になるところをメモしておこう。
建物には機能がある。
その機能分けはその建築物に与えられた名前によって決ってしまうもので、図書館と言ったら建築は図書館と言うタイプの建築物を作るし、学校と言えば学校、コミュニティセンターと言えばコミュニティセンターが作られる。
このような事は普通の事だ。施主が○○○を建ててくれと言えば建築家はそれを建てる。とても機能的な仕組みと言えるものだ。それでその要求にかなうものを造形的に見た目良く提案することもできる事かもしれない。
けれど、もしそれをしてしまうと、建築物は機能を入れる単なる入れ物と言う事になるのではないだろうか。一方で、我々はこの日本と言う社会にいくらか不満があるけれど、それを放っておいて単に入れ物を造りたいだけならそれで良いだろう。
だが、入れ物は自分の人生にとっいつでも快い物ではないと言う実感がある。
子供の頃にある年齢に達すると小学校に入れられる。そこからまた数年経過すると中学校、そして高校、大学、会社、たまに病院、役所、歳をとるとそこを追い出されて今度はまた介護施設であったりと入れ物の間を歩き回らされる。
それは自ら好んで入る場合もあるが、多くは仕方なしであったり、入れられる事もある。人生は途切れることなく流れる川のようなものであるのに、グラスの水は突然他に移される。その突然の瞬間が快いものと感じられる場面は少ない。(多くはそれを仕方ない、当たり前とあきらめてしまってるはず。混雑した通勤電車のように。)
建築はその入れ物を造る行為かも知れないのだ。人間に備わった"分ける"と言う合理的な習性に従って人の人生の時間を切り分ける入れ物を造るのだとしたら、その意味は重大ではないだろうか。
逆を言えば、その方法論は"つなぐ"事にも使えるものではないのか、と言うテーマが浮かんでくる。多くの建築家はそれを目指したし、これまでの多くの卒業研究もそれをテーマとしていると思われた。
根本的には本当に簡単な問題で、建築は人と人を"つなぐ"、人の人生の時間を"つなぐ"事を旨として造ると言う、単にそれだけの事をやれば良いのだろうと思う。機能を造るのはそれ以前の当たり前、あまり議論する事もない位の事ではないか。(それが簡単とは言わないけれど。)
そんなわけで、人のつながりの状態を路上観察させてもらっている。
同じゼミのMさんの発言にこんなものがあった。
「都市に於ける道路とは点と点を結ぶ機能しかなく、単なる移動手段。住宅とは個人個人を集積するだけの箱となっていて、路でつながっている、ただの点。点と点のつながりを、横のつながりに変えられないか。」
こう言う事だけを目標にできれば良いのかと思う。
都市のあいまいな構成の可能性
2 件のコメント:
今ある建築物や空間の中で行われていることを、「ちなぐ」など、ある視点を持って分析するわけですね。
私の卒研のテーマは、通信技術を前提にした建築のあり方、にしたんですが、同じように今あるものをどう分析するか、が必要ですね。
そう言われてちょっと反省。
もともとつながっているものを、"つなぐ"はおかしいですね。"1つのものとして考える"が正しいです。
でも、現状、分離してしまってるなら"つなぐ"なんでしょうか。
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