駅でR25を貰って時々読むが、今回(2008 7.24 No.201)の最後のページの「結論はまた来週(高橋秀実(たかはしひでみね)」は面白かった。そして興味深いものだった。
サブタイトルは「蟹工船はつまらない」と言う題名でが書かれた文章で、その中の一節に以下のようなところがある。(そのまま書き写した文章ではない。)
現在は「勝ち組vs負け組」のように社会を分かりやすく図式化して考える風潮があって、いかにも勝ち組と負け組の「闘い」のようだけれども、闘うつもりなんて無い。なぜなら、その図式にハマると人は図式をなぞりたくなるものだから。蟹工船の登場人物達のように資本家と労働者の図式の中で自分を労働者階級だと認識すると、資本家を倒すことより、自分が労働者階級であることを維持したくなる。負け組も同じで自分が負け組を確認したがるのである。階級さを実感したくて負けるようなものなのだ。
高橋氏は蟹工船を読み返してそう書いているのであるが、これは建築もそうなり兼ねないのではないかと思う。建築の世界には社会の中の問題を建築でどうにかしようと言う考えは当然のようにあって、建築を志す人間ならその解決策を自分なりに考える。格差、孤独死、コミュニケーション、家族、環境、教育などいろいろの問題について、建築の人間も建築とは無関係な生き方をしている人々と同じようにマスコミを通して知るのであり、その解釈等についてはそれほど変わることは無いのでその方向性について考える事も特に変わる事はないだろう。
ただし、もしそれに向けて建築で解決策なりその一部を提案する事になれば、その解決策はその問題を確かに"固定化"してしまう事になるのではないか。
例えば、老人医療や介護の問題において、法制度を整備してそれに向かって急激にその為の施設を充実させたが、逆にその問題を固定化させてしまったとは言えないだろうか。介護を必要とする人が一定割合居て、それを解決するには決った手続きをしてスケジューリングされ、ある基準を満たす"施設"を使うというエコシステムが発生している。
これは世の中に老人問題と言うものがあって、その為には保険料を徴収してそのお金で誰かを雇って施設も作ってと言う当然のような事であるが、そもそも本当にその問題はそう言う問題だったのだろうか。
これまで核家族化が進んできてしまったが、その核家族も歳をとれば身体が衰えたりどこか不自由になったりする人も出てくる。そうなれば孤独に一人でどうにかするしかないが周りに誰も頼る人がいない。もしそう考えるならこれは人が歳をとって介護が必要と言うだけの問題ではなくて、問題はもっと広い社会の在り方の問題と見えなくもない。また、賃金が減少してしまって主婦も働く必要が出てきたために親の面倒を見る時間が取れないのであればそれは雇用や経済動向の問題と見えなくも無い。
建築と言う作業には、注意していないと、分かりやすい図式と解決策をなぞって固定化させてしまう危険があるのではないだろうか。
この春のレモン展にも介護施設を扱ったものがあった。それはより良い介護施設のような志のあるものだったけれども、それはやはり簡単な図式の中での捉え方しかしてなかったのだと思う。それが"より良い"なら良いほど悪い部分を固定化してしまうだろう。こうした捉え方は無関心から来るものか、建築と言う「クライアントが居てその要件に従って造り仕事はそこまで」となる作業の宿命なのか。
2 件のコメント:
お元気そうですね
たむけんの焼肉屋で 食中毒
人生何があるかわかりませんな
オラングさんとは いつか
まじで 海に行きたいなあ
コーヒーでも飲みながら
語りたいなあ
マンキー
その時はよろしく。
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