2008/07/21

「集合住宅デモクラシー」

7月12日の朝日新聞のopinionに「集合住宅デモクラシー」の著者、竹井隆人氏(政治学者)が書いていた。

建築のテーマにおいての「コミュニティー」は、単にコミュニケーションが"可能な場"で終わったり、その中身を問うところまでは行かないものがほとんどだと思う。この記事は建築に対するものではないが、その中身をどう見るかと言う意味では重要であろう。

新聞コラム要約
「コミュニティー」と言う言葉は「仲良し社会」のように用いられていて、それに疑念を挟む人はいないが、この仲良しが強化されるほど異論者をKY として粛清することになる。そうなると人は主体性を失い、同じコミュニティ内の他社を分身と見なすような限定的な社会構造しか作れなくなる。

哲学が古来よりずっと命題としているのは社会(構造)に対する主体性ある自己の実現で、それを解く鍵は「社会をつくる自由」にある。それは他者が自らと異なる存在であることを前提とした社会構成原理を奉ずるものだからだ。

そのためには人々が社会に対する順応を放棄し、KYとならざると得ない状況を作り出す必要がある。著者が提案するのは集合住宅における管理組合と言う「私的政府」でそう言った私的政府に地方自治体から権限委譲するのが良い。この限定的な直接民主制は人民主権のモデルとなるものになるであろう。



「集合住宅デモクラシー」について
ついでに、この本が図書館にあったので読んで見た。
(以下、要約ではないことに注意。)

「コミュニティ」と言うとき、建築では個人の相互交流のような意味でこれを使う。擬似家族的で情念的な交流を意味するものであろう。つまりその言葉の中に、その交流の持続やそれによる人間どうしの関係その他の問題の解決にとって何らかの解答を示してはいないだろう。

確かに建築の形や機能としてはその方向を指し示していると言えないことはないが、それは単にそう言う使い方も"可能"と言うに過ぎないのではないか。

相互交流は個人の選択にゆだねられたままであり、人の入れ替えが激しい中でそれが持続可能であると保障できるか。仮に持続可能であったならばその建築の開発利益を社会として抑制してしまうがそれは許容できるのか。コミュニティの持続を願う上で個人の権利を制限することになる事を可とするか。このような問題に建築には解答が無いままではないのか。

「コミュニティ」と言う言葉に対して理想主義的、楽天的態度ではなかったか。


ラドバーン方式の敷地計画と、先日調べた山本理顕の保田窪団地の構成は良く似ている。
成り立ちは異なるが、住民がどちらを向いて生活しているか、この一角がコミュニティを構成すると考えられる形状をしている点においてとても似ている。

そう思う事に、警戒感を覚えるべきなのだろうと考える。
(簡単に言うと、反省した。)

なぜなら、日本の建築的理解はその形と機能により多くの関心を向けていて、そのやり方で理解しようとしてしまうからだ。ラドバーンのような方法はそこに人間の住むための住区を作る方法論(つまり機能)として理解されている。建築計画の教科書を読んでもそのようなニュアンスで書かれている。

だが、そこにある住民の意思決定システム、社会システム、政治システムとしてのソフト面の機能は解釈されていない。なぜそこに集まって住区を作ることが快適なやり方なのかと言う根本についての理解はなされていないのだ。つまりこれは集合住宅と言うシステム全体を何も理解していないと言うことに繋がる。

日本における集合住宅と言うシステムは高密度に住むという都市の要請、投資者への開発利益の還元のような経済のシステムの中にある。ハワードの田園都市のように開発利益をサービスや施設のために用いることで持続可能な住み方を提案しているのとは根本が違うのだ。

マンションは共有施設を充実していると広告されるが実際の利用はほとんど無く、プライバシーの確保や匿名性の確保の方が実は商品性を高めている事実。そこにコミュニティは無いだろう。私化は進んでも、自立性ある住まい方、自立性ある相互関係は築かれることはないだろう。

つまり建築的には"可能"かも知れないが、それは単に"可能"なだけで何らの影響も与えていない可能性が高いだろう。



「集合住宅デモクラシー」この内容は建築にとって、見たくないものから目を逸らしたままであったと気付かせてくれると言う意味で、相当にショックなものであるはずだ。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

> マンションは共有施設を充実していると
> 広告されるが実際の利用はほとんど無く、
> プライバシーの確保や匿名性の確保の
> 方が実は商品性を高めている事実。

ですね、ほんとに。
コミュニティの可能性を提供しているどころか、商品性を高める錯覚させることでさえ、価値を産んでいない?

人が欲してるのは、毎日買うコーヒーを
ニッコリ、永遠に、売ってくれる女の子と、
イケメンのパスタ屋の兄ちゃん、などの
ささやかな幸せ日常シーン。

コミュニティって、仕事みたいな存在?
つぶす時間など持ち合わさない現代人に
コミュニティとそのための空間は
意味を持つのでしょうか?

この本、図書館でもうすぐreadyです。