卒研ゼミのブログに書いたものの転記。
内容は卒研のテーマについて。こんな記事にコメント入るんだろうか?
設計でお世話意なったS先生には理屈っぽいと言われながら、それ以外の方法が見つからないので、と開き直っています。Mさんのところで近代建築に関するお話も出てきていることですし、ここはちょっとお付き合いください。
現代の建築は往年の巨匠たちが考えていたような理想主義的なやりかたはもうできないだろうと言うことになってきているようですが、人が建築をする以上やはりどこかに理想主義的な考えが入り込むものかも知れません。それは多分建築のと言うより人間の性質から来るものでしょうか。人間は何故か自分の立てない場所に視点を置いて見ることが出来てしまう動物なのですから。
「あそこをこうしたら良いだろう」とどうしても思ってしまいますし、建築の方法論を勉強する上では全ての空間、領域に意図の無い偶然の産物を残す事は罪悪とされています。
今回はそれに対して、「わざわざ何もしない部分を大量に残しちゃえ」と言うコンセプトを立てたいと思っています。
近代建築の巨匠は「自由」を強調していまいしたが、その自由が何故か今は「管理」の入れ物に使われてしまっているようなところもあって、当初の(と言ってももう近代ではないですが)目的からちょっと外れるなあ、と思っています。
私の田舎者の母も花は植えてもその下草は全部雑草扱いで抜いてしまって、花は大変よく咲くのですが土埃がすごくて思いの外楽しめません。私は雑草の間からコオロギが顔を出す程度が好きなので、建築でもできるだけ自由気ままに雑草が生えるのが良いように思います。その雑草が美しく花を咲かせなくても、それはそれで健全な証拠かも知れません。
NYのハーレムのように今まではそこは問題の場所で、壊されるときになってやっと「文化」と言うようなのはどんなものでしょう? 建築はそれを壊すために使われるわけですが、その前に何かしておくのも建築の役目では? 現実を認めてそこがそうであるために何かすると言う態度は取れなかったのでしょうか。デベロッパがお金を投じないとそこに建築が発生しないのだとしたら、いったい建築に何ができるのでしょう???
どうやって形にしていこうかな、と考えているところです。
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