ル・コルビュジエが「住宅は住むための機械である」と言ったその真意は「美を実現するためには機械を見方につけるべきだ」と言うようなものだったと思う。(「それは違う」って言う人もいるだろうけれど。)
フランク・ゲーリー氏はコンピュータを見方につけたらしい。(映画ではコンピュータを「パソコン」と訳していた。カッコ悪い翻訳だ。)それはただの道具に過ぎないけれど、やっぱりアメリカらしいと思わないわけにはいかない。古いオーソライズされたやり方から、とりあえずでも何でも新しいものも使ってみる姿勢、これはやっぱりアメリカらしい。
カリフォルニアやNYのワインがこんなに短時間でフランスに勝るとも劣らない味になったのも人工衛星とコンピュータの技術を使ってみたからだし、新しい経営の理論、新しい装置をそれが有用そうであれば、以前がどうだったからと言う理由で躊躇(ためら)ったりしないのがアメリカ流なのだろう。
もちろんフランク・ゲーリー氏がコンピュータに頼りきっているわけではなくて、氏の本当の凄さと言うか面白さは自分の発想に制限を設けない事らしい。「爆発させた(褒め言葉)」と言う人もいるけれど、それは自らの美観に忠実であること、オーダー(映画ではオーダーを比例と訳していたけれど、建築書では比例とオーダーは分けて書かれる事が多い。)のような他人の考えた美感に頼らないことが産み出しているもののようだ。それに、ダメだとわかったらいつまでも同じアイデアにこだわらない事も。
そう言う意味で、同じようにマシンを見方につけてはいるけれど、ル・コルビュジエの美はルネサンス時代の美でフランク・ゲーリー氏の美は心の中をえぐり出すような現代美術かもしれない。
それなのにビルバオのグッゲンハイム美術館について「新しいのに100年も前からそこにあったかのよう」に感じるのはどうしてだろう。比例より以前の自然の美が人の(フランク・ゲーリー氏の)脳から出てくるからか。
(ル・コルビュジエがルネサンスなんて言ったら笑われるでしょうか。でも彼の美学はそのモチーフを使わないだけで、古典的比例を具現化したものなのだから。)
映画の最後に「彼と同じようにしたってフランク・ゲーリー氏のような建築家にはなれない」と釘を刺してあるのも面白いとおもった。
「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」公式サイト
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