2007/06/15

ル・コルビュジエ その2

ル・コルビュジエについて2冊ほど斜め読みしてみた。


建築の内部空間について、ル・コルビュジエがどう考えているかについての記述。
「建築とは内部のサーキュレーションであるとは言えまいか。無論、単なる機能的な意味ではない。建築とは内部空間におけるサーキュレーションだと言うのは、むしろ情緒的な理由による。建築作品の様々な表情-決して忘れ得ぬ交響曲の美しい調べ-は歩を進めるにつれてその全貌を現し(中略)。内部空間におけるサーキュレーションの質が、生物のように建築を作品としてまとめ上げる。」※1-p38~39

建築家が学ぶべきことについての記述。
(伝承文化を利用するだけに陥ってしまったアカデミズムに対してと言う意味で。)
「自然、意識、そして芸術こそが、我々が意を決して学ぶべき課題のすべてであるとわかったであろう。」※1-p56

ル・コルビュジエは建築を「芸術」に属するものと考えていた。
「機械とともに歩む」必要があるのは、云わばそれが時代の流れであり、美学上の「比例」を表現する手段として「機械を使う」と言う立場の表明である。つまり、ル・コルビュジエはあくまでも「芸術家」と言う建築家なのであって、「技術者」とは一線を画す。

現代建築論のテキストになっている「20世紀建築の空間」(瀬尾文彰-彰国社)の中で、「有機的」と表現されていた。これはミース建築の「均質空間」に対照して言われたもので、確かに区分けされた空間と空間が一つの大きな囲いの中で関係を持つように構築されていると言う意味では「有機的」である。しかし、他の建築における「有機的」とル・コルビュジエのそれが随分違っている印象は拭えない。

それは、簡単な言い方をすればル・コルビュジエが、我々と同じような「生活者」ではなかったからだと思われる。空間と空間の関係はル・コルビュジエが歩く事によって次々と変化する風景の展開におけるものを意味し、映画の場面展開のようなものなのである。多分ル・コルビュジエは床に掃除機をかけなかったであろうし、自分で魚を焼かなかったのではないかと思う。


そう思っていたら、別の資料にこんな記述があった。
「アラブの建築は、足で歩くことによって理解されるものである。歩いて、動いて、やがてその建築の秩序を知ることができる。ところが、これはバロック建築とは全く逆の原理だ。(中略)まさにアーキテクチャル・プロムナードが導入されている。これによってたえず変化していく眺めが展開される。それは予期することができず、時には驚くほど素晴らしい眺めである。」※2-p41

これは東京の西洋美術館のためのアイデアに限定されるのではなくて、ラ・ロッシュ邸(1923年)における「散策斜路(プロムナーディング・ランプ)」にまで遡るそうだから、建築家として活動し始めた割と早いうちに建築家としての態度を決めてしまって、そこから大きく動く事がなかったのではないだろうか。


ル・コルビュジエの設計した家に住んだ感想を書いた資料は無いものだろうか?
できれば自分で一度住んでみたいものだ。



参考書はル・コルビュジエについて盛り沢山の内容で、ここにその概要を書ききれるものではありません。いろいろな意味で資料価値があるものだと思うのですが、ここでは初学者として「ル・コルビュジエってどんな人?」という初歩的なところに絞って読んでみました。


参考書
※1「建築家の講義 ル・コルビュジエ」岸田省吾 丸善
※2「ル・コルビュジエと日本」高橋秀爾(しゅうじ)他 鹿島出版会

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