2007/06/20

建築史のレポートが帰ってきた その1

建築史のレポートが提出後約2週間で帰ってきました。
評価はAでした。とりあえず安心。

安心したのもつかの間、余白には赤字でたくさん書かれています。

第1課題 寝殿造について
寝殿造の寝殿部分を重点に書いた事に対して「平安時代後期になると対屋(たいのや)の縮小、消滅とともに小寝殿がが建てられ二棟廊や待廊の重要性が増すこと。日常生活の場としての常御所が生成され生活様式・家族構成・相続形式など多くの変貌を遂げる」事を書き加えた方がよかったとの講評でした。

本文中に注記いただいた点(その1)
寝殿の特色は次の2点。
(1)敷地の四周に塀を巡らすこと。
(2)コの字またはロの字型に建物を配置する中庭型住宅とすること。
中庭型住宅は中国の都市型住宅、三合院や四合院に起源を持ち、平安時代初期に導入された。また塀を巡らすのは藤原京造営時に貴族に班給された宅地が1町(約120m四方)~4町と広かったためと推測される。

->中国の建築を範とした事は参考書にありましたが、作りについては高床の掘立であるので古代の神殿に用いられた様式ではないかと私は考えます。また、中国の庭を囲んだ様式に寝殿造は似ているのですが、参考資料に当時の中国の人々の暮らし方やどのような身分の人たちの住宅かなどが書かれていませんでしたので、どの程度真似たのか不明だったので私はレポートには書きませんでした。
->小寝殿その他、北側の重要性は増していったのですが、その暮らし方や時代背景、権力関係など、これは建築以外の歴史まで別に調べておく必要があります。これは歴史に興味のある方でないとかなり大変です。

先生の注記(その2)
「平安時代後期になると、寝殿造住宅にさまざまな変化。左右対称を理想としながらどちらかの対屋を欠くなど。寝殿平面には北庇の外に北孫庇を設けて拡張されるが、その原因は母屋や南庇を儀式や行事に使うことが多くなり、生活の場を北側に移したためであろう。北庇と北孫庇は一体となり寝室である塗籠(ぬりごめ)が北庇に入ったり、日常の座である置畳や寝る為の帳台を置くようになる。中世には塗籠の無い寝殿が現れ、母屋が生活の場として使われなくなった事を示す。対屋に代わり小寝殿が建てられ、さらに小御所に変わった。小寝殿が建てられた目的は不明だが、小御所(内裏では東宮御殿と呼ばれた)は世子の為のもの。寝殿造では対屋は娘の為に、小御所は息子のためのもので、家族構成の変化に対応していると考えられる。結婚形態も妻問い婚から婿取り婚h変化してきているが、平安時代の終わり近くになると親が息子のために家を用意し嫁を迎える形式が現れてくる。」

->私が書いたのは家族構成についてこのようなもの。
「行事が行われるとしてもそれはファミリーに近い人々が集まるもので、謂わば親睦会のようなもの。政治的な決断をする会議よりは結束の方が重要と考えられる。だから故人宅に集まるのだし、行われる場所(庭)も中国の四合院と違ってそこは外部に接してはいず、庭であっても一度は建物を横切って入らなければならない裏庭のような意味合いの庭になっている。」

->ハレとケについては下記のように書きました。
「ハレとケは平安後期のこの時代に建築に現れ始めたもので、ハレとケが儀式の予定に多く記されるようになるのもこの頃。ハレとケは北と南といった方位で区別されるのが基本。しつらいによって顕著に表されるのは"屏風(唐絵はハレ、大和絵はケ。)"と服装の色程度。」

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