建築史のレポートを書こうと思った。
「寝殿造、書院造、数奇屋造の3つの様式の中から一つを選び.....」となれば、どうしても資料の多いできるだけ最近の時代を選ぶに限る、と思って調べた。
数奇屋造->お茶文化の影響を受けていて、「杮葺(こけらぶき)のむくり屋根、土庇、色土壁などを特徴とし....」など説明が多いことは多いけれど、形に自由度があり過ぎていっこうに特徴の要点がわからない。->と言うことで却下。
書院造->早くのうちに割りと装飾的で形式的なものになっていった付書院、違棚、押板床などを持つ広間を中心に構成した造り。しかしこれは武士の時代が長すぎて、まあ構法が安定しているとは言え武家にも上層から下層までバリエーションが多いので一時が万事のようには説明し辛いと判明。->なので却下。
寝殿造->書院造が発生する以前の経緯を調べていくと、資料が少ないまでも寝殿造の成立がなんとなく見えてくる事もあって、わからない部分が多いながらもどうにかなりそう。->採用。
寝殿造 -生活との関連から-
(書物に書かれていないアイデアを中心にメモ。通説とは全く異なりますので本当にご注意ください。一部を除き、下に書いた参考資料のどこにもこんな事は書かれていません。)
0.平面の変遷
寝殿以前の住居は掘建て柱で囲まれた長方形を長手方向の途中の間仕切りで2つに分割し、その一方を壁で閉鎖的にした寝室、もう一方を開放的な空間としたものであった。この長方形の周囲にさらに柱を立て巡らせて庇で囲む形状としたものが寝殿となる。後に閉鎖的な寝室部分は次第に小さくなり、やがて固定的な寝室の機能は消滅していく。(完全にハレとケに分化したのは平安末期と考えられる。ケの場所を常御所と呼んだ。)
1.貴族社会はファミリーを中心に成り立っている。
家は母から娘へと相続される。しかし女系と言うことではなく、政治的、社会的に男性が優位となっている。(実女性-名目男性)
これは当時の社会がファミリー関係中心であった事によると考えられる。家で生まれた息子を外に出して別の家に入れた方が他の家族を自分のファミリーにするのには有利である。もし現在と同じように女性を嫁に出すと女性が出て行ってしまうだけで縁としては弱く、ファミリーは増えない。
また一夫一婦制で無いこともあり、男性が1軒の家を持つよりは男性が外で別の家の女性に子供を産ませ、それが複数である方がファミリーの成員を増やし易いというメリットがあるとも考えられる。
この後の武士社会では武力の大きさ=政治勢力となる。その為、ファミリーを増やすよりも腕力のある他人を多数集めてグループ経営した方が有利である。よって貴族社会とは違う上下関係重視、名実ともに男性が家を継承する形に変化していったのではないだろうか。
武士の時代の争い方は「戦争」であるが貴族の時代には「暗殺」が多い。これは武士が腕力を基礎とする徒党を組んでいるのに対して、貴族はファミリーが基本であった為に、権力闘争の場においても現在で言う親族殺人の要素が強いと解釈できる。
2.南面の庭と寝殿
敷地の南側では多くの儀式が行われた。これはしきたりや仏教儀式などの定期的に行われるものが多く、実際に政治的な決議を行う等は少ない。現在的視点で見れば、これらは仲間同士の交流会、つまりお遊びに近いものである。
そう言った交流会を行うための場所が南面の庭と寝殿である。
こうしてお互いの交流とレジャーを重視するのは、上に述べたファミリーを中心に据えた社会構造によるものと考えられる。
3.庭と寝殿へのアクセス
庭と寝殿に外部から入るには中間廊の途中に設けられた中門を通らねばならない。これは庭にアクセスするだけでも建物内部を通らねばならないと言う事で、完全に外に面した空間とは言えない。つまり主にファミリー向けの空間であると考えられる。
4.寝殿の北側
初期の寝殿は寝所でありプライベート空間であったが、次第にプライベート空間は敷地の北側に後退し、寝殿は儀式の場の北庇以北となった。北庇、北孫庇は来客に料理を用意するユーティリティとしても使用された。
寝殿以北は生活の為の場であったと考えられるが、どこまで敷地内だけで自己充足可能であったかは不明。水洗トイレ(穴の底に水が流れる)はあったらしいが、それ以外の事、調理場の様子、食料保存、買い物には誰が行くかなどはよくわからない。
5.池の存在
平城京、平安京などは中国型の四角形に整った都市を模して計画されたために、どうしてもある程度まとまった広さの平地が必要であったと考えられる。日本でその条件が満たせる場所は盆地が多い。そのために夏は暑く冬は寒い。冬については着衣によって凌ぐ事が可能であるが夏の暑さは区画整理され建築物ばかりの都市では風通しだけでは凌ぎ難い。よって敷地内への池の設置は見た目の良さに加えて夏の暑さを凌ぐのに適していると考えられる。
6.「家族」の概念
特に寝殿造が設営された初期には男性の通い婚が通常であり、後期においては男性を迎え入れる形で婚姻が成立していた。現在の「家族」(夫婦+子、または爺婆+夫婦+子)の概念が相当異なっていた可能性がある。(この部分は不明。)
7.晴と褻(ハレとケ)
晴と褻が完全に分化したのは平安末期と考えられる。
晴と褻が公的な文書に多く登場するのもこの頃。
(東三条殿では寝殿東北の御車寄廊に常御所があった。1157年)
寝殿造の「ハレとケ」は基本的には敷地内の構成から成っている。
ハレは儀式の行われる南部分、寝殿と庭。
ケは寝殿の北部分である。
家具による代表的しつらいとしては、屏風がある。
屏風絵は、その絵の前に広がる空間の性格を視覚的にしめすという役割を持っている。
唐絵屏風はそれが置かれる事でハレの空間であることを示し、やまと絵屏風は日常、私的なケの空間であることを示す。
その他にハレとケを分けるものは服装とその色であった。大陸文化の影響を受けた、全ての物事の進化と後退の輪廻を五つの形に集約して説く「五行思想」に由来する考え方である。
参考資料
「対訳 日本人のすまい」平井聖 市ヶ谷出版社
「図説 日本住宅の歴史」平井聖 学芸出版社
「日本住宅の空間学」宇杉和夫 理工図書
「日本建築史図集」日本建築学会 彰国社
「日本の住宅」吉田鉄郎 鹿島出版会
「日本中世住宅の研究[新訂]」川上貢 中央公論美術出版
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