建築設計Ⅲ-1 |
今日で終了したので写真UP。(上の写真をクリック。)
「こんな図書館なんて、独立したまともな図書館にはなり得ないだろう!」と前回書いたが、その根拠はまず与件にある蔵書の少なさである。
コミュニティ施設は利用圏域が狭く、利用者はその地域の人に限定されているとは言え、年齢性別その他バラバラで共通点はその周辺に居住していることだけである。そこに一般的に必要とされる交流施設を作って、本当に"交流"などが行われるものであるか、私は懐疑的だ。
そこに数万冊の図書館、管理者がたったの5名程度では収蔵する図書を適切に選ばれるか、更新されるかと考えると、ここは昼寝に使われる、雑誌を見に来る、小さな子供に絵本を与える、程度のものとしか考えられない。もし本が読みたいなら駅前の書店に行くだろうし、静かな場所で勉強したいならもっと大きな図書館まで足を伸ばすのでなければ喫茶店を選ぶだろう。
実際に自分もこの規模の一般的な公共施設では予約図書の受け渡ししかしようと思わない。
交流施設部分に関しても、今まで見てきたこうした施設では小グループが集まって集会、発表会、勉強会などを開くために使ってはいるが、それはその機能があるから使うだけで、そこで住民どうしの交流が"広がった"と言う感じはしない。小グループ内ではすでにその中で交流は行われていて、施設でさらに広がるわけではないだろう。
ならば交流施設は単なる貸し部屋、貸しホールと言う機能に過ぎないのである。
その現状を考えて設計するのであれば、稼働率は低いのを許容することにして単に機能だけを並べた"複合"施設とするだけで良い。ならば、これは建築家のすべき仕事ではないだろう。間取りができれば誰でもできる。
この設計にあたって、与件を見た最初から役所の"予算消化"であることを覚悟すべきなのだと考えた。
7 件のコメント:
昨日は、お疲れ様でした。
スポーツも、芸術も、そして図書館も、
結局、社会や国家や経済から切り離しては、存在できるわけではないので、この国のもつ社会の仕組みが建築与件を決めるのですね。
ただ、そこで矛盾に歯向かったり、強く改善を求めたりすること自体を建築表現する必要はないのではないかと思います。
私も図書館はカフェであるべきだと考えています。アメリカではバーンズアンドノーブルという本屋が「立ち読み、座り読み結構。中にはカフェと座るところで一杯です。」というコンセプトで急拡大しましたが、それが図書利用の本質なわけです。
だから、今回orang-uさんは問題点の建築的解決を形にしてみたようですが、それらは言葉に任せて、私はorang-uさんの造る図書館複合を見たかった、と正直思いました。
まあ、先生の1日目のコメントが、あれだったし、そういう社会的な意義を考えなくてはダメよ、という課題ではありましたね。
建築も、表現の一形態で、表現者の伝えたいメッセージや哲学が問われているのだと痛感します。
単なる間取りで、地球のゴミを増やすか、時代を突き動かすようなメッセージをこめることができるかは、やはり「設計士」ではない「建築家」という表現者に、期待していることの一つのような気がします。
今回は図書館とコミュニティセンターの複合施設でしたが、自分としてはもっともっと社会について、未来について知識、思慮全てのものが足りない、恥ずかしいと考えさせられました。
到底オリジナリティなど遠い彼岸にあり、愕然とします。
まあ仕方がないですがね。
それにしてもプレゼンは本当に難しいものですね。
ではまた。
雲竜
コメントありがとうございます。
ちんさん
結局デザインもそこに付随する意味もやると決めたならば出るところは一緒で、私にはこの時点でこの程度しかできないのですよ。これを除いて私のできることは多分一つもないと思うのです。
デザインだけを人格から切り離して行うと言うのは私には不可能で、優れた技能や表現によるデザインであれば世の中には優れたデザイナーの方々が五万といます。私の出した稚拙なものでは門前払いですって。
雲竜さん
人にはその個人によっていろいろな解決方法を持っていると思うのです。作品を見ていると美的、構造的、社会的といろいろな方法論をもってそれをされているのがわかります。雲竜さんには私とはまったく違う見方があるのでそれを進めていかれれば良いのだと思います。
私は、美的センスでこの課題を解決することを、その才能の無さから、鼻から放棄ししまっているのですよ。だから装飾も何も作れません。いつもそれができる方がうらやましいと思います。
誰にも足りていない部分はありますが、それを補って余りあるものもあると、多くの作品から感じられます。どんなやり方でもそれが完成できたらすばらしいですね。
なるほどそうですね。
いろいろな角度から建築を見ていく。
これは大事な考え方だと同感します。
ただ、表現という行為の定義も結構幅広いですから、美的センスに関しての表現のみならず、機能やこだわりを表現する場合も含むと思うので、結局表現者の哲学や思想が表出されたものが建築を含む表現ともいえるのではないかと思います。
ではまた
雲竜
このコメントにはご返事いただけないようで。
何がいいたいかというと、要するに世の中について有益な何かをあらゆる角度から思索して、自分なりの表現ができればと考えているということです。
とにかく偉そうなことばかり言っていますが、レポートを提出せねば・・・
ではまた
雲竜
すみません。
コメント追加しなかったのは問題なく雲竜さんのご意見に同意しているからに他なりません。
また、私があまりコメント欄で何か言い過ぎると他の方が入る隙が少なくなりますので、待っている場合もありまして、そうしながら時が移ってしまう不覚もいつもの事とお許しください。
>世の中について有益な何かをあらゆる角度から思索して...
そのような良心的な心が何をするにも人間として必要なのだと思います。
コメントありがとうございます。
貴兄のご意見 生き方には共感するところが多々あります。
このブログを見ている者の仲に、そのように思っているものはきっと多いと思います。
ではまた
雲竜
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