とりあえず最初に提出するレポートに関係のあるテキストにざっと目を通す事にし、到着したばかりの建築計画学のテキスト「建築計画学を学ぶ(理工図書)に目を通す。
「第5章 文化と建築」のところで暗礁に乗り上げる。35章293ページあるテキストのまだたった32ページのところだ。
「「住宅は住むための機械である」というル・コルビュジェの言葉は、美しく響きもするが悲しくもある。」でこの章は始まる。続けて「そこには、言葉どおりに実践された8畳間ほどのカプ・マルタン小屋と両親のために建てた小さな家が同居している。」
この文の意味、分かる?
どこが「美しく響く」のか、どうして「悲しい」のか、なぜ「2つの建築物が同居」しているのか?
建築以前に日本語として全然意味がわからない。
その後を読んで、住まいを機械のように合理的で経済的なものとして追求して行くと、それを使う人々の住まいのイメージとはズレてしまいこの「住むための機械」と言う言葉が受け入れられないものであったために「悲しい」と表現したのかと想像できた。
しかし、もしそうならその悲哀はル・コルビュジェが受け止めるべきものであって、第三者がこの工学書で言うような事ではないように思う。もしそこに触れるとすれば「悲しい」のでなくて「間違っている」とか「住む人々の思いを考慮する視点に欠ける」などとすべきでないだろうか。
だた、この「住むための機械」と言う言葉はその後の建築学の中ではどう扱われているのだろうか。これは今後どこかで分かるかもしれない。ル・コルビュジェほどの有名人ならきっとどこかで誰かが議論の対象にしているはずだから。
2 件のコメント:
こちらのブログ、とても興味深く拝読しています。テキストの日本語は、さっぱりわかりませんでした。その本に不似合いな表現(内容)と、私はある話題の環境関係本で感じました。それにしても、住むための機械…という言葉にもひっかかります。…。機械…。まったくの素人ですが、こちらで聴講させていただくことを楽しみに、またお邪魔させていただきます。
「住むための機械」と言う言葉は20世紀初頭に言われたのだそうです。「無駄なスペースは切り詰めて、生活に最低限必要な空間だけを機能的に組み合わせたものが住宅である」と解説されています。また時代はまさに機械躍進の時代でその合理性、生産性を表す言葉だったようにも書かれています。(もちろん私の解釈ではありませんが。)
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