新ブログ「もんく+a : reloaded」へ移行し、建築仲間Team OBASUの活動記録を投稿します。
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(2021年~)
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コンテンツ概要
2009~2013年:建築物と建築についての雑記です。
2007~2009年:大学の課題に関するノートです。
2009/08/19
風水により
このKL中心部の比較的新しい大規模ショッピングモール"Pavilion"の前にガラス製の噴水が置かれた。夜になると内側から光を発するので色が変化して見えるもの。ただこのショッピングモールのデザインとどう調和するかと言う問題は考えられなかったようで、どうみてもグロテスクだ。
もう一つ、言われなければわからないのは、これが風水によるものだと言う事。風水では水は富を集める力があるとされているそうだ。そして噴水を外側から内側に噴射するのは富、つまりお金が外側へこぼれ落ちないようにと言う意味である。手前の赤い(これもお金に関係ある色であるのが同じ意図によるものかどうかは知らないが、)看板には、コインを投げ入れろと書かれている。「さあ、みなさんここにお金をたくさん落としていってくださいな」と言うように感じられて興醒めしてしまうような感じがしないでもない。日本にも招き猫と言うのがあるが、似たような発想なのだろうか。
いつでも建築には費用がかかるのであるから、どうしても費用対効果がクローズアップされるのは仕方ないのかも知れない。それは建築に限らず教育でもキャリアでも何でも結局投資した以上に儲かるためにする事で、それがすなわち成功と言うような言葉で表現されるものであろう。そのため世の中には引っ張る力ばかりが多く働いているように感じられる。豊かになればなるほど誰もが自分の方に富を引っ張り込もうとして動く。
幸いにして我々日本人はそう言う時代をもうずっと以前から経験してきている。自分の方に引っ張るための事は何でもかんでもいろいろやった。エコノミックアニマルと言われた事もあった。そうした過度の引力による破綻も経験している。しかし、それで得られたものは何だったかと言われると心許ない少しの答えが出るだけだ。
そろそろ引力ばかり発生していた事に反省してその逆を行ってみる時期ではないかと思う。思い切り外に対して噴射する噴水を置く時代ではないのだろうか。
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8 件のコメント:
お久しぶりです
わしです
マンキーです
まだそっちにおられたんですなあ
すばらしいことです
日本は うっすら暑さも和らいできました
そっちはやはり暑いですか
なんか年をとるにしたがい 暑さには弱くなりますな
わたしも できれば 来年あたり
アジアに行きたいと思いますよ
もちろんショートトリップにすぎませんがね
ところでまだよくは拝見していませんが
いろいろな顔を持っていますな
アジアは
それにしても高層建築は味気ないようですね
日本よりはましなようですが
ではまた!
マンキー 亜 マンキー
orang-uさん、こんにちは。
前回の幕の内弁当の記事が大変興味深かったのでコメントさせて頂きます。
日本の幕の内弁当的建築の原因は、日本の建築士試験の弊害によるものではないかとヒステリックに考えてしまいました。
しかし、幕の内弁当について改めて考えて見ると、幕の内弁当は、ただ単純に栄養を摂取する為の弁当ではなく、彩りや違った味を楽しむ箸休めなどの食欲を増進させる工夫がされており、栄養を摂取するだけの弁当とは、ひとつ上の次元で造られたものではないかと思うのです。
日本の近代建築、例えば、象設計集団の大竹氏の作品を見ると、軸線やグリットに異様と思えるこだわりを持っています。
このこだわりは、今風のゲームソフト的感覚で言えば、裏技や隠れキャラみたいに、建築を見る人へのナゾかけをします。
日本とマレーシアの建築文化のどちらが上かを論ずることは出来ませんが、日本の建築家達は、幕の内弁当的建築の発想を危惧しており、充分な検討をしているのではないかと考えます。
グリットプランや軸線の単純な機能デザインではなく、例えば、プログラムを重層するなど、建築による空間の多様性を試みたりしています。
こじつけかもしれませんが、マレーシアの弁当と日本の重層する幕の内弁当は、多様性のハプニングを求める点では同じ視点ではないかと思いました。
なんか
しかと
これは戦略ですか
つまり
わしらの真摯な意見には答えず
ある意味
じこまんな投稿を続け
カリスマ性を得て
そして
星になる・・・
そんなあらすじが
透けて見えますよ
冗談はさておき
いやあ
それにしても
早く景気良くならんかなあ
さすれば
わしも
オラングさんのように
またバブル時代のように
アジア放浪でもかますのになあ
では
ごきげんよろしくおまんにゃは
マンキー
マンキーさん
私は何になろうとか、どう見られようなんて、そんな事どうでも良いと思います。自分がどう見られるか、と言うことは多分多くの他人には何の関係もないし興味も持たれることが無いと思うのです。そんなこと考える暇があったら何か一つでも作品を発表してみるとか、他にやることはいろいろあるのかなと思っています。でもまだ私はこの歳で何もやってない。あなたは?
せんたろーさん
以前にルイス・カーンを研究したときに彼が繋がりについてよく考えているのですが、分割については考えていないようだったのです。(世間ではそう見ない。)でも彼の中でのとても自然な前提として分けているのがわかります。分けた後に繋げる。そして人間の自然な状態を創り出そうとする意図があるように感じました。
公園と空き地みたいに、同じように事もがそこで遊んでいても公園と空き地はやっぱり違う。どっちが良い悪いではないのですが、何も考えないと子供の遊び場として公園を作ってしまう、その言葉にならない志向は何なんだろうと思うのです。それが建築から見たら当然と言うことも無いように感じるのです。遊び場としてみたら、公園には意図があるけれど空き地にはそれが無いと思うのです。人には放っておいても何かできる能力がもっとあると考えたらやり方が変わってくるのかなと....
なるほど
これは手厳しいご意見
まさにその通りですね
創作者としての自覚に満ち
そしてそれを実行する
まさに
わたしがオラングさんに惹かれるのは
そこだなあと感じますよ
人がどうのこうと
とにかく己を貫く
その貪欲なまでの
DNA力
ご立派です
とかいいつつ
自分はと言われて
うーむ
そこなんですよな
自分ができていないから
それを実行している
オラングさんに嫉妬してしまう
ダメな男です
いかんいかん
これではいかんのです
とりあえず
ご返事ありがとうございました
ぼくちんもさみしかったのです
では私も
真のクリエイターを目指して
頑張ります
ではまた!
すぐまた来るでよ!
マンキー
もう来たでよ
そうそういい忘れました
ちょっと失礼なコメントをして
すみませんでした
今後 もう少し真摯に
オラングさんとともに
創造へ向けて 考えていきたいと
そう思っています。
オラングさん
健康第一でお互いいきましょう!
いつかきっと会えるよね
by
マンキー 友 マンキー
追伸
ともにと言いましたが
もちろん
創造は個人でするものですから
ぼくちん別に
さみしくなんかないもん
しつこくしてごめんね
では
マンキーより
モノを作る時に、作る人はそれは誰を対象にモノを作るのでしょうか?
建築家には、時として、オレの手の中で遊べみたいなエゴを感じることがあります。
そのエゴの力に魅力を感じてしまうこともありますが、建築は、完成した時点で、建築家の手を離れるべきれはないかと思うのです。
外構なんかでも設計者が意図しないけもの道的導線が出来てしまいます。
建築家は、そんな事も許容するような作品を作るべきでなないかと思ったりします。
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