建築を考えるときに、何かひとまとまりの「塊(かたまり)」を造るのが一般のやり方であると思う。しかし、日本における都市のでき方において、その方式は成功した試しが無いのが事実である。(古い議論)
日本にける都市のでき方で一般に言われるのは、土地所有区分に従ったその内部における(経済活動などの)自由によってランダムに造られた結果が都市となると言う事である。この場合(都市を地理的に論ずる場合)、その最もミクロな単位は通常、建物や区画と言う単位である。
建築的にはそこで留まっても良いのであるが、ここで考えるのは、そのもっと微細レベルの「個人」にもその方式を当てはめることができるのではないかと言う事。
個人に関しても自由と言うのはあって(誰も否定しない事だろうか?)、何をするにも自由であると思いたいし、そうして生きてると言いたいところであるが、建築的に言えば、本当にそうなのか?
学校と言う制度に対する建築を考えた時に、一般には年齢毎に分類された集団に人間は入れられ、その集団用に用意された箱(建物や部屋)に入れられる。最近できた高齢者に関する各制度はそれに対応する各施設を出現させ、そこに人(一定の条件によって分類された人)は入れられる。入れられる事が単に拘束のような悪い事を意味するわけではないが、固定される事は確かである。会社にしても、家にしても、人は社会制度や建物に固定される。
これは誰も疑問を差し挟む事はないのであるが、自由なのか、そうでないのかは微妙だ。
と言うわけで、微細なものが自由に振舞っているうちに大きな何かになると言う、そう言う方式で何かできないかと考えた。
そこで出てくるのが「細胞性粘菌」である。(飛躍してわからないだろうと思う。)
簡単に言えば、小さな1つの粘菌は独立して生きられる。これは自由。だが、寄り集まるとあたかも1つの巨大生物のように振舞う。そして結実(菌の世界では結実とは言わない)までしてしまう。
こう言う方式を人間個人のレベルに取り入れて都市を造る。(わかりにくい表現だ。)ミクロの自由が都市になる方向を考えようと思う。
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