2008/09/30

印刷を待つ間に



まったく、困ったものだ。
昨日考えたモデルを作ってみようとCADで作図し始めたところ、自由な曲線で囲まれたスラブはスプライン線からは作れない事が判明。仕方なくポリラインに変換しようとしたらそれもできない。さらに荒く引いたポリラインを細かく分割して曲線にするオプションを適用したら、何故か他の線やスラブと交わることができないポリラインになってしまってスラブを構成する領域指定ができなくなった。多分バグだろう。

それでとりあえずカクカクの線で良しとして、他の要素を描き足したらこれがまた重い。このままではCADで完全な図面なんて描けないだろう。仕方ないので簡易模型用に1/2000の印刷をしたらまたこれが何故か時間がかかる。どうなっているんだろう。

ところで上の絵は、誕生日などにもらうポップアップカードの原理を用いて作ってみたモデル。後で本当にポップアップカード風に模型を作ってみる予定。


追加
AutoCAD Architecture 2008が、あまりにバグっぽい動きをするので修正ファイルがあるかと思いAutodeskのサイトを探してみたらやはりあった。いくつか適用してみたが、見た目に絶対おかしいところが直るわけではなかったようだ。もっと深刻なバグがあったのだろう。毎年新しいバージョンで新しい機能を付けるのも大切かもしれないが、もっと軽くて安定したものにしてほしいものだ。


追加
さっき印刷した紙を元に簡単な模型を1/200で作ってみた。
折り目を付けるところが小さすぎてへなへなになった。この上の面にところどころビルの頭が飛び出してくることになる。

2008/09/29

失敗作



CADにマス要素を多く作ったために重くて何も調整できなくなり断念した失敗作。
別の描き方でまた再挑戦してみよう。

建築計画学Ⅱの試験結果

建築計画学Ⅱの試験結果到着。
Aだった。

この試験も受けたのはずっと前の事かと思っていたら、今月受けたばかりだった。ずいぶん時間が経過したような気がする。

2008/09/28

卒研中間報告の下書





まだ必要な図などが無い状態だが、下書きしてみた。
今までいろいろな内容を盛り込んでいたところ、説明し易くするためにわざと省いてテーマを絞って書いている。

2008/09/26

流れからモジュール化



流れからモジュールを作ろうと試みたが、来年ビルが立て替えられる可能性があることを考えるとダメか。

2008/09/24

模型その後 5



粘菌からモジュール構成を試してみた。(上の2つ)
網のように見えるのは右下の六角形モジュールがすこしづつ高さを変えながら接続されて並んでいるのを省略して描いたもの。全部作っていると時間が無いため。これは天井でなくて床。透明なところも白いところも全部床。

マクロレベルの山谷はなだらかに繋がるばかりでなく、突然変異のように突き出して塔になっても良い。粘菌のようにモジュールが集まることだけで全体として何かが起こるような事がマクロ的な形状で表される。もっと大胆な形に変化しても良いだろう。

ミクロレベルではゴツゴツした淀みがたくさん作られる。これは人のいる場所の近傍に淀みが必要だと考えるから。


左下の写真はもっとマバラにモジュールを浮かべてみたところ。ボツ。

景観デザイン論の試験結果

景観デザイン論の試験の結果が返ってきた。
「A」だった。

もう受けてしまった試験のことなど忘れていたところだ。

建築計画学Ⅱの試験結果と、建築造形Ⅲの提出課題は未だ返ってきていない事を思い出した。

2008/09/23

ムカルナス

ムカルナス:回教建築の鍾乳石状装飾 -高橋士郎

小さく独立したユニットが組織化した構造の例。
ムカルナスはイスラム建築に使われる幾何学模様で、タイル張りのように平面上に構成されるだけでなく立体となることもできる。ドーム(凹)でもバルコニー(凸)でもどちらにも応用が可能。

2008/09/22

模型その後 4


上は右上の平面のようにした場合に、どのように見えるかと言う実験。
何か連想するだろうか。


上空に何か置かれるとビルで囲まれた空間がどのように見えるかと言う実験。
囲まれ感が出て庭のように見える。

2008/09/21

ミクロの自由を求めて その2


上は細胞性粘菌の移動体の構成原理を応用して建築物に考えた概念図。1つの細胞の大きさを会話が成り立つであろう距離の社会距離(「かくれた次元」エドワード・ホール)として考えてみた。これは仮に絵にしたもので、実際にどう言うルールで作るかは別途考える。


上は細胞性粘菌の簡単な概念図。

粘菌と言っても、多核単細胞の真正粘菌と単核多細胞の細胞性粘菌とは異なる種である。
今回は細胞性粘菌の方を採用している。多細胞が組織化する事の方が使えると考えられたため。

参考資料
「細胞性粘菌のサバイバル」漆原秀子 サイエンス社
「粘菌の生態学」前田みね子/前田靖男 東京大学出版会
「粘菌の生態学」J・M・アシュウォース/J・ディー 朝倉書店
「粘菌 ~驚くべき生命力の謎~」松本淳 誠文堂新光社

ミクロの自由を求めて

建築を考えるときに、何かひとまとまりの「塊(かたまり)」を造るのが一般のやり方であると思う。しかし、日本における都市のでき方において、その方式は成功した試しが無いのが事実である。(古い議論)

日本にける都市のでき方で一般に言われるのは、土地所有区分に従ったその内部における(経済活動などの)自由によってランダムに造られた結果が都市となると言う事である。この場合(都市を地理的に論ずる場合)、その最もミクロな単位は通常、建物や区画と言う単位である。

建築的にはそこで留まっても良いのであるが、ここで考えるのは、そのもっと微細レベルの「個人」にもその方式を当てはめることができるのではないかと言う事。



個人に関しても自由と言うのはあって(誰も否定しない事だろうか?)、何をするにも自由であると思いたいし、そうして生きてると言いたいところであるが、建築的に言えば、本当にそうなのか?


学校と言う制度に対する建築を考えた時に、一般には年齢毎に分類された集団に人間は入れられ、その集団用に用意された箱(建物や部屋)に入れられる。最近できた高齢者に関する各制度はそれに対応する各施設を出現させ、そこに人(一定の条件によって分類された人)は入れられる。入れられる事が単に拘束のような悪い事を意味するわけではないが、固定される事は確かである。会社にしても、家にしても、人は社会制度や建物に固定される。

これは誰も疑問を差し挟む事はないのであるが、自由なのか、そうでないのかは微妙だ。


と言うわけで、微細なものが自由に振舞っているうちに大きな何かになると言う、そう言う方式で何かできないかと考えた。



そこで出てくるのが「細胞性粘菌」である。(飛躍してわからないだろうと思う。)

簡単に言えば、小さな1つの粘菌は独立して生きられる。これは自由。だが、寄り集まるとあたかも1つの巨大生物のように振舞う。そして結実(菌の世界では結実とは言わない)までしてしまう。

こう言う方式を人間個人のレベルに取り入れて都市を造る。(わかりにくい表現だ。)ミクロの自由が都市になる方向を考えようと思う。

2008/09/19

模型その後 3



とりあえず形だけはできた。
テクスチャを貼る前にこの状態でスタディに取り掛かることにしよう。

2008/09/18

模型その後 2



だんだん街になってきた。全部できるまでもう少しだ。
通りを歩いているとわからないが、不整形の建物が多い。角が直角の建物がこんなに少ないとは思わなかった。そう言う部分にいろいろな仕組みや意図などが感じられるようで面白いものだ。

2008/09/17

模型その後



だんだん街になってきたがこれで約半分だ。
見慣れた街をいつもとは違う角度で見るとまた違う考えが浮かんでくる。頭のなかで想像しているよりは具体性が出てきてずっと良い。早く仕上げなければ。

2008/09/16

吉村順三の山荘について

少し前に造った吉村順三の山荘模型では、ネットで調べた写真を参照したが、下のURLは探せなかった。

吉村順三 記念ギャラリー

何と、こんな山の中の起伏ある土地に建てられていたとは思いもよらず。なぜなら資料写真には建物本体しか写っていなかったから。それに軽井沢の別荘地と思っていたからそれほど起伏の無い平坦な土地を想像していたのだ。この記念ギャラリーにある写真を見て、屋根の角度やベランダの存在について初めて納得することができた。

2008/09/14

視点

建築における遠像と近像 -黒田正巳
(ページが表示されたら「本文を読む・探す」の下をクリック)

建築ではその視点の位置によって見え方は変わる。そんなのは当たり前のこと過ぎて、鈍感になってしまうものだ。見え方が変わるのはわかっているが、どう変わるのかについて説明するのは難しいもの。

この論文は、論文の要旨とは別にそれを思い出させてくれる。移動することで何が見えていたか、再度考え直してみようと思う。

2008/09/13

模型をつくりながら


卒業制作の模型をつくり始めた。
始めたと言っても、敷地が広く既存建築物が多いので、国土地理院の地図をラスタ画像にエクスポートしたものをCAD上で外形線だけにしてA1(より長尺)x2枚にプリントしたところまででかなりの時間がかかった。

ラスタ画像を自動でベクター画像にできるソフトもオンラインサービスもあったが、画像サイズが馬鹿が付くほど大きいためかできなくて仕方なくCADによる手動作業となってしまった。

夜なのでその敷地に乗せる物のアイデアを練っているが、どうにも思い浮かばない。こう言う時になると自分の身体がストレスに弱いのだとわかる。目が乾いてきて全身に疲れを感じる。昔からそんなものだとあきらめるしか無いが。

模型は今のところ900x1000サイズの予定。明日、土台となる発泡スチロール厚板を買いに行こう。ホームセンターは朝9時開店だ。


ところで、模型の自分が制作しない部分(既存建物)の表現方法はだいたい決まってきた。川崎の猥雑(わいざつ)さを表すのが重要だ。いくらスタディ模型でも、スチレンボードの白いままではどうしても川崎にはならないだろう。最も、最後まで「美しいもの」など作るつもりは全く無い。美しくて行儀が良くて整っていてまとまりのあるものなんて無理。それに作った時から類型されたタイプの名前で呼ばれるようなのもダメ。


造形上のコンセプトは他人の作ったものを主人公にする、と言うような事。敷地に自分の作ったものだけ置いて目立つのは当たり前。何かをどうにかして、他人の作った、それも今まで評価されたり見られたりしなかったものを主人公にすること。どちらかと言えば景観デザインのやり方に近いかも知れない。

しかし、その方法が思いつかない。

2008/09/09

最後のスクーリング申し込み

最後のスクーリングの申し込みをした。

10月18日~26日(東京サテライト) 建築の世界
受講料15000円+手数料120円+80円切手x2枚
50円切手は持っていたしコピーは自前(スキャナ)=0円

これでスクーリングも最後の1科目。
そんな事より、卒研、卒研だ!

特別なPDF作成ツール

PDFCreator -SURCEFORGE.NET

PrimoPDFなどと同じでPDF仮想プリンタとしてインストールされる。
Officeやお絵描きアプリケーションから下記のファイルへの変換が可能。

(ver0.9.5)
PDF -PDF/A(1b),PDF/X (X-3:2002, X-3:2003 and X-4)
PS、EPS -レベル 1、1.5、2、3
PNG、JPEG、BMP、PCX、TIFF

日本語で使用するときの注意。(ver0.9.5)
日本語でインストールしてすべてのプログラムのメニューからPDFCreatorをクリックして起動。
起動すると文字化けが発生している。
メニューの「プリンタ」->「設定」で新しいウィンドウが開く。
そのウィンドウの左側に「ABC」と書いてあるアイコンが「フォント」設定なので、そこをクリックしてフォントを日本語フォントに変更するとすべて日本語表示となる。
->「保存」



普通のPDFで良い場合は下の設定は不要。
(そもそも普通のPDFで良いならこのツール自体、使う必要も無いかも知れないが。)
プリント出力をプリントサービスに出さなければならなくて、その形式がPDFとなってしまうのであれば考慮すると言うこと。
(出力先で色調整などをしたい場合にはIllustratorなどのファイル形式にする方が安全かもしれない。)

印刷用のPDF/X形式とするための設定
メニューの「プリンタ」->「設定」で出てきたウィンドウの左「プログラム設定」の中の「Ghostscript」を選んでクリック。
「Ghostscriptのパラメータを設定」の中で、「-dPDFX|-f|pdfx_def.ps」を選ぶ。
->「保存」


使い方概要(少し古い)
PDFCreatorでPDFを作成する -SourceForge.jp

2008/09/07

2008/09/06

最後の試験終了

これで全部の、と言うのはこの大学でとっている試験のある科目の全部の、試験が終了した。

建築計画学Ⅱ
出た問題は、1の建築の規模に関するもの、7の美術館・博物館の構成と展示における課題について。

景観デザイン論
こちらの問題は、4景観デザインの方法を具体的に示す問題、9自然景観の特性と人間がデザインして良い範囲についての問題。

多分大丈夫だと思う。



景観デザイン論の9は答えたかった問題だったので良かった。
前の記事には書かなかった内容も書いてみた。

「自然景観は人間にとって美しいものばかりではない。景観の良さと自然の良い状態は両立しない。だが、人が自然についてもっと深く理解できれば、それは両立するのではないか。」

つまり、景観と言うのは人のこころに映るものなのだから自然を直接操作するのではなく、人の心の方を変えることも景観デザインだと言う事だ。


デザインと言う言葉、建築と言う言葉、造形と言う言葉、集合住宅やコミュニティなどさまざまな言葉のワクに捕らわれていて、どうしても何か決まりきったやり方しか無いと思い込むのは何て無意味なことだろうと思う。いろいろな解決方法を考えてみろ、とこの課題は言っているのではないだろうか。



さようなら設題集。

2008/09/05

景観デザイン論の余談 その2

「景観デザイン」の"デザイン"についての定義は、多分世の中に定説は無いのかもしれない。
景観デザイン論の中での"デザイン"は、他での造形や設計におけるデザインより、かなり広い範囲の行為をデザインと呼んでいる。

啓蒙活動、法律に関する部分、いろいろなシステム、そう言ったさまざまなものを全部含めて考えろと言っていると解釈すべきではないだろうか。「景観とは人の環境のながめ」であるから、人の頭の中までデザインすることになるようだ。


また、風景と景観と言う言葉の使い分けにも注意が必要だろう。
そのあたりは前の記事にある解答案集では不完全な部分があると考えている。

例えば、自然の景観について、自然そのものは景観として必ずしも美しいものではないだろう。自然はその独自の営みがあって、景観のために生きているものではないのだから。景観と言うのは人間の主体的な活動であることを考えれば、自然への直接の操作を行わなくても人間の頭の中で操作することはできるものだ。人間が自然のありのままの姿についてきちんと考え、どのような状態が良いかを理解していくことで、景観における間違った固定概念を修正することになる可能性があるからだ。これも景観"デザイン"の一つの活動と言えるのではないだろうか。


追加
1年も前に読んだ本の中で、F.L.ライトが「建築物を置くことで、ここはこんなに良い場所だったのか、と思うような建築」のような事を言っていた。彼は景観をデザインしたのではなくて、建築をしたのだけれども、景観デザインとはそう言うことなんじゃないだろうか。急に思い出した。

2008/09/01

景観デザイン論の余談

景観デザインに関する本には多くの人、それは主に建築や土木の専門家であったりするが、の言葉を目にするが、日本の都市景観についてはやはり問題意識があるようでどの方も一所懸命にいろいろ書かれている。

どれも都市デザインの方法論についてはかなり尤もで素晴らしいものばかりだ。計画の手法、評価の手法、分析の手法、個別の造形的手法、デザインの原則、いろいろある。

だが、その意見は方法論に終始していて、いったい最後にはそれを誰がやるのかと言うことに触れていない文章が多い。建築家や土木家なら発注があればそれらの方法論を用いて何かを作ることはできるだろうが、これを計画やアイデアの段階で、しかも都市全体をどうするかと言う部分になると、「こう言う方法もあるね」と言うところで終わってしまっている。

ある文章の終わりのところでは「建物のコントロールも含めた総合的な計画が必要である。」となっている。
そんな計画が必要だと言うのは尤もだが、それを誰が何時、どんな立場でやるのか。そう言うチャンスは本当にあるのだろうか。多分、書いている本人もそれがわからず、方法論についてのみ分割して書いているだけなのだろう。

たまに「誰か一人をコーディネーターとして任命してやるべき」と言う事が書いてある程度である。今売れてる建築家の文章にもそう言うのがあった。


結局、今の景観法の外には誰も出られないと言うことを遠回しに書いてあるように読める。あきらめなさい、そうして、建築物を作るときには歴史的文脈を読み、人の動きを読み、ディテールに注意しなさい。くれぐれも敷地境界線からはみ出さないように、と。