2008/01/14

西和夫 新春講演会「日本の建築空間」

昨日、建築史家の西和夫氏の講演会を聞いてきた。

新春講演会
「日本の建築空間 ~数寄なる精神を踏まえて」
講師 西 和夫(神奈川大学工学部教授)
会場 神奈川県立川崎図書館2階ホール
08年1月13日 14時~16時

歴史の中の多くの日本建築をスライドで紹介していただいた。
その多くは下記書籍に紹介されいているので参照のこと。
「建築文化のスーパーバイブル -100の空間が語るもの」新建築社


(以下、講演の内容を独自に解釈している。講演内容そのものではない。)

日本建築の特徴の1つに壁が薄いと言うことがある。壁と言っても支柱に建具を取り付けたものが多く、取り外したり寄せたりする事が可能である。それを調節することにより自然の景色を切り取って眺めたり、襖(ふすま)絵の代わりに鑑賞したりするのである。

中には外見上、一見質素で特徴の無い建物のようなものも作られているが、それは建物を外から鑑賞するものと思い込んで評価するからである。建物には外観を鑑賞する建物もあるが、内部から外部(環境、自然環境、庭など)を鑑賞するために「使う」建物もあるのである。

池にしても、日本庭園の池は見るだけでなく実際に船を浮かべてそこで食事を楽しむと言うような使い方をされるものが多かった。これは現時点で我々が考える池に対する感覚とは異なると言う事である。建物にしても我々は日本建築に対してあるステレオタイプな感覚を持って眺めるのであるが、建築時点での意図とは異なる可能性が高いのである。

ブルーノ・タウト以来の桂離宮的なものと日光東照宮的なものに分けて考える見方についてもそれが言えるであろう。質素に見える小さな茶室であっても、その柱1本を探すのに山ごと買って気に入った1本を探し出すと言った贅沢な材料選びをしている事を考えればそれは東照宮の贅沢さに通じるものが無いとは言えないのである。(但し全く同じメンタリティから作られたわけではない。)

数奇屋建築の細部にはたいへん凝った衣装と細工を施した釘隠しが使われていたり、鴨居には細かな細工の透かし彫りが使用される。これらは皆、一見質素に見えて「分かる人には分かる」ものとして作られるものなのである。

現在の我々は家を「買うもの」と言う感覚が強かったり、建築家が(他人の家を)作ることで建築家の作品と呼ばれるものになるのとは異なり、主体はあくまでもそこを使う人間であって、その人間の趣味が大きく反映されたものとなっている。

スライドで紹介された建築は日本建築の構造と方法論を用いながらもその自由度は芸術的である。類型化して考える後世の我々にはわからないほどの自由さを各々が持っている。

数奇屋建築を近代建築に似た方法論のものとして論じる傾向があったが、これは日本建築の柱梁構造がそのまま露出していると言う共通点を論じているに過ぎない。数寄の本質はその手の合理性や構造にあるのではなく、趣味としての自由さにあるのではないか。それが「数寄なる精神」である。簡単な言葉で言えば「超個人的な趣味の空間」なのである。


多数紹介された中なら1つだけあげておく。
後楽園 流園 流店
この建物は1階部分の床に幅広い溝があり、そこを川のように水が流れている。それを楽しむ建物として作られたものである。一見2階部分から外の池を眺める建物のように見えるが、2階へ上る階段は無く、上ろうとすればわざわざ1階天井の穴にはしごを掛けなければならない。2階はほとんど飾りと言って良い。これも使用者にしかわからない趣味の反映であろう。


その他
三仏寺投入堂

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