新ブログ「もんく+a : reloaded」へ移行し、建築仲間Team OBASUの活動記録を投稿します。
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(2021年~)
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コンテンツ概要
2009~2013年:建築物と建築についての雑記です。
2007~2009年:大学の課題に関するノートです。
2009/08/26
ちょっとした工夫
KLモノレールのImbi駅前にある集合住宅をモノレールのホームから写したものである。この下の部分は商業施設になっているが今は寂れてしまったようで人の出入りは少ない。
ご覧のように規則的なグリッドを用いて造られた建物であるが、柱や梁の一部を抜いたり付け加えるなどのちょっとした工夫をする事でこの外観形状を得ている。外側に突き出た部分に住人がガラスで部屋を付け足すなどの改造も行われているようだ。また壁に相当する物が全く見られなくて、構造らしき物で囲まれた穴は全部ガラスで塞がれている。
構造をいじっているので"ちょっとした"工夫とは言えないかも知れないが、構造の上での余裕の範囲でやっているのだろうか。古い建物であるとは言え、よく見ればなかなか可能性を感じる方法ではないかと思える。
2009/08/19
風水により
このKL中心部の比較的新しい大規模ショッピングモール"Pavilion"の前にガラス製の噴水が置かれた。夜になると内側から光を発するので色が変化して見えるもの。ただこのショッピングモールのデザインとどう調和するかと言う問題は考えられなかったようで、どうみてもグロテスクだ。
もう一つ、言われなければわからないのは、これが風水によるものだと言う事。風水では水は富を集める力があるとされているそうだ。そして噴水を外側から内側に噴射するのは富、つまりお金が外側へこぼれ落ちないようにと言う意味である。手前の赤い(これもお金に関係ある色であるのが同じ意図によるものかどうかは知らないが、)看板には、コインを投げ入れろと書かれている。「さあ、みなさんここにお金をたくさん落としていってくださいな」と言うように感じられて興醒めしてしまうような感じがしないでもない。日本にも招き猫と言うのがあるが、似たような発想なのだろうか。
いつでも建築には費用がかかるのであるから、どうしても費用対効果がクローズアップされるのは仕方ないのかも知れない。それは建築に限らず教育でもキャリアでも何でも結局投資した以上に儲かるためにする事で、それがすなわち成功と言うような言葉で表現されるものであろう。そのため世の中には引っ張る力ばかりが多く働いているように感じられる。豊かになればなるほど誰もが自分の方に富を引っ張り込もうとして動く。
幸いにして我々日本人はそう言う時代をもうずっと以前から経験してきている。自分の方に引っ張るための事は何でもかんでもいろいろやった。エコノミックアニマルと言われた事もあった。そうした過度の引力による破綻も経験している。しかし、それで得られたものは何だったかと言われると心許ない少しの答えが出るだけだ。
そろそろ引力ばかり発生していた事に反省してその逆を行ってみる時期ではないかと思う。思い切り外に対して噴射する噴水を置く時代ではないのだろうか。
2009/08/14
未分化 not equal 未熟
「幕の内弁当のような」と言うと、一つの入れ物の中にいろいろ入っていて一つの完結性の高い世界を構成していると言う意味である。ところで、我々が普通に弁当を作る場合でもやはり幕の内的なやり方を自然にしていると言うことを意識するだろうか。多分そう言うことはないだろう。
以前に台湾にいた時、やはりそこにも弁当と言うものはあった。味は別として材料になるものは同じようなものだ。主食は白米、おかずには唐揚げや肉や魚、そして副菜と漬物などである。ただ、同じような材料を使った弁当であってもそれは絶対に幕の内弁当にはなる事が無いのだった。
それは何故か?
各々を分けて配置すると言う指向が無いからだ。白米の上に主菜と副菜が乗せられていて蓋を閉めるとそれが渾然一体となり、まるでそれがたった1つの食べ物であるかのような弁当になる。だから絶対に幕の内弁当にはならないのだった。後に彼らもそれに気付いたらしく、日式の弁当としてコンビニで売られるようになった。もちろんそれは単に弁当箱に仕切りが付いただけなのだが。
そう言う状況を見て、どちらがどうだと判断するのもまた常である。どちらの弁当が美味いか、それは単に学習の結果から出る結論であって決して本質的な議論となるようなものではない。その弁当の所属する国の経済なり社会の状況がどちらの方が良いから、簡単に言えば進んでいるとかいないとか、と言うような事で判断すべきでも無いのだが往々にして勘違いをしたがる人は多い。
この写真のような所が日本にあったとしたら、それは何と呼ばれるだろうか。その名称は多くあるのだろうが、その名は決してポジティブな響きを持ったものでないだろう。そしてある場合においてはそれを課題視することは多々ある。ある場合の中には建築と言うものも含まれる。課題視するのはそこに何か解決すべき問題があると感じるからであろうし、実際に問題が何も無いこともないだろう。
ここで建築になにができるか?と考える。ほとんどの場合、問題視した時点で答えは用意されてしまっている事が多い。答えは十中八九、幕の内弁当になる。それをする本人が気付いているかいないかに関わらず。建築と言う範疇において、そんな基本的なガッカリはどんな場合でもしたくないものだと思う。
デザインとか解決方法とかそんな事の前に自分がどの地面に立って物を言っているのか、弁当でも食べながら考えた方が良い。その場所に問題があるのか、それともそれを問題と思う自分に問題があるのか、そちらの方がずっと大きな問題なのではないだろうか。
写真
左上:歩道が食事の場になっている。
右上:市場。パラソルとテーブルや台が折り重なるように配置される。
左下:道路上の屋台。このうちのどこかで買って道の反対側の食堂に持ち込んで食べても良い。道には車も通る。
右下:屋台村。中心の大木が木陰を作る。
2009/08/09
久し振りの建築の雑誌
KLに来てから日本語の本など見る機会がなかったが、先日KLCCの紀伊國屋書店で(日本の)建築関係の雑誌を久し振りに見ることができた。KLの書店ではほとんどの書籍、雑誌がビニル袋に閉じられているので、有っても中まではなかなか見られないのだが、たまたまその1冊だけが閲覧可能になっていた。
久しぶりに建築の雑誌を見ると、何だかとたんにウンザリした気分になってしまった。ヨーロッパの有名建築家の真剣な眼差しは良いとして、その後のページの何んだか白っぽいページ、白っぽくて複雑っぽい模型、白っぽいデザイン画、その中のフニャっと曲がった細い線と破線やインポーズされた人物らしき形、正面を向いて写真を撮られているボサボサ頭の誰か、とても見ていられなくて閉じてしまった。
何か心が萎んだ感じがした。
今日、近くの小さな公園だか空き地だかにあるバンヤン樹のスダレのように垂れ下がった細い根の隙間から雲の多い青空がのぞいていた。久し振りに見たような気がした。
久しぶりに建築の雑誌を見ると、何だかとたんにウンザリした気分になってしまった。ヨーロッパの有名建築家の真剣な眼差しは良いとして、その後のページの何んだか白っぽいページ、白っぽくて複雑っぽい模型、白っぽいデザイン画、その中のフニャっと曲がった細い線と破線やインポーズされた人物らしき形、正面を向いて写真を撮られているボサボサ頭の誰か、とても見ていられなくて閉じてしまった。
何か心が萎んだ感じがした。
今日、近くの小さな公園だか空き地だかにあるバンヤン樹のスダレのように垂れ下がった細い根の隙間から雲の多い青空がのぞいていた。久し振りに見たような気がした。
2009/08/08
屋根とその他
普通のメルセデスのショールームだ。
とても簡易に造られている。
本当に簡易なようだけれども。よく見るとなるほど、と思わせる。
ブルーの鉄の柱がドーナツ屋根を支えている。屋根の梁は四角い事務所のユニットをゴンドラゴンドラのように、そしてガラスの側壁をも吊るしている。地面にある出入り口ユニットと丸い車の展示ユニット(写真には無い)は床に置いてある。全てがバラバラに配置されているようだ。将来の変更は容易そうだ。別に珍しいものでも何でもない造りのショールームだけれど、これでも良いかなと思う。
何かに応用できそうではないか?
(もうやっている例はあったと思うけれども。)
これはKL市内のものだが、メルセデスの他のショールームもこれと同じようなデザインなので統一しているのだろう。
橋をかけるように
この建物は写真に見えないこの反対側も同じように鉄橋のような構造が露出している。両端に強固な構造を配置することで有効な床面積を稼げるのかもしれないが、もしかすると単にデザインなのかも知れない。そこは残念ながらよく分からなかった。
これが鉄橋ならこの構造の先にもさらに床をつなげてどんどん増築する(そして都市の規模まで.....)ところだろうけれども、やっぱりこれは建物なので土地の境界線に拘束されるから、そう言うわけにはいかない。昔の人はそう言う野望を本気で実現しようと考えた。しかし、(特に日本では)今では現実的ではないようだ。
しかし一方でこのクアラルンプールは建物と建物が壁を共有することが自然に行われているのだから、もしかしたら野望は実現する可能性が無いではない? その時実際に接続されるインターフェイスはどんな物になるのだろうか。こんな橋のようなデバイスになると言うことも可能だろうか?
Bukit Bintang 地区の Jalan Sultan Ismail にあるビル(名称忘れ)
2009/08/06
壁とか窓とか
高層集合住宅(写真はコンドミニアム)にベランダがある。数十階もある建物だが何と最上階までベランダがあり、そこにテーブルと椅子を置いてくつろげるようになっている。実際にそこで新聞などを読む姿も見られる。この写真のように通常は電球の取り付けてあるところをシーリングファンに交換している人もいるようだ。
こう言う風景は日本ではほとんど想像できないが、クアラルンプールは年中暑いにしても気候は安定している。シーズンによってはモンスーンが吹くけれども台風のようなものは来ないのでこうして高層住宅のベランダでくつろげる。
台風が来ないと言うことは雨が家の中に向かって吹き込まないのだから横からの防水にあまり気を遣う必要もないかも知れない。その上高層なら蚊や泥棒の心配もそれほど無いので、窓や壁の必要性は薄いのではないだろうか。極端を言えば、外壁と窓は不要かも知れない。逆に窓と壁をキチッとしたものにしてしまうとエアコンと通風を考えなければならないと言うこともあるので、それはまたコストなどリスクにを作りだしてしまうことになる。
最近は、壁とか窓と言うのは世の中にあるものから選択して取り付けるだけになっていて、その操作も別に不自然でもなく行われるが、そう言ったものが本当は何のためにあるのか一度は考えておかないといけないものかなあ、などと思う。クアラルンプールほど恵まれた自然環境でなくてもそれは必要なのではないだろうか。
2009/08/04
箒(ほうき)に乗って
KLCCの上階にあるフードコートから北を見るとこんな建物が見える。
ポストモダン風の外観が、スマトラからのHazeに霞んで少し幻想的に見えなくもない。全然違うものだけれども今公開中のハリーポッターの映画のように箒に乗ってあの屋根の上を飛んでみたらどう見えるのだろう、などと思ってしまう。
全体の趣味は統一されているが屋根の高さがそれぞれ異なっていて少しの複雑さを見せている。そして窓の形は正方形と長方形がいろいろに配置されていて見飽きない。現代的な宮殿のようでいてそうでもなさそうな、想像しても考えてもいったい何だかわからない建物である。
歩いて近くまで行ってみる。KLCCから10分も離れてはいなかった。
近くまで寄ってみるとオレンジの屋根が全く見えなくなって少し残念な感じがする。大きな屋根を持つ日本の家も最近では庭が無いので近づくと壁面にかなり近くなって屋根が見えずその魅力が半減してしまうが、それと同じ現象だ。このビルも屋根が見えなくなると、落ち着いた色の割合普通のビルのようになってしまった。
中なら出てきた人にこのビルは何なのかと訪ねてみたら「普通のオフィスビルだよ。特別なことは何もないよ。あっちのKLCCの方が新しくて良いじゃない」と言われてしまった。近くから見ると確かにそうだと納得せざるを得ないのだが。
ただ、このビルの設計者は相当外観には気を遣ったようで、エアコンの室外機の置き場には工夫が見られた。(写真下段)最近の新しいビルでは空調はセントラル方式なので室外機が見えることは無いのだが、この時代のビルは(KLに多く有る)オフィスでも住戸でも部屋貸しの場合はエアコンは借りた方が用意するらしく、室外機の置き場はバラバラになる。これはビルマネジメントの問題にも絡むのでどうしようもなかったのだろう。そもそもセントラル方式にする発想が無かったのかそう言う設備が入手できなかったのか、それはわからないが。
室外機に対するそうした配慮のおかげでこのビルの外観は守られたようだ。何から引いてきたのはは分からないがこのポストモダンも、最近流行りの妙なモダン(これもクラシックの仲間入りかも知れないけれど)趣味のビル群れが立ち並ぶようになったKLの中で見ると、ホットした気持ちにならないでもないなあと感じる。但し、遠くから見ないとならないが。
こうしたオフィスビルの場合、我々はその外観がどうであろうと (と言うのは単に真っ白で無個性なものであったとしてもと言う意味で) "使える"し、うまく行けばある程度以上の価値を持つことができるのを知ってしまっている。だから周囲に何の配慮もせずに好き勝手にもデザインできるのだし、そんな事せずとも(例えばユニットを積み上げるような設計をするだけで)建物として成立させることもできる。実際、多くのビルがそうして出来上がっていて、それで何の不都合もない。たまに建築家や研究者や評論家がダメ出しするだけのことだ。
"経済性優先"を言うことで環境や外観に対する配慮ができないと言うのであれば、その考えは逆に"経済性優先vsデザイン"の対立を肯定している、つまりどちらの考えも同じ直線上にあるのだと思う。デザインにおける投資に対する見返りが少ないか全くないと認めることになると思うのだ。そんな事を認めて議論の矛先を施主側の姿勢であるとか経済原理の悪弊に求めるのであれば、(とりわけ日本には)建築家は不要と言うことになるのではないだろうか。
そう認めたくはないし、認めなければならないにしてもデザインと経済が共存、共生するのを諦めてしまうのはまだ早いのだと思う。諦めるには未だその試みが少な過ぎるだろう。我々は未だ何もやっていない。
建物の名称:MeganAvenueII
用途:オフィスビル
場所:Jalan Yap Kwan Seng
2009/08/02
パーツがまる見え
ツインタワーのあるKLCC北側にある、Jalan Ampang と Jalang Yap Kwan Seng の交差点にあるこの建物はオーストラリア大使館である。日曜日の大使館にはもちろん入れないから外からながめるしかないが、L字型のこの建物はその全体を皮で包んで仕上げると言う発想で造られることはなかったようだ。なので中身がよく見える。だが見えたところでそれが何を示しているかまではわからない。何らかの建築計画的な階層があって、それがこの形に現れているのだろうとまでは想像できるのだが。
ピカピカで目立つ外観の高層ビルの多い現在のKL市内の景観にあっては、この形も色もそして小ささのどれもがこの建物の何たるかをアピールするには至らないように感じられる。中低層の建物が大きく茂った木々の中に埋もれるように置かれていた10年か15年前であればこの建物の外観はそれなりの魅力を放っていたのではないかと想像するが、果たしてこの建物はいつ頃建てられたものなのだろう。ライトがプレーリー地帯に建てた家と同じように、この建物もこの熱帯都市にぴったりだった時代があるのだろうか。想像するしか無いのだけれど。
以前に見たスカイハウス(菊竹清訓:東京都文京区)もビルの谷間に埋もれたようにあったのを思い出した。テキストに出ていた菊竹氏のスケッチからはもっとながめの良い高台の庵のようなものを想像したのだが、実際には埋もれた状態となってしまっていてびっくりした。時代の流れは誰にとっても読みにくいものだと思う。
ありそうで無い?....トイレ
2009/08/01
仏塔なのか?
インド人街に入って一際目立つこの建物。色も形も巨大仏塔のようだ。
近づいてみるとオレンジの部分がショッピングモール、黒い部分がオフィスの通常用途のビルであった。構造も通常の鉄筋コンクリート・ラーメンと覚しきもので特に変わったものでもないようだ。なぜこう言うデザインにしたのかは謎。インド人街の中心にあって何かの信条を表現したかったのか、それとも目立ちたかったのか。確かにこの一角に入るとこの建物はよく目立つ。何だろうと思わざるを得ない。
外から見て用途の違う部分が違うとわかる。ただ、初めて見た時にはわからない。だから外観が機能を表現しているとも言えない。だからと言って単なる看板のための建築のようでもなさそうだ。内部に入るとこの外観とは対照的に何の特徴も見られ無い。つまらないと言ってしまって良いような内部になっている。
なのに外観は見れば見るほど思考が行ったり来たりさせられてしまう。
変な建物である。
建物の名称は Semua Hause。直訳すると「全ての家」となり、「何でも有る家」と言う意味にもとれる。深読みすれば信条的な何かを示しているようにも思える名前である。Jalan Masjid India(インド寺院通)の北側先端に建っている。
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