2009/07/26

The Wall as Architecture


この写真を見るといくつかのキーワードが思い浮かぶ。
今回はそのキーワードを並べてみたいと思う。

●統一
建築から街の美観を言う時には常に "統一" と言うことを思い浮かべるものだ。

その場合、歴史あるヨーロッパの街並みや日本の宿場町のようなものを指すが、大都会クアラルンプールにも時にはこの写真のような風景が存在する。ここは Jalan Tuanku Abdul Rahman(タンク・アブドゥル・ラーマン通)と言って、アラブ系、インド系の住民が多く住み布地を扱う店舗の多い通りである。

こうして見ると軒や屋根のラインが揃っているし、窓の形状や趣味もだいたい揃えてある。軒下はここを訪れる客が自由に歩けるようになっていてその幅もだいたい同じなの第2の歩道となっている。これらは所謂ショップハウス群である。ただ、その通路になっている軒下の高さだけは不揃いなので注意して歩かなければ足を痛めてしまうだろう。なぜかそこまでは統一されないようだ。


●看板建築
この統一された趣味の建物は、故に今では保存されるべきものと認識されているようである。
だからと言ってそこに住む人々や商売の形態までが保存できるわけはなく、そちらはアップデートされている。中にはこの外観のまま中身がデパート風になっていたり、内部を細かく分割して貸し出しているようなものもある。

そしてほとんど全ての建物は裏の通りに面した背中合わせの建物と融合してしまって1つの建物となっている。背面から見るとそれがよく分かる。背面の建物はもう保存されずに形状がマチマチになったところでこの写真の建物と合体しているからだ。

そうなればこの建築物のこの統一された趣味の外観は内部の何物をも表現するものではなくなって、単なる人寄せの看板でしかないと言うことになるだろう。


●interface
つまり、この写真に見える部分は店舗機能と通りの機能を"結ぶ"と言う独立した機能を持った何かであると言えるかも知れない。店舗とも通りとも実は無関係で、それらを結ぶだけの境界線を示す何かであって、言うなればインターフェイスのようなものか。


●環境建築
また、通りを通る者から見ればそれは単にそこにある物で何も機能は持たないが、見えることにより通りの環境をつくる1つの要因にはなっているだろう。これは重要であるし、だからこそ元の建物の内部は保存されなくとも立面だけが保存の対象となっているのだから。

右上の写真は本体が破壊された後にも立面だけ残されている建物だ。造られた時には中身も立面も重要度は同じだったのだろうが、今は立面だけが重要になってしまった事を示しているようだ。写真下段の建物は特にユニークで、残された立面とその内部の新しい部分が分離している例。


●時間の中で独立して立っている壁
これらの立面は建てられた時点の思惑から大きく外れて立面だけが独立して存在する壁となったようだ。時間の経過とともに歩く人は変わり、生活も変わり、店舗も変わり、ビジネスも変わり、あらゆるものが変化し出来ては壊れていく流れのなかでずっとここにこうして立っている1つの独立した建築物となったのだろう。


●拘束
学生の卒業製作などに通りに長い壁のような構造物を作ってそこから街に何かが広がっていく(影響を与えたり実際に構造物が広がっていく)ような作品があるけれども、そのコアになる部分に長く残されるだけの魅力が付与されているかと言うことがあまり考えられていない場合が多いように思う。見た目、有用性、その他の何らかの魅力が例え後からデコレーションされてしまうスケルトンであったとしても何か必要ではないか、と、これを見て思う。でなければ長く残るものは単なる拘束条件となるだろう。

1 件のコメント:

アーキ さんのコメント...

こんにちは!

この文章を読んで、
とても勉強になりました!
すばらしい論文です。

>そうなればこの建築物のこの統一された趣
>味の外観は内部の何物をも表現するものではなくなって、単なる人寄せの看板でしかないと言うことになるだろう。

表通りから見える立面だけを保存するのは、
単なる人寄せ看板ですよね。

国内でも最近結構立面のみの保存でいい!
という意見が増えてきて、それで本当にいいのか?と、地理学とはいえ「まちなみ保存」を研究している身としては思ってしまいます。

>店舗とも通りとも実は無関係で、それらを結ぶだけの境界線を示す何かであって、言うなればインターフェイスのようなものか。

インターフェイスの役割だけを景観が担うとすれば、いくら本物の立面とはいえ、
ディズニーランド的な物と同じようになって
しまいますね。


>見た目、有用性、その他の何らかの魅力が
>例え後からデコレーションされてしまうスケルトンであったとしても何か必要ではないか、と、これを見て思う。でなければ長く残るものは単なる拘束条件となるだろう。

見た目などの、何らかの魅力が付加されて
いるからこそなんでしょうね。
長く残るものは単なる拘束条件になって
しまうだけなので、その拘束条件をも
ものともしない何らかの魅力が必要ですね。

その魅力は、歴史の忠実性だけでなく、
多方面に広がっていることを再認識
できました。