2007/09/29

平行定規を買う

出かけたついでにお茶の水のレモン画翠に寄って製図に必要な平行定規を買った。

10月13日までのセール品でレモン平行定規18,400円だ。お店にある中で一番安い。箱はレモンの印刷がされていたけれど、物はMAXで保証書もMAXだった。ソフトケースにまでMAXと印刷されている。取り扱い説明書はA4の紙1枚だけだ。もともとそんなに複雑な構造ではないらしい。実際に触ってみてもけっこうチャチな感じがする。もっともお店にある他のメーカーのが立派かと言えば、自分にはその違いはわからない。

そう言うわけで、これで製図をすることになった。

建築構造学演習の受講票が届く

10月6~8日に受けるスクーリング、建築構造学演習の受講票が届いた。

科目概要には「事前学習の資料や成果をレポートに添付して提出できるように準備せよ」とあるのが気がかり。何を準備すれば良いのか。

構造力学演習の成績

構造力学演習スクーリングの成績が届いた。
「A」だった。

授業中に小テストしただけだから落ちる心配はなかったと言うことだろう。

2007/09/28

建築の価値と存続

宮崎県の都城(みやこのじょう)市民会館の解体が決まったようだ。
以前に書いた黒川紀章氏のカプセルタワーとともにメタボリズムの遺産がまた一つ消えていくことになる。

市民会館の今後の方策について -都城市

都城市民会館 -建築マップ

以前に採り上げたスカイハウスを作った菊竹清訓氏の作品だ。

解体が決められた主な理由は次のようなものだ。
そのまま使うには維持費がかかる(5000万円/年)し別の施設を作ってしまったので使い道が無くなった。改修して別の用途とするにも大規模改修が必要であるし、それをしたからと言って新たな用途が見つからない。また設備面、バリアフリー化なども大変である。文化財としての価値は建築時に計画変更されていて菊竹氏の計画そのものとは言い切れない。そのままの形でとの要望も多いが、それではメタボリズムの考え方とは反することになる。


築後約40年しか経過していない。
先日のニュースでは道頓堀のキリンプラザに関してはその半分のたった20年で解体になることが決まったそうだ。どちらもあまりにも短すぎる。木造住宅と変らないのである。


メタボリズムと言う考え方
残すものと変えるもの。この建築の下半分の鉄筋コンクリートで作られたホールの座席になっている部分は残すものとして作られていて、上半分の扇形の部分は変える部分である。それは一体何のために変えると考えられたのだろうか。老朽化か、用途変更か。設備も変えられる方に入っているから老朽化は大きな理由だろう。

しかし、これを想定したのは建築家の方であって、使う側はメタボリズムの考え方をそれほど意識してはいなかっただろうと想像する。建築物はほとんどの場合そのまま使うものであって、よほど困らないと改修はしないのが一般的だ。テレビのリフォーム番組を見ていても、現実の多くの家を見ても、本当にもうダメかと思ってからやっとリフォームを考えるものだ。給湯器のような設備機器だって家電製品より過酷な条件に置かれている(中身は1200℃、外部は氷点下、雨に濡れる、掃除機のように溜まったホコリを掃除してもらえない)にも関わらず、買い替えはテレビの方がすっと頻繁なのだ。

そう言った意味でメタボリズムは日本にとって早すぎる考え方だったのかも知れない。しかも成熟しないままに捨てられた。バブルのような状態が起こればお金は使った方が勝だ。

もう一つ言えることは、建築家の仕事は造ったところで終わりと言うこと。それをどう運用するかは施主の問題に移るから、世の中がこう変ったら何かを変更すると言う考えを継続はできないだろう。黒川紀章氏のカプセルタワーのカプセルほど簡単なものであっても老朽化してカプセルをメンテナンスのために下ろした人はいなかったらしい。造った後に建築家は何も言う権利はないし、メンテナンスの仕組みまでは売らなかったのだと思われる。


未来予測
いかに偉大な建築家であっても未来を予測するのは難しい。人間は時代と言う大半径のカーブを直線と思って走ってしまうもので、これから先、時代がどう変化して行くかはわからないだろう。それを思ってメタボリズムを導入したとて変化できる範囲を超えてしまうとは誰にも予測できないものだ。


使い続けること
建築はそれ自体では存在できないものだ。誰かがそこに居て、それを使い続けることだけが建築を生かす事なのかと思う。それには建築を造る以上の想像力が必要だろうが、そんなクリエイティブな人間はごく僅かなのではなかろうか。


分離志向
ギリシャの神殿は数千年も存在することができた。そして今後も存在し続けるだろう。その事に現在の誰も異論は無いだろう。我々はそこへ観光に行く。そしてそれは多分またずっと生き残るだろう。それには価値があると考えられるから。

一方、自分の街の公園や役所の建物はどうか。用がなければわざわざ見には行かない。ギリシャ神殿のような価値を認めないからだ。逆に言えば、ギリシャ神殿ほどの価値を持たそうと思って公共の建物や自分の家を造るのか。絶対にそんな事はない。

観光地にある遺跡のようなもの、自然遺産のようなものと日常の建築物や家は全く違うものだと考えているからだろう。観光地には美しい自然や価値ある遺跡を求めるが、そこから切り離された身の回りの日常にはそんな快適さや美しさは全く求めようともしない。分離志向である。

一方で建築家はそれをしようと本気でする(人もいる?)。歴史に残る何かを造りたいと思う。この街をローマやベネツィアにしたいと思う。しかしそこには壁がある。建築家以外の誰もがそんな事は望まないと言う壁だ。観光地まで行かなくても美しい街並みも、寛げる街があることも望まない。我が街の建築は一時的な入れ物となり看板とはなるが、遺跡には成り得ないのである。

2007/09/26

「見る測る建築」と言う本

「見る測る建築」遠藤勝勧(えんどうしょうかん)TOTO出版
こんな本を買った。BookOffで105円。

非常に興味深い本だ。
先日の建築設計Ⅰ-1やCADⅠで描いている時、階段の傾斜や家具の配置、家具やキッチンユニットの横にできる人間が移動するところの幅、そういった寸法を決めることは基本的だけれど難しい。物の寸法はわりと簡単なのだけれど、空間の寸法は10倍難しいように思う。実感と数字の対応が全然身に付いていないからだ。

そう言う事をこの著者である遠藤勝勧氏は愚直にやってきたそうだ。建築家を目指す人へのアドバイスになる本はたくさん出ているけれど、やはり最後には寸法をどれだけ身に付けていてそれをアウトプットできるかに尽きると言うことのようだ。

この本は読むところは半分しかない。後半は遠藤氏が実測した実際の建築の寸法入りスケッチが山ほど入っていて、資料としてもたいへん参考になるものだと思う。

105円は本当に安い。(探せれば幸運。)

2007/09/24

建築設計Ⅰ-1 スクーリング3日目


今日でスクーリングは終了した。

結局、図面の小さな誤りが幾つか見つかったのでトレーシングペーパーに全て描き直した。コンセプトは変更せずに。

そして作品に名前を付けた。「Rotonda」と。要求が大きな仕事をしている建築家の家族のための表参道の家であったので(皆課題の条件が違いますから未だ受けていない方の参考にはなりません。)、家族が皆家の中心へ視線を向けて生活するプランとした。中心に8角形のリビングを設け、そこを核にできるだけ破綻のない平面を心掛けた。つまりルネサンスのパラディオのヴィラ・ロトンダを連想させるものだ。

実際にはどうしても綺麗に空間分割できず、汚い線が多数できてしまった。生活と言うのはそんなものかも知れないが、空間のプランとしてはイマイチになる。1日目に考えたコンセプトのリカバリとして、やるだけのことはやったと言うだけかもしれない。

その8角形リビングを吹き抜けにしてしまった事がさらに事態を悪化させてしまった。なぜなら、吹き抜けは1Fも2Fも同じ形になってしまうから(そうしない事もできるが構造上は工夫が必要になる)、上下各階の機能の違う空間どうしが形状の上で影響しあってしまうのだ。これは組石構造で家を作っている時(つまり19世紀まで)と同じ欠点が現れる。そんな事をわざわざしてしまうなんでやはり間違いとしか言いようが無い。ただ、部屋割りにとらわれて構造が成り立たなくなる事が避けられるだけだ。

次の機会は(それが有ればだが、)もう少し上手くやろうと思う。

今日の課題は前回のCADⅠから1歩進んで、プレゼンテーションまで採点された。設計内容が今ひとつだったので見せ方で少しシンプルに、そして印象深くなるようにしてみた。どう見えただろうか。




前回のCADⅠそして今回、と、設計を行った中で気になった事は「線の質」だ。なぜこの直線を引くか、なぜここに線を引くか、なぜこの形を選ぶかと思う。

例えば直線を引くのは、つまり「そこに定規があるから」ではないのだろうか。良く解釈すれば世の中にはまっすぐな材料が多いから、通常はそれを使う事が効率が良いし自然な事だ。

しかし、形を選ぶのも線を引くのも、全てが自由であったとしても我々は直線を引く可能性が高い。幾何学的にすっきり完全な形が作れて美しいからだろうか。いや、「そこに定規があるから」ではないのか。考えもせずそれが普通だからと言う理由で直線を引くのではないか。そうでないと言い切れるだろうか。

CADであればなおさら幾何学的に完全な形状を選択し易い。それどころか不完全な形状を選択する方が難しいだろう。これでは道具に使われているようなものだ。21世紀になってプラトンの完全性を求める必要など無くなったはずなのに、それとは違うこんなバカな理由で直線を引き続けているなら我々は退化したとしか言いようが無いではないか。



写真を追加
プレゼン用の立面図であります。住宅らしさが無いのは意図。
窓枠も細かく描くべきだが思い切って省略している。スケール感が無いのはそのためか。

2007/09/23

建築設計Ⅰ-1 スクーリング2日目

描き直そうかどうか考えたが、そのままにする事にした。
別の事情で少し変更は加えた。

明日は午後からプレゼンテーションだ。
今は5mm方眼紙に描いているが、トレーシングペーペーに必要な線だけで描き直すべきだろうか。色付けもして良いようなのでやってみようか。



追加
今チェックしたら間違いが数点あった。グリッドの付いた紙に描くと平気で1コマ間違えていたりするものだ。仕方ないので描き直すことにした。この建築に何か名前を付けようと思う。ルネサンスの巨匠への捧物になるな名前が良いだろうか。平面図を見るとそれを連想させるものがあるから。

2007/09/22

建築設計Ⅰ-1 スクーリング1日目

今日から建築設計Ⅰ-1のスクーリングが始まった。

テキストを読んだ印象では、基礎からみっちり覚える科目かと思っていた。実際始まってみたら全く反対で、かなり緩く始まった。制約が少ないけれど課題に求められる内容はかなり考えなければできないので(とは言え、正解の無い課題)別の意味でキツいように感じられる。


帰りの電車で課題の事を考えいた。そうしたらスクーリング中に考えていた事と別の考えが浮かんできてしまった。変えてしまうとまだゼロからになってしまう。どうしよう。

考えが変った理由は、最初に挙げたコンセプトで描く事が別のところでの制約になってしまうと思えてきたからだ。自由で単純明快な方法を選んでいたつもりが、今は逆のように感じられる。1F平面を自由に決める事が2F平面に制約をもたらす。壁の表が裏を制約する。単純明快な形が単純でない空間を作り出す。

これは欠陥ではないのか。19世紀までの積石構造のジレンマに似ていなくもない。そんなふうにも思えてきた。明日までによく考えよう。

2007/09/21

フランク・ロイド・ライトのまとめ

フランク・ロイド・ライトにおける「有機」と言う言葉についてまとまてみた。

建築用語として「有機的」とは良く使われる言葉になっているが、フランク・ロイド・ライトはかなり早くからこの言葉を使っているようだ。現在の建築に関するいろいろな文章に出てくる「有機的」は今ひとつ定義がはっきりしていないようで、読んでいて何だか気持ちが悪い。


そこで、知る範囲でそれらを分類してみたら、だいたい4つ位に分される。

(1)概念として関係があるの意
周辺環境、人間生活、街などと建築に意味的なつながりや関係があると言うこと。

(2)空間構成の事
部分と全体(ディテールと立面など)または部分と部分に関係やつながりがある。

(3)美や形状の事
自然の形、自然の構造や構成を用いていた建築の方法。

(4)(単なる)イメージ
機能的に整理されていない関係である。からみあったような関係がある。非人工的。自然の何かを連想させる。


フランク・ロイド・ライトの「有機」はきちんと定義されていて、上の分類では(1)になる。結果として作られる空間には(2)が認められる。全然矛盾が無い。


フランク・ロイド・ライトの「美」と形状はどうかと言うと、初期から後期まで一貫して幾何学の美である。「グッゲンハイム美術館」などでは、丸くぐるぐる巻いている巻貝のような形状のイメージから「有機的」と評されることもあるが、よく見てみればコンパスや定規を使って描いた線の組み合わせになっていて、最近よくあるぐにゃぐにゃしたタイプの「有機」とは全く違うのである。

ついでに、ル・コルビュジエのロンシャン教会は、あの曲線は日本の陶芸であるような手捻りの曲線で、美術家の使う線であろう。もともとル・コルビュジエはピアノやバイオリンなどの曲線を使うのが好きだ。ル・コルビュジエもフランク・ロイド・ライトも別に幾何学をもって近代建築の定義としたわけではなくて、(19世紀的な構造からくる制約に対する)「自由」の方が重要なテーマだったので、ロンシャンでそれを示してみたかったのだろうか? (そんな事どこにも書かれてはいない。)


本題に戻って、フランク・ロイド・ライトは自然の生物の真似をしたような形の「有機」を好まない。それは造花のような物と考えたからだ。人間が作らねばならない美は人間の美感に投影された普遍性にあると考えていた。


それなら、グッゲンハイム美術館に「有機」はあるのか?
初期のプレーリーハウスが砂漠地帯に溶け込むようにデザインされたと同じような関係を、グッゲンハイム美術館は街と持とうとはしていない。その外観は周囲のビル群のパタンやルールを無視している。これは逆説的方法だろう。その方が良い場合もあるのだから。(ここでは、細かい事は言わないでおくことにするけれど、AlfaRomeoの線を見て欲しい。)





参考資料
「ライトの遺言」 フランク・ロイド・ライト 彰国社
「建築家:フランク・ロイド・ライト」 テレンス・ライリー他 (株)デルファイ研究所
「建築について (上下)」 フランク・ロイド・ライト 鹿島出版会
「巨匠フランク・ロイド・ライト」 デービッド・ラーキン 鹿島出版会
「見る建築デザイン」 宮元建次 学芸出版社
「伊藤豊雄 建築|新しいリアル -パンフレット」 神奈川県立美術館葉山

2007/09/20

おかげさまで、フランク・ロイド・ライト

先日、CADⅠのスクーリングでせんたろーさんとフランク・ロイド・ライトやル・コルビュジエについてお話ができました。それを種にして今日は頭の中にちょっとだけ飛躍がありました。

まずは、せんたろーさん、ありがとうございます。
これで現代建築論のフランク・ロイド・ライトの部分が進みそうです。


簡単には、フランク・ロイド・ライトの「有機建築」に焦点をあてて書こうと思っています。
フランク・ロイド・ライトの建築は、初期と後期では見た目上スタイル変化が大きいのですが、「有機」については一貫していると思うのです。また、スタイルが変化しているように見えても彼の感じる「美」にも一貫したものが感じられます。そのあたりを例を挙げつつ書いてみることにしました。

詳細はまた後で。