2008/10/03

進化論

小中学校時代の進化論はまだダーウィンで良かったのだと思う。
今考えれば、何と楽天的(ダーウィンさん、ごめんなさい)と思ってしまうのだけれど。

ところで進化論が生物学の領域から出て、社会や宇宙、そして哲学にまで適用できる理論になっているにもかかわらず、建築と言うのはまだまだダーウィン時代にあるのではないかと思うことがある。


建築が有機的などと言ってそれ風の形や空間を作っているが、それが確かに技術の高次の利用の結果であったとしても、それはミクロ的な構築ルールによって出来上がる一つの結果に過ぎなくて、出来上がった物それ自体、そしてそこに入る人間が高度な動きをするものになるわけではない。それどころか、逆に単純化していくものだろう。

人間1人を見た場合に、その人間の機能や思考はかなり複雑なものである。しかし、それを建築物の中に固定してしまうと、とたんに単純化してしまう。会社と言う組織化が起こり、そこに入ると複雑な人間の思考は単純な1つの機能となり易いと言うことだ。商業建築物も個人商店よりも固定的になりやすいだろうし、そこに買い物に行く人間も決まったパターンでそれをするだけとなる。だから広告によるイメージ戦略が有効になるのだろう。交渉次第でまけてくれたり、取り寄せてくれたり、時々オマケが付いたり、店のオヤジと長話したりと事が複雑ではそうは行かないはずだ。

そう考えてみると、建築のやっている事は世の中の活力を無くす方向へ走っている可能性があるとも考えられる。


活性度のある粒子を箱に入れて観察するとだんだんと平衡方面へ向かい、均一化していく。人間社会もだんだんそうなっていくのだろうか。美しい建物とともに。


何で脈絡も無く進化論などが出てくるかと言うと、卒業研究に行き詰っているからだ。建築では不活性な建物を提案する方がよほど簡単なのかも知れない、などと弱気になっているところ。


追加
まてまて、建築が人類の歴史上で有用であったことも事実じゃないか。それに高次の組織化は人間にとって一つの方向性でもある。

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