2008/08/19

バーチャルアーキテクチャー

「バーチャルアーキテクチャー」と言う本が図書館にあったので一通り目を通してみたけれど、さすが東京大学、ネットで全文読めるようだ。

バーチャルアーキテクチャー

この中にはコンペでボツになった建築が多く説明されていたりする。しかしボツでもなかなか考え方が面白いものもあって、逆に現実味から一歩引いているだけにその面白みも大きいのかもしれない。


その本題とは直接関係ないが、青木淳氏の書かれた文章「N市地下横断体」が興味深かった。

要約
近代建築では「意図」と「それに伴う行動」をそれぞれの空間に固定することで成り立っている。できあがった空間はそれぞれ「つなげられるもの」と「つなげるもの」になる。例えば「音楽ホール」と「ホワイエ」のように。これらにはきちんと序列が出来ていて、それを変えることはなかなかできるものではない。しかし、日常の人間の行動はそんなに機能的ではないのに、建築は相変わらず繋げ方を考えている。考え方の上でも空間としても「どん詰まり」なのだ。数少ない例外として挙げているのがコルビュジェの「建築的プロムナード」と言う考え方で、つないでいるものに優位性を持たせている。



こう考えると、現代に至っても建築はまだ広い意味で機能主義のままなのかもしれない。これはこう言う目的のための場所と言うように決まりきったタイプで考えているし、そこまでのアクセスやら動線やらプログラムやらゾーニングのようなやり方は疑われることがない。実感としても建築は機能や制度を固定するもののように思われるものがある。これは建築内部でも、都市や街と言ったレベルでも同じではないか。

例えば、子供が外で遊ぶと言う行為は、家->道->公園と言うシーケンシャルな順位付けの上に成り立っている。それ以外の選択肢はあまり無いので、子供と言えどもその街の流儀に従わざるを得ない。これではパソコンを買ったままの状態で何も変更せずに使わせられるようなもので、冗長性に欠ける。普通に考えてできそうな事しかできないと言うことになって、あまり面白みもないし、実際の人間の行動とは整合性は無いだろう。

ではこの「どん詰まり」にはどう挑戦すれば良いのだろうと思っていたら、同じ文章にこう言う記述がある。「道が人のさまざまな動きを誘うように進化していくことによって、その結果として、「広場」らしいふるまいが生まれるのである。」と広場について言っている。ルイス・カーンの学校についての言葉を思い出すようなセンテンスだ。広場の原初的なものを実現すると言って良いのだろうが、それを実際にどうやって造るかは難しいだろう。「自主的に何かが起こる」空間.......



ところで、コルビュジェが建築的プロムナードで空間と空間の生物学的つながりを提唱しながらも、後に機能主義と評されたのだけれども、ここで同じ事を「それに伴う行動に優位性を与えた」と言われるのも別の意味で面白いと思う。

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