2007/10/24

黒川紀章 その2

黒川紀章の資料に選んだ「黒川紀章ノート」が厚い本でなかなか読み終われない。

この本は1994年に発刊されたもので、それまで三十数年間の黒川紀章の思索の経緯が綴られている。本人がそれについて書いているので読み方によっては自己顕示欲の産物のようでもあるが、時代によって考えた事はその都度ユニークである。そこに使われる言葉も所謂(いわゆる)建築用語ではなくて、黒川用語であり、その定義まできちんと説明している。だから一般の建築評論における文章と違って読み易い。ありがたいことだ。

日本の伝統についての見方もよく研究された成果と言ってよく、よくある伝統構法の部分的な特徴を西洋のそれと比較して「こうだ」と断言するような議論とは随分と異なる。大学院の時代からこうだったのでは嫉妬深い人々からはさぞ煙たがられたのではないかと想像できる。


まだ全て読み終わってはいないがこの現代建築論以外に、建築設計Ⅰ-2の課題のヒントもここにありそうな気がしてきた。

参考資料
「黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡」黒川紀章 同文書院

2007/10/23

黒川紀章 その1

現代建築論のレポートで次に採り上げる予定は、先日亡くなった黒川紀章氏である。

黒川紀章と言えば国立新美術館が開館したばかりだが、この写真を見て何かしら不思議な感じがした。巨匠の作にしては大人しいのだ。

海外からやってきた有名建築家の作にしても雑誌に取り上げられる海外の有名建築家の作などは、よくこんな事を思いつくと感心するほど奇抜であるものが多い。黒川紀章も日本にてはなかなか個性的な人物のようであるし、海外コンペで多くの仕事を取って来る建築家なのだから、一見して黒川作とわかるほど奇抜であろうとの先入観があるせいだろうか。

そう言う目で見ていたせいか、とても大人しく感じられたのだ。

そんな訳で、あの形がどう言う意味を持つものなのかを解明してみたくなったのである。幸いにも、ネット上には納得できる答えが見つからない。建築好きの人々や学生も、ル・コルビュジエは熱く語るが、評価の定まらない最近の建築を判断する事には遠慮がちらしい。



ところで、今日図書館で黒川資料を漁っていたら、奇妙な事を発見した。

先日、伊藤豊雄の資料を読んでいたら彼は彼より前時代の建築について都市の理想像、人間生活の理想像のような大枠から建築を発想するように解釈していた。その前時代の代表の一人が黒川紀章なのであるが、黒川紀章の文章からはそれは全く違うものとなっているように見える。

黒川紀章は最初から多様性を大きく認めていて、時間軸でも空間の中にも対立するものが同時に存在するとしている。未来を予想するもそれが神の与えた良き方向へと言うような絶対的なものではない。前者が大枠と言うようなものであれば、それをさらに上から眺める風なのである。


伊藤豊雄は彼の前時代の建築と言うものを(短期間であるが)師である菊竹清訓から感じていたからかも知れない。黒川紀章は同じメタボリズムの菊竹氏を含む他の建築家について何も言及していない。メタボリズムにいながら彼らとそのコンセンサスを同期する動きをして来なかったからのようである。


確かに、黒川資料を少し読んだだけでも菊竹清訓のメタボリズムとは随分異なる感じを受ける。

菊竹清訓の場合は日本建築の伝統を出雲大社に求めているが、これは過去から現在に至るまで多くの様式が発展し変化してきた中にあってずっと採用されてきた考え方を探る態度なのである。黒川紀章から見ればこう言った日本の伝統から要素を抽出する行為自体がすでに欧米的なのであろう。ヨーロッパ人がその美の理想をギリシャやローマに求めた態度と同じなのであって、それは態度からして日本の伝統から離れてしまうものなのである。

黒川紀章の場合、出雲大社も茶室も日光東照宮も同じ日本の中にあり、それはある意味対立しながらも同じルールの中に、つまり日本と言うシステムの中に共存するのである。「ワビ、サビはそれ単独では存在しない。紅葉の燃えるような華やかさを知らない者にワビ、サビの感覚はわからない。」のであると。

2007/10/19

パン屋設計のための調査



建築設計Ⅰ-2の課題でパン屋を設計する必要があるため、製パン用機器の調査を行った。(上の表)他に調理パンのための卵を茹でたりする場合にはガスコンロが必要だろうが、だいたいこの程度でできるのではないだろうか。固定された機器以外にも動く物も入っている。


参考書
「パン菓子機械総覧 2001」日本製パン製菓機械工業会 光琳

2007/10/17

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見た

アントニン・レーモンド、何の予備知識もなし見た。

旅行などで外国に行くと、ずっと長くそこにいる人間よりよくその国が見えると言うことはあるものだ。アントニン&ノエミ・レーモンドも日本に対してそうであったようだ。我々日本人が日本的と思って見る日本風デザイン、実は外国人が発見した日本を見ているのかもしれない、この展示を見るとそう思えてくる。

特にノエミ・レーモンドのデザインを見ると、彼らが日本を見てショックを受ける部分と西洋のデザイン手法がミックスされて、無理も不自然も無い一つのものになっているのが不思議である。浮世絵に影響を受けたとされる印象派よりもさらに自然にブレンドされている。


建築の事も書いておくべきなのだけれども、どうも変な方に関心を持って見てしまった。


神奈川県立近代美術館
アントニン&ノエミ・レーモンド展
学生証提示で850円
JR鎌倉駅から徒歩10分程度
今週末10月21日で終了

まことちゃんハウス

まことちゃんハウスの件で「東京地裁、工事差し止めの仮処分の申し立てを却下(071012)」のニュースが報じられた。

一戸建て住宅の並ぶ街で今後お互いにどう言った付き合い方をしながら生活されるのだろうなあ、と思う。目と鼻の先に気に食わないご近所さんが居て、ゴミを出しに出たり買い物に出る時に挨拶もなしでずっと快適に生活できるものだろうか。



考えてみれば、都会ではそれが普通なのだ。隣にどんな人が生きているか、死んでいるかもわからないマンションに住む。新しい住宅街であれば知らない所から移り住んだ人々がそれぞれ何の関係も関わりもなく偶然そこにいるだけと言うことは普通にある。

そもそも現在の都市は無関係な人間が何かの都合で勝手に集まってできたものだ。田舎の地縁を捨てて都会の生活を選んだ。鉄のドアで仕切られた家の内部には核家族のみで半ば完結した生活を成立させる事の方を選んできたのだから。

そこには田舎にあった地縁血縁は無いし地域のルールも無い。だから面倒臭くないし、ある意味快適であったと思う。しかしその代わりに必要になったのが、警察組織や法などと言った物であろう。何か問題が出る毎に法や条例を多く作ってきた。それらは複雑過ぎて専門家にしかわからないほどに多くある。道路には車や人をいちいち細かく規制しようとする信号や標識がニョキニョキ立っている。昔小学校の壁に「廊下を走ってはいけません」とつまらない張り紙がしてあったが、それと似ている。

日本ではよく親が子に向って「xxxしちゃダメ」と叫んでいるのを目にする。(「日本では」と言うのは他の国ではほとんど見ないと言う意味)日本の教育は、実は「xxxしちゃダメ」しか無いのではないだろうか。だから大人になってもそう言う発想でしか世の中を制御できない。まことちゃんハウスの様な事例を受けて各地でやっと景観条例ができて、「家のxxxな外観はダメ」みたいになるのだろうか。



アメリカの映画を見てうらやましく思うことがある。
子供に見せる「スパイダーマン」のようなものでも、人間としての理想像の1つを提示している。アメリカでは「xxxしちゃダメ」と言うネガティブな方向ばかりでなく、こうなったら「カッコいい」と言う像を子供に示す事ができるのである。(だからと言ってアメリカが全てうまく行っているのではない。あちらの方が犯罪が多いのも事実だから。)

これは大人にそのカッコいい理想像があるからできる事ではないだろうか。マイケル・ムーアのような変った映画監督がいるが、彼の生き方はやっぱり1つのやり方として「カッコいい」のである。


振り返って我ら日本人にはそういった理想像が無い。ホリエモンのようなやり方がカッコいいと言われる時代があったが、あれは日本人の理想像であったか。個人の利益を追求する事は悪いことではないし、他の多くの日本人がストイックであるすぎたと言う意味で見習うべきところはあっただろう。しかし、理想像ではあり得なかった。

学校では個人の成績が良いことが評価される。しかし友達の成績を良くする手助けができたり、グループで何かを成し遂げたことはほとんど評価されない。受験には役立たないからだ。これで日本人はどんな人間になるべきだと言うのだろう。年金着服、賄賂、生活残業、自分のためになる何かを皆がやっているだけの人間か。


その意味で、まことちゃんハウスを作った楳図さんもそれを訴えたご近所さんも同じ部類の人間なのだろう。裁判所が結論を出しても、まだ出ない結論があるように思われてならない。




こう言う日本人のために建築は何が提供できるものなのだろうか。

2007/10/15

伊東豊雄論、ほぼ、まとまる。

長くかかっていた伊東豊雄論がほぼまとまった。

内容は前回書いた分析を、実際の建築の方から遡ったものにした。そうでなければ説得力が出ないであろう。逆に実物からであると論理的にまとめ難い。その上、伊東建築は年代によってポイントが変化していて、一貫した説明でまとめる事が難しい。そこでここ10年の新しいもの絞って書くことにした。

ポイントが変化していると言うのは、同じように見える手法であっても本人の思いに違いがあって、それを一つの表現としてしまうのは正確とは言えないように思うのである。人間は成長するものであるから、その人の一生を全て一つの記号として扱うのは失礼と言うものであろう。ル・コルビュジエのようにどこで切っても割りと一貫性の保たれている人間は少ないのが普通だ。



そして、現代建築論の次のターゲットは誰のどんな建築にしたら良いだろうか。やはり時節柄、黒川紀章であろうか。明日、伊東豊雄に関する資料を図書館に返して考えることにする。

建築構造学演習のレポート返る

先日の建築構造学演習のスクーリングで書いたレポートが返ってきた。正式な評価通知ではなくてレポートの封筒に記されたものであるが、どうやら「A」らしい。正式通知を待つことにしよう。


少し前にあるところで「地震多発地域に引越すが、安全な建物の構造は?」と誰かが書いていた。これは大変難しい質問で、木造だからダメで鉄骨だから安心と言うような簡単なものではないらしいし、今はほとんど使われない江戸時代までの伝統構法が実は高度な伝統技術であったとも気付かされた。素人考えの安易なイメージだけで判断するのは危険なのだ。

有意義で楽しいスクーリングであったと思い返される。

AutoCAD 体験版の使用期限

AutoCAD LT 2007 体験版の使用期限延長をお願いしたが、リクエストコードが認識できないとメールが返信されてきた。確認したがリクエストコードは間違っていないのだが。まさか、同じリクエストコードで他の人が延長したら2人目からはダメなのだろうか。

やってみた方はいませんか。

2007/10/13

Auto CAD 関連いろいろ

CADⅠのスクーリングで Auto CAD LT 2007 体験版をインストールし、図面ファイルを作成したところファイル形式がDWGになった。そろそろ体験版の使用期限が迫ってきたので作成したファイルをAutoCADで開けなくなる可能性がある。そこで体験版といっしょにインストールされたViewerアプリケーションで開こうとしたら開けない。よく見るとインストールされたのはDWGではなくてDWF Viewerであった。

これはまずい。Autodesk社のサイトを探して見たらDWG Viewerを発見。無料で使えるのでインストールしてみた。無料だが個人情報を要する登録は必要だ。多少は仕方ないだろう。

Autodesk - DWG

もう一つ、体験版の使用期限30日延長の申込みもできるようだ。動作が重いと言う2008の体験版もここで入手可能。

Autodesk - 体験版申込み窓口



AutoCAD はどうしても将来個人としては使えなくなる可能性があることも考えて、Jw_cadも検討しておかないとならない。下記サイトからダウンロードしてみた。ダウンロードされるファイルの小ささに驚く。

Jw_cadのページ


AutoCADそっくりなCADも提供されている。値段はそれほど高くはない。

Intelli Japan


VectorWorksは早くから3Dに定評あるCADだったように思う。

VectorWorksホーム


AutoCADやJw_cadのファイル形式が扱えればフリーのCADでも何でもかまわないのが本音だが、どの程度の互換性があるかの情報が少なくて困る。操作が違うだけなら慣れれば済むが、ファイル形式互換性が無いのは致命的だ。多くのCADソフトはAutoCADのファイル形式の読み込みや編集が可能と言っているがその程度が問題であって、詳細にチェックしている人はいないものだろうか。

2007/10/12

伊東豊雄

現代建築論の中で伊東豊雄の建築について考えている。


1.都市の捉え方
・絶えず変化する。
・流れの中にある。
・秩序無く造られては壊される。
・いろいろな印がCOPYされ消費され続けている。
・コラージュされている。
・表面的である。

2.都市の中の人間
・情報を消費する存在。
 -ブランドのバッグは物としてもバッグで無く印としてのバッグ。
・情報の中の遊牧民。
 -印、情報は絶対的ではなく何時か流れていってしまう。固定的でない。
・物理的な肉体と情報的な肉体の両方を持つ者。

3.都市の中での建築の位置付け
・建築は形態的にも機能的にも完結し、独立したものではあり得ない。
・建築は流と相対的な関係を持つ渦のような「現象的」存在。
 -固定化された物である建築と都市の在り方とのギャップに対して。
・古典的な都市の枠組から見る建築の否定
 -「都市はこうあるべき」からの建築は不可能である。

4.伊東豊雄の建築の理念
・仮想的
 -流れ、変化に対して固定的でない事。
・ニュートラル
 -流れ、変化に対して中立であり可変である事。
・メディア
 -情報の入れ物である事。情報の変化とともに変化するモニュメンタリティ。
 -従来の建築は固定的で時代の変化の中でも意味が変らない事に対する。
・建築のプリミティブ(原初的)で自然な状態の模索。

5.伊東豊雄の建築の表現方法
・グラフィカルなエレメントで構成する。
 -柱、梁などの機能エレメントで構成しない。
・コラージュ
 -都市(東京)の論理


6.新しい方法論
・人々の動物本能に訴えかけるもの
・自然界の構成原理に近づく
・運動体の幾何学のルールに基づく
・新しいシンボル性を持つ
・新しい装飾を発見する



所感など
従来建築(近代、ポストモダン)の枠組の挫折
近代もその後の建築も幾何学的秩序のある都市の理想像を基に建築を造ってきたと考えれば、
19世紀以前と変わり無いと言える。現在の都市の実態を見ればそれは既に挫折していると見て間違いはないだろう。都市は(東京は)無秩序なまま造られ続けていて何の抑制も無い。

それまでの建築は固定的で永遠性を体現する事を目標に造られた。しかし現代の建築は社会や都市の変化の中で変化する事を要求される。しかし形態を固定化をする建築はそれに応えられずギャップは広がるばかりである。ここに建築は挫折したのである。

伊東豊雄の建築はそんな挫折の時代に産まれた。

都市における人間の生活も変化した。生活は固定的でなく、出現しては流れていく情報(伊藤はノイズと表現する)の中にある印を求めて行動するようになった。人は物としての建築に集まるのではなく、情報の発信源に集まる。建築はメディア(情報の入れ物)化しなければ存在できないと伊東は考えたのであろう。

故に従来建築の重さからフリーな軽くて変化するものであろうとした。そして前時代に用いられた普遍の美からも自由となろうとする過程で、自然の中の原初的な美、うつろい行く幾何学の美、そういった形態を採用することになる。

(ル・コルビュジエなどの近代の元祖的建築家は普遍の美を採用してはいた。しかし彼らが主張したのは"自由"であって、その四角さを言ったのでは無い。四角さを言ったのではなく、ギリシャ・ローマを言わなかったと解釈すべきではないか。この先人の解釈の誤りを受け入れながら、それを否定していると思われる。)

造形表現では樹木などの自然の形態、動く幾何学の形態を用いている。しかしそれはあくまでも「形」の再現においてであり、ガウディのように自然現象の力学的引用までは行っていない。力学的には建築技術の力学であり、造形表現との関連は薄い。つまり「造花」を造っているのではないだろうか。

またある意味、伊東建築は新しいメタボリズムの表現であるとも受け取れる。伊東の建築はメディアと言う入れ物であり、内容物は情報のようなソフトウェアであると捉える事で固定したものとして想定はしない。固定してプランニングする事への「諦(あきら)め」であるとも感じられる。



参考資料
「風の変様体 建築クロニクル」伊東豊雄 青土社
「建築を考える」菊竹清訓 鹿島出版会
「シミュレイテド・シティの建築」伊東豊雄 INAX
「伊東豊雄/ライト・ストラクチャのディテール」伊東豊雄建築設計事務所 彰国社
「<現代の建築家>伊東豊雄-風の変様体-」鹿島出版会
「自ずと生まれる生きものが暮らす空間(対談)」生命誌ジャーナル2007年秋号
「伊東豊雄 建築|新しいリアル(パンフレット)」神奈川県立近代美術館 葉山