2つ前の記事にある「東京建築さんぽ」(松田力著)を読んで見た。
通常であれば個々の建築物に関してああだ、こうだと言うものだけれども、こうして本になってかなりまとまった数を一堂に集めて見ていると個々に見ているのとはまた違った思いが浮かんでくる。
その中で一番思う事は、日本の近代建築は「学び」から出来上がっているのだと言うこと。
「東京建築さんぽ」の中に登場する近代のほとんど全ての建物は元々日本には全く存在しなかった形、構造、意匠、材料から造られている事がわかる。悪い言い方をすれば当時先を行っていた西洋の真似と解釈の産物だ。中身を立派な物に見せるための方法論、先進的に見せるための形、歴史あるものと見せるための意匠。それらは全てどこからか学んできて使うのでなければそう簡単に独自には作れるものではないし、そしてこれだけ多くの建築家が似たようにデザインできるものではないだろう。
先人は近代建築と言うものを学び、それを東京に吐き出したのだ。
ある者は「建築とはこうだ」=「建築は西洋の意匠を身にまとうべき」と学んだだろう。ある者は西洋の構造を学びその方法論で日本の意匠を再構成しようとしているように見える。いずれにしても真面目に何かを学んだ形跡の集大成が東京のように感じられる。
皮肉な言い方をしてしまえば、西洋の方法論を学んで日本の方法論から自由になったけれども、逆に別の狭い不自由に閉じこもってしまったと見えなくもない。もちろんそこから羽ばたいた巨匠達はいるにしても、多くは「学び」の罠にはまってしまっている。どうしてもそう見えて仕方がない。
さらに逆の解釈をすれば、まずは誰でも(どんな巨匠であっても)「学び」そして「真似」以外からそこに足を踏み入れる事はほぼ100%不可能と言うことでもあるだろう。
と、言うわけで「東京建築さんぽ」、著者の思いと全く別の読み方をするのも面白い。
もう1つ言えば、著者松田先生は愛知産業大学のスクーリング担当で年に数回程度学生に東京を散歩させる事になっているからそれに参加してみるともっと面白いと思う。