新ブログ「もんく+a : reloaded」へ移行し、建築仲間Team OBASUの活動記録を投稿します。
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(2021年~)
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コンテンツ概要
2009~2013年:建築物と建築についての雑記です。
2007~2009年:大学の課題に関するノートです。
2009/03/22
わからない その3~4
その3
その4
絵本はここで終わり。
「建築」と聞いて最初に思い浮かべるのはやはり”建物を造る”と言うことだろう。しかし、それをそのまま受け入れるのは人にとって”枠”になるものであるし、プロはそう考えていない人も多いから素人的視点から抜け出せていないとも言える。
次に出てくるのは、”なんとか建築”と言うタイプをそのタイプの中で(その定義を保ったままに)解決する事を選択するかどうかだけれど、これは”なんとか建築”の中の工夫は多くの先人によってかなり考えられていて新たな回答を探し難いだろうし、”なんとか建築”を受け入れる事自体が”枠”になりかねないからできるだけ止めたいと思う。建築が未来に対しての何かであれば、ここはやはり定義にも疑問符を突きつけるべきなのだろう。”なんとか施設”をもうちょっと良い”なんとか施設”に変えるって事はできないと言うこと。
作りかたでは、高次に組織化されたもの(有り物)を何も疑う事無く使ってしまうのは止めたいと思った。高次に組織化されたものは進化を止めたに近いわけで、未来への変化が少ないのだし、低次の能力を制限する可能性が高い。
トイレではウンチをする事に決まっているから人はトイレでウンチをするが、人にはキッチンでも事務所でも交差点でもウンチをする能力はある。つまりトイレがウンチをする機能を想定して高次に組織化されている存在になっていることで、逆に人間を拘束していると言える。そう言うことを建築はしているわけで、再開発でできた場所などはそれを大規模にやっていると言うことになる。そこに中間領域を作っても、その中間領域には”ウンチ禁止”となるのが普通なので、想像以上の突飛な行為は起きないと考えるべきだろう。
つまり、人は家を出てからたくさんの人を見て、そしてそのまま帰ってくるだけになる確率が高い。そう言うことが一番問題だと思うのだ。
おしまい。
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3 件のコメント:
オラングさんの言わんとしていることは
おそらく
フーコーが、「言葉と物」1966年で言っていることと同じと思う。
創造というのは 既成概念ー「閾」を破壊することであって、それは人間が人間であり続ける以上 意識的にせよ・無意識的にせよ行われていくものであるということらしい
オラングさんのように「閾」を「意識すること」と、さらには世界を大局的に認識・読み解き、その上で必要とされているパラダイムに気づきそれに基づく、新しい表現を試みていくことなんでしょう
私も その一人として オラングさんのような面白い人が面白いと思います。
そして 今、「環境 宇宙」というファクターは フーコーですら想定大変なインパクトがファクターであるはずで、当然 今後を読み解き、創造する上では与件として要求されていると思います。
フーコーの乗り越えられるべきと考えた近代人間中心主義的な世界観 「閾」を打破し、創造する醍醐味を今後も味わっていければいいのではないかと思います。
ちなみに、卒研は、単なるへっぽこ大学の卒研とはいえ、そのようなフーコーの予期した創造へのチャレンジの場であることは否定しえないでしょう。
今後も お互い がんばりましょう
マンキー 哲学 マンキー
マンキー
いつもと 違う かっこつけた物言いをしたため
7文目が へんな文章になってしまった
これは F ですな
マンキー F マンキー
A+です!
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