2009/11/19

「progeCAD 2009 Smart!」がリリースされた

progeCAD 2009 Smart!がリリースされた。

無料で使えますが商用版と機能は同じで私的な作業に使ってくださいとの事。自然災害関係へのチャリティ活動にも協力しているそうだ。DWG2.5~2009まで読み込みできると書いてある。

progeCAD 2009 Smart!のページ(クリック)




マンキーさんご指摘ありがとう。無料を無用と書き間違えてましたので修正しました。

2009/11/13

日本人は中古住宅には住めません

中古引っ越してた後にすべきことはいろいろある。

マレーシアの団地に引っ越してきた。ベッドもエアコンもテレビもシーリングファンも冷蔵庫も洗濯機もコンロも収納棚も一通り揃っていたので、後はトイレットペーパーや洗剤やシーツや枕やハンガーや食品や食器などの細々とした物だけ買って来れば住める。状況としてはそれで全く間違いはない。

ただ、中古物件と言うものは以前に誰かが住んでいたものであるからタイルの目地は真っ白ではないし、天井裏が多少カビ臭かったり水道の蛇口のメッキが薄くなっていたり水滴の痕もあり壁に鋲の痕やシミがあったり便座の表面は磨いた細かい傷で満たされている。そして何か得体の知れない臭いも残されているものだ。

住み始めた後は徐々にその部屋を使いながら他人の臭いを追い出しつつ自らの臭いでそこを満たしていくことになる。ドアの取っ手には自分の指紋が配水管には自分の皮脂と石鹸の混ざった滓がこびり付くだろう。壁のスイッチ周りは手垢で黒ずみ床にの隅には抜けた髪の毛が溜まる。そうして同じことの繰り返し。誰かの手垢に他人の手垢が重なり住宅は歳を重ねていく。

それは自然だ。


だが、愛妻さんはどうもそれを好まない。キッチン収納の扉を開けた時のちょっとした臭いやトイレの芳香剤と汚物の混ざった臭いほんのちょっとのカビ臭さを嫌う。収納棚にうっすらとあるシミや埃を嫌う。床タイルの目地の取れない黒ずみを嫌う。前に済んでいた誰かの残した全ての証拠を嫌う。人間のいた痕跡の全てを嫌う。残された食器はきれいであっても全て処分して新しい物を買う。キッチンで使うものは量産された新品のプラスチック製品を買う。人間の残した臭いを追い出すために化学薬品を充満させる。棚の中には発泡スチレンの防虫シートとプラスチックの容器で整理する。これは棚板に服が直接触れないためだ。こうした小さな努力によって誰かが触れたはずの部分に自分の身体や身に付ける物が触れなくて済むようにしているようなのだ。

彼女はたぶん一般的な日本の人である。こうした姿を見ていると我々日本人は中古住宅に住むことはできないのだろうと感じられる。いくら耐用年数の長いストックとしての住宅を造っても新しい住宅を選ぶのだろうし、万一中古を選んでもそれは予算の問題かテンポラリな用途として考えているためだけなのかも知れない。(調査に基づいて言っているのではない。)最近テレビでよく紹介される団地やマンションを再生する試みでも構造体以外の部分を全て新品に換えてしまって、つまりは以前に住んでいた他人の臭いも手垢も全て取り除くかそう言ったものに触れなくて済むようにほんのちょっと浮き上がった位置に住まわせる工夫が成されている。

日本人にとって住まいに歴史は不要なのだ。

2009/10/17

ひばりが丘団地ストック再生実証試験棟を見学

友人のS氏の手配でひばりが丘団地の実験棟を見学させていただいた。

この実験棟は既存の団地再生に対しての"技術的"検討と言うことで、建築と言うよりは建設の範囲の実験棟のようだった。ただ、改造されたいくつかのタイプの居室はよく出来ていて、試しに少しの間住んでみたいとも思えるようなものだった。しかし、これらに本気で住む人だったら収納が少ないなどと細かいことを言うだろうし、購入を考えるのであれば将来子供が育ったときに部屋数が少ないなどとも言うだろう。プランはどちらかと言えばキッチネット付きホテルかテンポラリー用途のコンドミニアムのようなもので、家を持ちたいと思わず、身の回りの状況が変わったら移動することを厭わない自分のような人間には悪くない部屋だと思う。ただし、家賃が充分に安いのであればだが。

(だが、既にそれ以外の方法をいろいろ知ってしまっている身には光熱費や管理費の心配をしながらこれに10万円以上の家賃を毎月支払って住み続けるのはどうなのかと思えても来る。同じ値段ならどこかのビーチフロントの掃除も光熱費も心配せずに住むホテルに居たいだけ居るのとどちらが良いのかと思ってしまうと言う意味であって、通勤に便利だからここを選んでできれば一生、と言うような感覚ではない。)

技術的検討が主と言うことなので、この実験棟についてデザインがどうのと言うのは間違いだと思われるが、見た目は一見100年前のバウハウスデザインのようだった。すっきりしているが、う~ん....。もう一つはこのモデルハウスが共用廊下が足されている以外どれもその内部にのみ注力しているために、住戸がやはり鉄の扉で個々に閉じられているスタイルに何の変更も加えていない、いや多分検討すらしていないのだ。今の状態で見た目の商品性が上がっても50年後にはやはり孤独死はあるだろうと予測できるし、1F部分の住戸を集会上にコンバージョンしたとしてもそれがどう使われるかは未検討のままである。建築ではなく建設の実験なのであるから現時点では仕方ないのだろうと思う。もちろん建設と言う面でのいろいろな実験をこうした形でしてみた事については素晴らしいことだ。

2009/10/05

Cave-dwellers

Cave-dwellers : 穴倉生活者

日本人は穴蔵に住んでいる。

その穴蔵の中でビクビクと怯えながら生きている。
小穴から外の様子をうかがっている。
小穴とはテレビとかインターネットとかそう言ったものだ。
新聞でも雑誌でも良い。

頑丈な扉で閉ざされたその穴蔵に入れば生きていくために必要な物は全てある。
時々の補給を怠らなければその穴に何年も籠もっていることができる。
誰とも会う必要はないし、誰かの侵入を心配することもほとんど無い。
実際にそうして籠もって生き続けている人も多くいる。
だから穴蔵の内部は完璧である。
その意味では最新の原子力潜水艦の内部空間に近いかもしれない。


これは特別な誰かの事ではない。
引きこもりと言われる得意な行動を信条として生きている人たちだけの事ではない。
日本人ならほとんど誰にでも当てはまる。

我々はいつもビクついて生きている。
他人がどうであるか、社会がどう流れているか、何が流行しているか、みんなはどう思っているか。
そして他人が自分をどう見るか。

流行の服を身につける。流行の物を持つ。誰もが知る大学に入る。誰もが知る会社に入る。資格を取る。目立つ行動や言動を慎む。生活や身だしなみや行動や持ち物や言動など、全てに他人から見てみっともないと思われないかどうか自分自身をチェックする。良いも悪いもプラスもマイナスもポジティブもネガティブもその方向は誰かによって決められていてそこから外れる事のないように気をつける。自分には関係ないと思っていても成功と言うものや理想や上下関係などを意識しているのならば、そこから逃れることはできない。そうして一生ビクビクしながら生きていかなければならない。


そんな生き方にとって現在の日本の住まいは最適だ。穴蔵は最適だ。たくさんの収納、広いキッチン、便利な家電製品、快適な家具、そうした内向きの完璧さが丁度良いのである。


さて、それが未来においてもこのままで良いだろうか。怯えながら暮らしているうちに世界はどんどん変化して小穴から見える世界はどんどん先に行ってしまうだろう。そんなつまらない事に気を取られている暇は無いのではないか。他人の評価にビクついている暇があったら何か自分でする事があるのではないのか。生き方が先か、建築が先か、それはどちらでもかまわないが何か先に進める必要はあるだろうと思う。穴蔵を出て光の当たる場所に出るべきなのだろうと思う。

2009/09/08

Y150


帰国したので横浜をぶらついていたら開港150周年記念イベントをやっていた。クモのよううな大きな機械が動いているのが見えたが、それがこの会場のメインの出し物だったらしい。けれども別のところが気になってそれどころではなかった。一体これは何がデザインされていると言うのだろう? 三角コーンが赤でなくて青なのはこれも会場設計の一部であるからなのか?

2009/08/26

ちょっとした工夫


KLモノレールのImbi駅前にある集合住宅をモノレールのホームから写したものである。この下の部分は商業施設になっているが今は寂れてしまったようで人の出入りは少ない。

ご覧のように規則的なグリッドを用いて造られた建物であるが、柱や梁の一部を抜いたり付け加えるなどのちょっとした工夫をする事でこの外観形状を得ている。外側に突き出た部分に住人がガラスで部屋を付け足すなどの改造も行われているようだ。また壁に相当する物が全く見られなくて、構造らしき物で囲まれた穴は全部ガラスで塞がれている。

構造をいじっているので"ちょっとした"工夫とは言えないかも知れないが、構造の上での余裕の範囲でやっているのだろうか。古い建物であるとは言え、よく見ればなかなか可能性を感じる方法ではないかと思える。

2009/08/19

風水により


このKL中心部の比較的新しい大規模ショッピングモール"Pavilion"の前にガラス製の噴水が置かれた。夜になると内側から光を発するので色が変化して見えるもの。ただこのショッピングモールのデザインとどう調和するかと言う問題は考えられなかったようで、どうみてもグロテスクだ。

もう一つ、言われなければわからないのは、これが風水によるものだと言う事。風水では水は富を集める力があるとされているそうだ。そして噴水を外側から内側に噴射するのは富、つまりお金が外側へこぼれ落ちないようにと言う意味である。手前の赤い(これもお金に関係ある色であるのが同じ意図によるものかどうかは知らないが、)看板には、コインを投げ入れろと書かれている。「さあ、みなさんここにお金をたくさん落としていってくださいな」と言うように感じられて興醒めしてしまうような感じがしないでもない。日本にも招き猫と言うのがあるが、似たような発想なのだろうか。

いつでも建築には費用がかかるのであるから、どうしても費用対効果がクローズアップされるのは仕方ないのかも知れない。それは建築に限らず教育でもキャリアでも何でも結局投資した以上に儲かるためにする事で、それがすなわち成功と言うような言葉で表現されるものであろう。そのため世の中には引っ張る力ばかりが多く働いているように感じられる。豊かになればなるほど誰もが自分の方に富を引っ張り込もうとして動く。

幸いにして我々日本人はそう言う時代をもうずっと以前から経験してきている。自分の方に引っ張るための事は何でもかんでもいろいろやった。エコノミックアニマルと言われた事もあった。そうした過度の引力による破綻も経験している。しかし、それで得られたものは何だったかと言われると心許ない少しの答えが出るだけだ。

そろそろ引力ばかり発生していた事に反省してその逆を行ってみる時期ではないかと思う。思い切り外に対して噴射する噴水を置く時代ではないのだろうか。

2009/08/14

未分化 not equal 未熟


「幕の内弁当のような」と言うと、一つの入れ物の中にいろいろ入っていて一つの完結性の高い世界を構成していると言う意味である。ところで、我々が普通に弁当を作る場合でもやはり幕の内的なやり方を自然にしていると言うことを意識するだろうか。多分そう言うことはないだろう。

以前に台湾にいた時、やはりそこにも弁当と言うものはあった。味は別として材料になるものは同じようなものだ。主食は白米、おかずには唐揚げや肉や魚、そして副菜と漬物などである。ただ、同じような材料を使った弁当であってもそれは絶対に幕の内弁当にはなる事が無いのだった。

それは何故か?

各々を分けて配置すると言う指向が無いからだ。白米の上に主菜と副菜が乗せられていて蓋を閉めるとそれが渾然一体となり、まるでそれがたった1つの食べ物であるかのような弁当になる。だから絶対に幕の内弁当にはならないのだった。後に彼らもそれに気付いたらしく、日式の弁当としてコンビニで売られるようになった。もちろんそれは単に弁当箱に仕切りが付いただけなのだが。

そう言う状況を見て、どちらがどうだと判断するのもまた常である。どちらの弁当が美味いか、それは単に学習の結果から出る結論であって決して本質的な議論となるようなものではない。その弁当の所属する国の経済なり社会の状況がどちらの方が良いから、簡単に言えば進んでいるとかいないとか、と言うような事で判断すべきでも無いのだが往々にして勘違いをしたがる人は多い。


この写真のような所が日本にあったとしたら、それは何と呼ばれるだろうか。その名称は多くあるのだろうが、その名は決してポジティブな響きを持ったものでないだろう。そしてある場合においてはそれを課題視することは多々ある。ある場合の中には建築と言うものも含まれる。課題視するのはそこに何か解決すべき問題があると感じるからであろうし、実際に問題が何も無いこともないだろう。

ここで建築になにができるか?と考える。ほとんどの場合、問題視した時点で答えは用意されてしまっている事が多い。答えは十中八九、幕の内弁当になる。それをする本人が気付いているかいないかに関わらず。建築と言う範疇において、そんな基本的なガッカリはどんな場合でもしたくないものだと思う。


デザインとか解決方法とかそんな事の前に自分がどの地面に立って物を言っているのか、弁当でも食べながら考えた方が良い。その場所に問題があるのか、それともそれを問題と思う自分に問題があるのか、そちらの方がずっと大きな問題なのではないだろうか。



写真
左上:歩道が食事の場になっている。
右上:市場。パラソルとテーブルや台が折り重なるように配置される。
左下:道路上の屋台。このうちのどこかで買って道の反対側の食堂に持ち込んで食べても良い。道には車も通る。
右下:屋台村。中心の大木が木陰を作る。

2009/08/09

結晶


結晶したような建物。
KLにはこう言った形の建物がたくさんある。
いろいろな対称形、こんな形を造っていたら日本では落第だけれど。

久し振りの建築の雑誌

KLに来てから日本語の本など見る機会がなかったが、先日KLCCの紀伊國屋書店で(日本の)建築関係の雑誌を久し振りに見ることができた。KLの書店ではほとんどの書籍、雑誌がビニル袋に閉じられているので、有っても中まではなかなか見られないのだが、たまたまその1冊だけが閲覧可能になっていた。

久しぶりに建築の雑誌を見ると、何だかとたんにウンザリした気分になってしまった。ヨーロッパの有名建築家の真剣な眼差しは良いとして、その後のページの何んだか白っぽいページ、白っぽくて複雑っぽい模型、白っぽいデザイン画、その中のフニャっと曲がった細い線と破線やインポーズされた人物らしき形、正面を向いて写真を撮られているボサボサ頭の誰か、とても見ていられなくて閉じてしまった。

何か心が萎んだ感じがした。


今日、近くの小さな公園だか空き地だかにあるバンヤン樹のスダレのように垂れ下がった細い根の隙間から雲の多い青空がのぞいていた。久し振りに見たような気がした。