11月17日の試験分の受験票3枚が到着した。
11月17日(土)
1時限 構造力学Ⅰ
2時限 建築材料学
3時限 都市計画学
試験まで約2週間、今日から試験勉強を始めることにする。
新ブログ「もんく+a : reloaded」へ移行し、建築仲間Team OBASUの活動記録を投稿します。
リンクは右の欄のリストにあります。
(2021年~)
アイデア等全てのコンテンツの引用やコピーはご自由に。
コンテンツ概要
2009~2013年:建築物と建築についての雑記です。
2007~2009年:大学の課題に関するノートです。
2007/11/05
風の塔 伊東豊雄 その2
私が存在すら気付かなかった風の塔の周辺風景の写真を掲載しておく。
遠近感がわかり辛いが、バスターミナルの向こう側にありホテルの側壁や家電量販店の入り口よりはずいぶんと手前側に位置する。写真は駅側から撮影。下の航空写真を拡大すると位置を確認できる。
拡大地図を表示
最上段の写真は横浜駅から、つまり南東(航空写真の右下)方向から北西方向を撮っている。
自分が依頼されたらここにどんな換気塔を建てるだろうか?
2007/11/04
風の塔 伊東豊雄
横浜に寄ったついでに「風の塔」を見てきた。
横浜駅西口の正面にある換気塔である。
こんなに目立ち易い位置にあるのに、そして何十回も何百回もこの前を通っているにも関わらずこの塔を意識して見た事は無かった。テキストや伊東豊雄の研究のために参考書で見て始めてそこにそれが在った事に気付いた。
今日は少し明るいうちから暗くなるまで少しの間観察してみた。
明るいうちは単なる灰色の円筒である。堂々と聳えるシェラトンホテルと昼間でもギラギラした家電量販店に挟まれて全く目立たない。本当にこれが風の塔かと疑いたくなるほどに地味である。
辺りが暗くなり始めると少し光を放ちはじめたか、それとも周囲のネオンが反射して見えるのかわからないほど微妙に光り始める。まだ目立たない。
さらに暗くなると内部から明らかに青い光がちらつき始めた。少し経過すると今度は緑の光が漏れ始める。そうなるとパンチングメタルで作られている事がやっと判明する。そして外皮を支えるフレームもその他の内臓も全てが浮き上がって見えてくる。
それでもこの横浜駅周辺が明るいせいかあまり目立つとは言えない。
これなら気付かなくても当たり前かもしれない。
風の塔は周囲の風や気温によって光り方を変えるそうだ。
それをしばらく見ていたのであるが、それは一体何のためであるのかと言う事。風の吹き方や気温、それを光り方に変えて表示しても見ているこちらは特別楽しくも何ともない。自分だけかと思い回りを見てもこの塔を気にしている人は誰もいない。よくわからなくなる。
都市の情報を取り入れる。それに反応する事で逆に情報を発信する。しかしそれを誰も望まない、気にするほどの情報でないとしたならは、それは単なるノイズであろうか。ある人にとって有用で、ある人にとって無用であればノイズでも発信する可能性はある。飛行機の為の信号は飛行機を操縦する人にとってだけ有用だ。イタリアのブランド名は好きな人、その名を利用したい人にとっては有用であるが、興味のない人にはノイズである。
有用でないにしても楽しいなど、情動を煽るものである場合もある。
表情のあるロボットは入院中の人の心を癒すそうだ。自分の発信した情報(表情や声やしぐさ)に反応してくれるだけでもそれは情報として有用であろう。
風の塔が単なるコンクリートの筒であってもこの環境に与えるものは同じであったろうか。
逆にもっと積極的にこちらに何か発信してくれたらどうだろう。大きな音をたてたら強く光る。車が渋滞していたら赤くなる。駐車場が満杯なら青くなる。時々瞼(まぶた)を開いてこちらを見る。定時にベルを鳴らして時刻を教えてくれるようなものだったら。
しかしそう言うものは他にある。新宿の目、川崎アゼリア地下街入り口の人形が踊る時計、他にもいろいろある。ただ風の塔ほどフレキシビリティが無いのだが。フレキシビリティなら流れるネオンの広告塔や大きな映像を映せる新宿アルタのスクリーンはどうだ。逆に何もしてくれないのにそこにあるだけで良い、東京駅の銀の鈴はどうだろう。風の塔とどちらが良いか。
結局よくわからないままである。
以前、香港映画「2046」を見たが、この映画は叙情詩である。しかも個人的すぎるほどに個人的な詩なのである。それを表現するのに映画と言う技術を使って見せるのであるが、見せられた方はそれに対して特別何も無い。だから印象に残るものも無い。
この風の塔は「2046」と似ているのではないか。そう思った。
建築家の心情は、それを見ている多くの人間のそれとは無関係である可能性は大いにある。
2007/11/03
安藤忠雄講演会のチケットを買う
安藤忠雄講演会
「世田谷・東京~美しいまちづくりへ」
11月8日(木) 18:30~
世田谷区民会館ホール
1000円全席自由(チケットぴあ)
(11/3の昼少し前時点ではまだ200席以上空いていた。)
詳細は世田谷区のHP
(イベントカレンダーの11月8日をクリック)
安藤忠雄の建築については未だ研究だが、見た感じからは「どうなんだろう?」と思うものが多い。先日読んでいた黒川紀章の書いた本にも安藤建築について「どこで何を造っても同じように見える」との記述があった。確かにどれを見ても建築家の個性が見えるものになっている。
講演のお題が「美しい...」であるが、建築家の個性を表現する事と美との関係はどう解決されているのか。そして最近の建築家さんたちは東京に「美」と言う言葉を使わないようであるが、ここでこの言葉を使われるその意味を知りたいとも思う。
モダニズム時代の建築家であれば、都市の理想像に対するアプローチであったり、客観的な美のヒエラルキーを念頭に置いて建築する事もあったであろう。しかし、その後東京の都市の成り立ちを考えると必ずしもそれが当てはまらないと言う見解に達しているし、また別の見方をすれば「あきらめ」のようなものもあると思う。
そこに「美」と言う言葉を持ち込むのはどう言うことなのであろうか。期待したい。
「世田谷・東京~美しいまちづくりへ」
11月8日(木) 18:30~
世田谷区民会館ホール
1000円全席自由(チケットぴあ)
(11/3の昼少し前時点ではまだ200席以上空いていた。)
詳細は世田谷区のHP
(イベントカレンダーの11月8日をクリック)
安藤忠雄の建築については未だ研究だが、見た感じからは「どうなんだろう?」と思うものが多い。先日読んでいた黒川紀章の書いた本にも安藤建築について「どこで何を造っても同じように見える」との記述があった。確かにどれを見ても建築家の個性が見えるものになっている。
講演のお題が「美しい...」であるが、建築家の個性を表現する事と美との関係はどう解決されているのか。そして最近の建築家さんたちは東京に「美」と言う言葉を使わないようであるが、ここでこの言葉を使われるその意味を知りたいとも思う。
モダニズム時代の建築家であれば、都市の理想像に対するアプローチであったり、客観的な美のヒエラルキーを念頭に置いて建築する事もあったであろう。しかし、その後東京の都市の成り立ちを考えると必ずしもそれが当てはまらないと言う見解に達しているし、また別の見方をすれば「あきらめ」のようなものもあると思う。
そこに「美」と言う言葉を持ち込むのはどう言うことなのであろうか。期待したい。
2007/10/31
黒川紀章 その7
現代建築論のための黒川紀章に関するレポートがほぼまとまった。
1000字は少ないので何時も通り論点を一つに絞って書いた。採り上げる建築物も国立新美術館と日本看護協会原宿会館に絞る。
黒川紀章建築にあるあの「よく分からない空間の存在」を問題にする。
よくわからない空間とは国立新美術館のうねるガラスで覆われたロビーと日本看護協会原宿会館の正面階段である。どちらも効率と言う面では無駄なのである。東京と言う地価の高い都市においてはほとんど何も価値を産まないであろうあの空間をなぜ作ったのか。
19世紀ヨーロッパでは都市は王侯貴族のものであった。現在の東京は大規模開発が行われ派手な宣伝活動とともに報じられる。つまり資本家や企業のものであったり、ひいてはお金のものと言うことになる。それはそれで我々は楽しめるのかも知れない。現に多くの人がそういった商業施設を訪れる。そして高価な物を買い、話題の店で食事したりしている。企業は我らを飽きさせないために次から次へと新商品や新サービスを考え出して宣伝する。
それもお金があるうちであるし、飽きないうちなのであって、実際に人間としての生活とは無関係のお祭り騒ぎ、レジャーでしか無いのである。
これからの人間の生活や生き方を考えた場合に、それで良いのだろうか。
人間はプログラムされた機能的な動きややり方をずっと続けて生きるのではなく、思いも寄らぬ「何か」との偶然の出会いによって突然変異(黒川によれば「メタモルフォーシス」)するのである。
あの「よくわからない空間」はそんな「何か」のためのものであり、これからの都市と言うものの在り方への「答え」なのだ。
黒川紀章は本質的な人間の生物としての「進歩」や「向上」を信じているのであろう。人間がこのままでいるはずは無いと。そしてもっと良くなるであろうし、その意志を秘めているであろうと。
参考資料
「黒川紀章ノート 思索と創造の奇跡」 黒川紀章 同文書院
「別冊 新建築 黒川紀章」 新建築社
「<現代の建築家>黒川紀章2」 鹿島出版会
「黒川紀章作品集 代謝から共生へ」 美術出版社
「建築の詩」 黒川紀章 毎日新聞社
「花数寄」 黒川紀章 彰国社
....
レポートのための文章より後に書いたこちらの文章の方が良い部分もあるので置き換えようかと思った。そう言うこともあるものだ。
1000字は少ないので何時も通り論点を一つに絞って書いた。採り上げる建築物も国立新美術館と日本看護協会原宿会館に絞る。
黒川紀章建築にあるあの「よく分からない空間の存在」を問題にする。
よくわからない空間とは国立新美術館のうねるガラスで覆われたロビーと日本看護協会原宿会館の正面階段である。どちらも効率と言う面では無駄なのである。東京と言う地価の高い都市においてはほとんど何も価値を産まないであろうあの空間をなぜ作ったのか。
19世紀ヨーロッパでは都市は王侯貴族のものであった。現在の東京は大規模開発が行われ派手な宣伝活動とともに報じられる。つまり資本家や企業のものであったり、ひいてはお金のものと言うことになる。それはそれで我々は楽しめるのかも知れない。現に多くの人がそういった商業施設を訪れる。そして高価な物を買い、話題の店で食事したりしている。企業は我らを飽きさせないために次から次へと新商品や新サービスを考え出して宣伝する。
それもお金があるうちであるし、飽きないうちなのであって、実際に人間としての生活とは無関係のお祭り騒ぎ、レジャーでしか無いのである。
これからの人間の生活や生き方を考えた場合に、それで良いのだろうか。
人間はプログラムされた機能的な動きややり方をずっと続けて生きるのではなく、思いも寄らぬ「何か」との偶然の出会いによって突然変異(黒川によれば「メタモルフォーシス」)するのである。
あの「よくわからない空間」はそんな「何か」のためのものであり、これからの都市と言うものの在り方への「答え」なのだ。
黒川紀章は本質的な人間の生物としての「進歩」や「向上」を信じているのであろう。人間がこのままでいるはずは無いと。そしてもっと良くなるであろうし、その意志を秘めているであろうと。
参考資料
「黒川紀章ノート 思索と創造の奇跡」 黒川紀章 同文書院
「別冊 新建築 黒川紀章」 新建築社
「<現代の建築家>黒川紀章2」 鹿島出版会
「黒川紀章作品集 代謝から共生へ」 美術出版社
「建築の詩」 黒川紀章 毎日新聞社
「花数寄」 黒川紀章 彰国社
....
レポートのための文章より後に書いたこちらの文章の方が良い部分もあるので置き換えようかと思った。そう言うこともあるものだ。
黒川紀章 その6
黒川紀章は分かり難いかと思えば逆で、説明し易いのかもしれない。
それは理論がよく練られていて最後には単純な結論に達するほどのものである事、そして人間の内側から発する「美」を言わないからであろうか。芸術家としての建築家と言うより、どちらかと言えば社会派なのである。
黒川紀章の建築について書くことが頭の中でほぼ決まったので、今日は図書館で写真資料になるものを借りてきた。書く内容はまた別の記事に上げることにしたいが、メインはやはり分かりやすい六本木の「国立新美術館」にしようと思う。これと、以前に見学したル・コルビュジエの上野の国立西洋美術館と対比して補足するつもりである。
レポートに書きたい内容を簡単に言えば、ル・コルビュジエの西洋美術館には絵を鑑賞する目的がある人しか利用しないが、黒川紀章の国立新美術館はそうではないだろうと言う事。国立新美術館を物として見た場合にはそれほどでも無いかも知れない。伊藤豊雄のそれほど派手でも新しい仕掛けがあるわけでもない。ギャラリとしての機能をきっちり持たせた四角い入れ物、そこにあのうねるガラスをはめ込んだだけで、どちらかと言えば目新しくは無い。
それでも他の美術館よりはずっと多くの人に利用されるであろうと言うところがミソだ。
それは理論がよく練られていて最後には単純な結論に達するほどのものである事、そして人間の内側から発する「美」を言わないからであろうか。芸術家としての建築家と言うより、どちらかと言えば社会派なのである。
黒川紀章の建築について書くことが頭の中でほぼ決まったので、今日は図書館で写真資料になるものを借りてきた。書く内容はまた別の記事に上げることにしたいが、メインはやはり分かりやすい六本木の「国立新美術館」にしようと思う。これと、以前に見学したル・コルビュジエの上野の国立西洋美術館と対比して補足するつもりである。
レポートに書きたい内容を簡単に言えば、ル・コルビュジエの西洋美術館には絵を鑑賞する目的がある人しか利用しないが、黒川紀章の国立新美術館はそうではないだろうと言う事。国立新美術館を物として見た場合にはそれほどでも無いかも知れない。伊藤豊雄のそれほど派手でも新しい仕掛けがあるわけでもない。ギャラリとしての機能をきっちり持たせた四角い入れ物、そこにあのうねるガラスをはめ込んだだけで、どちらかと言えば目新しくは無い。
それでも他の美術館よりはずっと多くの人に利用されるであろうと言うところがミソだ。
2007/10/28
黒川紀章作品見学ツアー
個人的、黒川紀章作品見学ツアーに行ってきた。
うりきり屋
築地にある小さな陶磁器屋さん。
立面が特徴的。
WINS銀座
これも立面が特徴的。
中身は地階から6Fまで何も変わらない。全て馬券売り場。表裏通り抜けできる。
スパッツィオ・ブレラ銀座
今日は上階が貸切だったので残念ながら外観のみ。
青山ベルコモンズ
側面の棚状の部分が(我々観光客の為のものでなく)そこに住んでいる人の為のものだと感じさせる。昔の青山はこんなに騒がしい街ではなかったのかもしれない。
日本看護協会原宿
これは国立新美術館に近いやり方。中央に何のためにあるのか分からない階段があって、その上にカフェがあった。商売のために開放していると言うより、休憩所を提供しているよう。しかし裏に抜けていないのは観光客を路地に入れない配慮だろうか。
国立新美術館
雑誌では晴れた昼間の写真が多かったのでわざわざ夕方から夜を見てきた。写真で見ると壮大で近寄りがたいものかと思っていたが、ゆったりした感じがする外観。ざっくりすっぱり単純に作った感じがする。
その他
TOD'S表参道(伊藤豊雄)
築地本願寺
これはすごく面白い建物。
初期インド仏教建築風にデザインされたと書かれていたが、どうもそれだけでは無さそう。
テアトル銀座
菊竹清訓氏の作品で、側面への光の当たり方が特徴的。
うりきり屋
築地にある小さな陶磁器屋さん。
立面が特徴的。
WINS銀座
これも立面が特徴的。
中身は地階から6Fまで何も変わらない。全て馬券売り場。表裏通り抜けできる。
スパッツィオ・ブレラ銀座
今日は上階が貸切だったので残念ながら外観のみ。
青山ベルコモンズ
側面の棚状の部分が(我々観光客の為のものでなく)そこに住んでいる人の為のものだと感じさせる。昔の青山はこんなに騒がしい街ではなかったのかもしれない。
日本看護協会原宿
これは国立新美術館に近いやり方。中央に何のためにあるのか分からない階段があって、その上にカフェがあった。商売のために開放していると言うより、休憩所を提供しているよう。しかし裏に抜けていないのは観光客を路地に入れない配慮だろうか。
国立新美術館
雑誌では晴れた昼間の写真が多かったのでわざわざ夕方から夜を見てきた。写真で見ると壮大で近寄りがたいものかと思っていたが、ゆったりした感じがする外観。ざっくりすっぱり単純に作った感じがする。
その他
TOD'S表参道(伊藤豊雄)
築地本願寺
これはすごく面白い建物。
初期インド仏教建築風にデザインされたと書かれていたが、どうもそれだけでは無さそう。
テアトル銀座
菊竹清訓氏の作品で、側面への光の当たり方が特徴的。
2007/10/27
2007/10/25
黒川紀章から伊東豊雄を振り返って見る
黒川紀章を読んでいたら、伊東豊雄の文章が気になった。
伊東豊雄の文章に出てきた幾つかの単語が黒川紀章の定義したものだと分かったからだ。
例えば「ノイズ」。
黒川紀章はこれを、メタモルフォーシス(突然変異)のきっかけになる何かと定義している。中間領域、あいまいな場所のようなところで偶発的にその何かと出会う事で突然変異が起こる。固定した機能を持たない場所では予期せぬ何かが、偶発的な出会いによって変化する。取るに足らないと思われた何かと遭遇する。その何かをノイズと表現している。情報化社会においては情報がノイズとなる場合もあると言うことだ。
例えば「ノマド」。
黒川紀章のノマドはその名の通り「遊牧民」を指す。
人間をその生活パターンで分類すると、一般に「農業従事者」と「商工業従事者」は違うと考えがちであるが、これは同じである。決まった時間に決まった事をして生活を成り立たせているからである。
遊牧民の生活はこれとは異なる。常に遠くの敵やオアシスについてできるだけ早く情報を得、それによってパターンを変化させなければならない。決まったパターンは通用しない。これが今後の情報化社会の人間の生活パターンと似ていると言うのである。
伊東豊雄の言葉はこれを踏まえた上でのものであった。
但し、ノイズもノマドもこの定義を知った上での集約された記号のように使っている。建築用語として使っているのである。だからノイズもノマドも分かるようで分からない。
建築家や批評家の書く文章で、何時も迷惑に思うのはこの事だ。その世界の人間でないと定義が分からない業界用語になってしまっているからだ。建築関係の書籍や雑誌と言うのはほとんどがその業界の人間か、建築を学ぶ学生か、もしかしたら建築オタク(のような人間がいるのかどうか分からないが)が読むものになっている。一般人が読んで楽しいものでは全く無い。
だからこそ、こう言うわからない言葉が通用するのだろう。建築を学ぶ学生はそういった特殊な世界に憧れて一所懸命に単語を覚えて、早くこう言った小難しい議論に参加したいと願うのかも知れない。(何と従順なのだろう。)
その点、黒川紀章の言葉にはそういった業界用語が少ない。多分建築家の中にあって極端に少ないのではないか。なぜなら彼はその言葉を定義しながら作る立場であろうとしたからかも知れない。だから黒川紀章の文章は読み易い。
伊東豊雄の文章に出てきた幾つかの単語が黒川紀章の定義したものだと分かったからだ。
例えば「ノイズ」。
黒川紀章はこれを、メタモルフォーシス(突然変異)のきっかけになる何かと定義している。中間領域、あいまいな場所のようなところで偶発的にその何かと出会う事で突然変異が起こる。固定した機能を持たない場所では予期せぬ何かが、偶発的な出会いによって変化する。取るに足らないと思われた何かと遭遇する。その何かをノイズと表現している。情報化社会においては情報がノイズとなる場合もあると言うことだ。
例えば「ノマド」。
黒川紀章のノマドはその名の通り「遊牧民」を指す。
人間をその生活パターンで分類すると、一般に「農業従事者」と「商工業従事者」は違うと考えがちであるが、これは同じである。決まった時間に決まった事をして生活を成り立たせているからである。
遊牧民の生活はこれとは異なる。常に遠くの敵やオアシスについてできるだけ早く情報を得、それによってパターンを変化させなければならない。決まったパターンは通用しない。これが今後の情報化社会の人間の生活パターンと似ていると言うのである。
伊東豊雄の言葉はこれを踏まえた上でのものであった。
但し、ノイズもノマドもこの定義を知った上での集約された記号のように使っている。建築用語として使っているのである。だからノイズもノマドも分かるようで分からない。
建築家や批評家の書く文章で、何時も迷惑に思うのはこの事だ。その世界の人間でないと定義が分からない業界用語になってしまっているからだ。建築関係の書籍や雑誌と言うのはほとんどがその業界の人間か、建築を学ぶ学生か、もしかしたら建築オタク(のような人間がいるのかどうか分からないが)が読むものになっている。一般人が読んで楽しいものでは全く無い。
だからこそ、こう言うわからない言葉が通用するのだろう。建築を学ぶ学生はそういった特殊な世界に憧れて一所懸命に単語を覚えて、早くこう言った小難しい議論に参加したいと願うのかも知れない。(何と従順なのだろう。)
その点、黒川紀章の言葉にはそういった業界用語が少ない。多分建築家の中にあって極端に少ないのではないか。なぜなら彼はその言葉を定義しながら作る立場であろうとしたからかも知れない。だから黒川紀章の文章は読み易い。
黒川紀章とパン屋
現代建築論のために黒川紀章を読みながら、次の課題である建築設計Ⅰ-2のヒントを無意識に探してしまう。
今までは順序として近代に触れる事が多かったのだが、黒川紀章を読んでやっと近代とその後との「継目」に触れることができた気がしている。同じメタボリズムの他の建築家からは黒川紀章ほど強烈で明確な継目を意識はできなかったのだが。
ところで、上の絵は「黒川紀章ノート」を読みながら建築設計Ⅰ-2(パン屋の設計)のために書いたメモ。(本にはパン屋の事は書かれていない。)
パン屋をパンを作って売るだけの機能として捉えるだけにはしたくないと思っている。最近は個人経営のパン屋でも、ドアを入ると「いらっしゃいませ」で始まるコンビニやファストフード店と同じ接客をする店が多い。そのやり方は確かに無難で不可はないのだが、それでは単にパンを買う機能を果たしているに過ぎない。人間が動かしている自動販売機みたいなものだ。
そう言う店は買わないで通り過ぎる人間にとっては無である。毎日歩くその道にある個人経営のパン屋が通路の壁であってはつまらないだろう。
生活の側から見ればパン屋はその一つの部分であるし、街の機能から見ても部分である。そして店の場所はその繋ぎ目なのである。パン屋を営む人間から見でば、パン屋は外の世界と生活の繋ぎ目である。自営業は生活を業務の区別はサラリーマンのようにハッキリ分ける事はできないものであるから、店を単なる収入のための道具と割り切る事はできないはずだ。
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