2007/04/16

アノニマス建築

アノニマス建築とは何だ?

●anonymous(英単語)
[形]匿名(性)匿名の、無名の、無記名の、名を伏せた、無著者名の、作者不明の
[名]匿名

●建築用語サイト:名のある人の手によらないこと、無名の人たちの手によることを示す語。

Web上でいろいろ書かれているのと読んでみたら「アノニマス」と言う言葉が一人歩きしてしまっているように見えた。「無表情」「無個性」のように使われているのがほとんど。


SD選書184 「建築家なしの建築」(鹿島出版会)
このあたりの解説が参考になるかもしれません。

「伝統を共有し、経験の共同性に基づいて働く、全住民の自発的継続的な作業によって生み出された共同作品(バーナード・ルドフスキー)」としての建築。->アノニマス建築。
経済性、美しさなどを恣意的に求めて作られる建築でなくてもっと風土に即した建築、生活の実感やその知恵の積み重ねから自然に産まれた建築。

これに相対するのは「建築家個人の仕事としての建築」かな?



疑問
セキスイハイムM1のように、時代背景から工業的生産を目的に企画され実際に作られる時には施主がその仕様を自らの使い勝手の良いように決めるタイプの住宅はアノニマス建築に入るのか?

ツリーハウス

図書館で「ツリーハウスで遊ぶ(TREEHOUSES)」(二見書房)を借りて読んだ。

何てロマンチックなんだろう、樹上の家なんて。
こんな家で暮らしたら楽しいだろうなあ。

「最近はインターネットがあるからどこにいても仕事できる」なんて言っているくせに本当にそれを実現する人はいない。ちょっと前のIBMのテレビCMで砂漠の真ん中に事務所だか何とかセンターを...のような極端なのがあったけれども本気でやってはいないんだろう。

それとは全く反対でIT企業だったら六本木みたいに言われていたり、都心の再開発地の高層ビルの方に人気が集まっていたりする。.....バカじゃん。

2007/04/15

入学オリエンテーション終了

主な疑問点解決項目
1.質問表やレポートに同封する返信用封筒(質問表など)も第四種扱いになる。
2.終末試験の回答文字数の指定は無い。1問あたり30分以内で書ける範囲。
3.終末試験の持込可能テキストは科目概要に掲載の1冊だけ。特に指定あれば別。
4.上記テキストには「学習指導書」は含まれない。特に指定あれば別。
5.レポートの書式の中に図やスケッチ資料の添付レイアウトは可。
6.スクーリングと試験会場(東京は2ヶ所)は送られてくる試験概要で都度指定される。
7.スクーリング、試験日程はWebとPALで異なるがPALが正しい。
8.スクーリング、試験のキャンセル連絡は実施初日の3日前まで厳守。

入学オリエンテーション

東京会場での入学オリエンテーションに参加します。

2007/04/14

建築計画学Ⅰのテキストで???

とりあえず最初に提出するレポートに関係のあるテキストにざっと目を通す事にし、到着したばかりの建築計画学のテキスト「建築計画学を学ぶ(理工図書)に目を通す。

「第5章 文化と建築」のところで暗礁に乗り上げる。35章293ページあるテキストのまだたった32ページのところだ。


「「住宅は住むための機械である」というル・コルビュジェの言葉は、美しく響きもするが悲しくもある。」でこの章は始まる。続けて「そこには、言葉どおりに実践された8畳間ほどのカプ・マルタン小屋と両親のために建てた小さな家が同居している。」


この文の意味、分かる?
どこが「美しく響く」のか、どうして「悲しい」のか、なぜ「2つの建築物が同居」しているのか?
建築以前に日本語として全然意味がわからない。

その後を読んで、住まいを機械のように合理的で経済的なものとして追求して行くと、それを使う人々の住まいのイメージとはズレてしまいこの「住むための機械」と言う言葉が受け入れられないものであったために「悲しい」と表現したのかと想像できた。

しかし、もしそうならその悲哀はル・コルビュジェが受け止めるべきものであって、第三者がこの工学書で言うような事ではないように思う。もしそこに触れるとすれば「悲しい」のでなくて「間違っている」とか「住む人々の思いを考慮する視点に欠ける」などとすべきでないだろうか。

だた、この「住むための機械」と言う言葉はその後の建築学の中ではどう扱われているのだろうか。これは今後どこかで分かるかもしれない。ル・コルビュジェほどの有名人ならきっとどこかで誰かが議論の対象にしているはずだから。

2007/04/13

3年次テキスト到着

3年次の科目テキストが全て到着。

建築家の仕事の範囲

「建築家の仕事の範囲」の定義は建築家とそうでない人々ではその思うところが異なるようだ。

素人から見れば、与えられた土地に許された時間とコストの範囲内で快適に使用できる建物を作ってもらうことが建築家の仕事であろう。(先日都知事選に出た黒川氏ほどになれば、一つの街をデザインするような事もあるらしいが。)



建築雑誌等の中の議論を見ていると、どうも素人が考える以上の何かがあるように見える。少なくとも当の建築家はそれが有ると考えているようだ。

例えば最近制度化されたホームヘルパーが家に入る事一つとっても「以前は玄関で住居と社会が分かれていた。しかしホームヘルパーが家に入ることがその境界をこれまでとは異なるものにした」と言うように、建築家は解釈するらしい。そこから議論は住居と言うものの再定義、はたまた地域社会や都市のデザインにまで発展してしまう。つまり、建築家の仕事範囲は住居のみに留まらずそこから外へはみ出していると捉えている。



それでは実際にはどうなっているのか。

実感としては多分、見ての通り、自治体の行う埋立地でのプロジェクトや何とかの跡地を利用した大規模再開発でも無い限り地域や都市デザインまでは行えはしないだろう。そんな大規模プロジェクトでさえ建物を作って引き渡すまでで終わりになっていて、その建物や土地の運用にまでは関与しないのであるから、数年後に思ったようにうまく行かずに廃れてしまってもそれはもう建築家とは何の関わりも無いのではなかろうか。

つまり通常は、建物を設計して作って引き渡すまでしか仕事では無いのではないか。逆に言えばそこまでしか仕事は与えられないのではないか。デザインが周囲に大きな影響を及ぼすと言う意味なら別だけれども。(これは今後の課題にしておきます。)



もし地域や都市をデザインする事までが仕事であれば、設計その他の建物に付随する以外の仕事をしている建築家は世の中にどれだけ居るのだろう。

建物を離れて路上に出ればそこには土木関係者がいるし、町並みをデザインしようとすればそこには条例や法律を立案したり施行する専門家もいる。とすれば益々建築家の議論はどう役に立つのか。また役に立たせる別の分野の仕事を自分の前に引っ張って来なければならないのではないのか。

実際に行政その他建築を取り巻く環境整備を行っている人々に建築家が何かを投げかけているのだろうか。いるにしてもそう言った(お金にならない)仕事をしようとしている建築家はどれだけいるものなのだろうか。



自らの仕事の定義と言う根本的なところから考えながら生きていかねばならぬとは、建築家は何とも面倒くさい職業に思える。

2007/04/12

建築家は多弁

建築家が書いているものを読むとかなり多弁な人が多いことに気づく。

建築に対する批評、自らの作品に対するコメントの導入部にはその建築の背景に関わる部分が必ずある。読む方からしてみたらまるで全然違う種類の書籍のエッセイが編集段階で間違って挿入されたかのような印象を受ける。アジア人がスナップ写真を見るときにまずその背景の景色を気にする。つまり誰が写っているかより、どこで写したかの方が重要なのだ。それと同じ事なのかと想像する。


建築家の文章にはそれ以外にもかなりの特徴がある。
文章の中で書かれている内容と文章から受け取れる関心度が高い項目は概ね以下のようになっている。

1.その建築を成り立たせる「理由」。
2.その建築の「芸術」的価値。
3.その建築に使われる「技術」の特徴と新奇性。

1の「理由」についてが一番多く語られるところで、その内容は、
 a.環境問題からの理由。
 b.周辺環境との整合性による理由。
 c.クライアントから要求される機能や性能による理由。
 d.災害対策による理由。
が多いようだ。
だが不思議と他の業種で問題にされる「コスト」や「耐久性(耐用年数)」などはほとんど文章に盛り込まれる事は無い。これは謎だ。


2の芸術的価値については文章の中ではそれほど多くを占める事は無いようだ。
この事について文章の中で言うとすれば「伝統」との折り合いのつけ方についてだけだろう。芸術性についてはあまり主張や評価をすると出る杭になってしまうのか、それとも建築家は芸術より技術の人であると言う暗黙の了解があるのだろうか。

3の技術についてはさらに使われる語彙数が少ないようだ。




建築に関して時間軸での評価や検証が行われないと言うのも気になる点だ。

古い建築については歴史の中での評価をする文章があるのだが、新しい建築についてはそこまで予測して述べられることが無い。

建築のプランは「これを意図して作った」と語られ、添付される写真や図もプラン段階か施工完了段階のものだ。実際に使用する人が数年使用してみてどうであったか、またはどう感じたか、新しいうちにもそのプランの意図は実際に成功するか、意図と異なる不都合が生じる可能性があるかどうかまで予測される事は無いようだ。

コンクリート作りの建築物の歴史は浅いし実際に、その材料による耐用年数とは無関係に仕様の問題やメンテナンスコストの問題から30年や40年程度で取り壊される。そう考えれば作られて最初の数年もてば後の事は考える必要もないのだろうか。10年先の使われ方や100年先の古び方などは問題ではないのかもしれない。

今だから

建築を勉強するための準備として建築関係の雑誌を読むことにした。
ハードカバーの書籍は内容がオーソライズされていて、それはそれで有用なのだけれど、そっちは大学のテキストが来てからにしようと思う。雑誌は新鮮だし、用語がわからなくても雰囲気が掴めるかもしれない。


これから勉強を始めると、どっぷりその中に入ってしまって建築やその世界について外から見る視点を失ってしまう可能性も考えられるので稚拙ながら少しでも現在思う事を書いて置こう。

Hello !

建築の勉強用に新たにブログを立上げました。