2008/11/24

人と人との間に

建築の言葉の中には「コミュニティ」「コミュニケーション」などがけっこう多く出てくる。「建物の××のようなところが○○を誘発して人と人の関係性が△△」みたいなお決まりのセンテンスも多い。深読みしせずに「うんうん、そうかも知れない」などと思って済ませてしまえばよさそうなように書かれている。万人が納得しそうな説得力と言うより、雰囲気がある場合によく使われるようだ。ちょっとその筋の人の言葉っぽくて学生なら真似したりしても良いのかも知れないが、しかしあまりに頻繁にお目にかかると.....背筋が寒くならないでもないものでもある。(ちゃんと意味を考えながら読んだらバカっぽいってことだ。)


それはそうとして、現代建築でこう言う言葉が多用されるのはわけがありそうだ。
なぜなら、もう当たり前すぎてだれも正面切って言わないが、現代建築の根本的なテーマはズバリ、「人と人の関係を築く」事だ。多分現代の全ての建築家はそのためだけに建築と言う作業をやっているようなものだろう。個別には建築家の雑誌インタビューなり著書なりを読めば皆そう言っているのでここでは省略。


さあ、その人間関係をどうやって築くかと言うことになると、実はどの建築家の言葉もとたんに曖昧になる。人と人がどうやって出会うのか、そしてそこで具体的に何を話したり行ったりするのか。そう言う記述は、実はあまりない。時々研究家の論文などで路上のある部分を定点観察したレポートなどが出る程度。

建築家はそれでも人間関係上の何か(?)が起こる場所(空間と言う)を作りたがる。これにはいろいろな作り方がある。人の動線をわざと交差させたり、機能が無くて居やすそうな場所を残しておいたりするのが代表的なやり方だろう。実際に何がそこで行われるかはわからないにしても、そう言うことは考えるのは経済万能、そして土地の値段が高い日本においてなかなかたいしたものだ。

そう言うのを当たり前に見習って、建築物の設計に「中間領域」(これは建築の用語)のような部分を入れておくのは我ら学生にとっても当たり前のようなものだが、本当のところちょっと疑問に感じるべきじゃないのかと思う。


なぜなら、根本のところで「そこで実際になにが起こるか」がわからないと言う点が問題だからだ。単に中間領域を設けるとか、広場などの快適な空間を開放する、コミュニケーションの場を設ける、コミュニティセンターを建てる、開かれた○○空間、交流のための××、ふれあい△△、イベント広場、ロビー、ホワイエ、そんな名前の付いた"物"だけで人間と人間の何かの問題を解決したような気になるのはやっぱりちょっとおかしいんじゃないだろうか。


もしその場所を設けて本当に何かが起こるように考えたのだとしたら、そこで喧嘩が起きる事を設計者は想定しているだろうか? 多分それはしないだろう。きっと牧歌的で良好な人間関係、希薄すぎもせず濃密すぎもせず、適度にプライバシーがあってさわやかな気持ちで帰っていけると言うようなものではないだろうか。

だとしたら、本当はそこでは何も起きないだろう。何事も無く無事に家に帰りつける、そこで一定の時間を過ごして多くの人に囲まれているにも関わらずほとんど誰とも口を利くことも無く家路に着く、その一歩手前の休憩所に過ぎない。「交流のための」とか、「コミュニケーションが生まれる」とかその手の言葉がある空間の説明として出てくる場合はだいたいそんなもので、実際には何の根拠も無い。


人と人との間に何かを起こすのであれば、それは時に喧嘩もあり言い争いもありではないだろうか。なぜなら、世界ではそうして多くの関係が築かれているのが実態だから。何かを本気でやろうとしたら、きっと人は人とある割合で必ず関係悪化を起こすものだろうし、それだからこそ逆に良い関係と言うのもある。それが人間の性質なのだから。


そう考えれば中間領域などと言うものは喧嘩のためのリングだと思って作るべきなのかも知れない。

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