2008/10/23

試作




線はそれぞれ川崎の姉妹都市への方位を示す。
地区内部通路を人と時間が作ったこの地区独自の座標と捉え、その交点となる11ヶ所の分散点から姉妹都市への方角へラインが延びるようにした。加えて、実際のこの地区への入り口を切り欠き状に表す。線と線の隙間にあたる多角形の部分は建物の屋上に降りられたり、そこに床を入れて緑地その他にすることができる。

2008/10/20

ハコハコ



「ハコハコ」のテーマは箱型です。集合住宅の姿を想像したときに誰もが思い浮かべるもっとも普遍的なかたちとしての箱型。その箱型に対し新しい解釈を導入して現代的な箱型集合住宅のコンセプトを提案してみました。「ハコハコ」では、何の変哲もない箱型の住戸を外部から変形させて、内部の空間に影響を与えています。内部空間は直方体の単純さから開放され、高さ幅ともに自由な構成となるため、箱型空間の新しい可能性を体験できるでしょう。


参考資料
イエノイエ


追加
近代以降の建築のやり方では中身が外に現れるように行われていたのですが、イエノイエでは街から見た"家"と言う形から入っています。人にとって中身は第一に大切だけれど、街も同じように大切だと思えば家の内と外は実は等価かも知れない。そしたたイエノイエのようなアプローチは近代、現代の建築のアプローチの延長上にあるとも言える。

でも、五角形の家の形が普遍的と感じられるなら、平成産まれの東京育ちの子供たちには箱型が実は普遍的に見えるかも知れない。だからイエノイエからハコハコに移動ってのも良いかなと。

笑ってもらえるかなと思ってたんだけれど、だめか!

2008/10/19

中間報告提出



あまり変更せずに中間報告を提出した。
したところで、また新しい案が浮かぶ。
どうせそんなものだ。

2008/10/18

建築の世界 スクーリング 1日目

「建築の世界」と言う壮大な名前のスクーリング1日目が終了。
このスクーリングは3日間とも先生が違うのだそうだ。

今日は一番若手のI先生。
午前中は近代と現代の建築史の講義、午後はそれを実際に見に行くと言うもの。
建築史はその名の通りの科目が別にあるが、近代から現代に絞った、しかも日本のみについてであれば書籍にもあまり無い内容で勉強になった。

ところで、最後に800字程度のレポートを書いて提出したが、その内容はだいたいこんなもの。

建築を体験するには、ほとんどの場合外からになる。遠くから全体を眺め、徐々に近づくと正面玄関がクローズアップされその他の部分は視野の外に出て行く。ステップを登るとそこから内部が始まるのだなと感じ、さらに内部のに入りその暖かい空気を吸うことで完全に中を感じることになる。

我々日本人の初めての西洋の文化や建築の体験もそれと同じようであったのであろう。擬洋風の時代の建築ではまず西洋を外から眺めてのものであり、外の建築となっている。その後の前川國男の時代まで下るとその中身の建築になっていき、前川建築の前半と後半においてもさらに中の建築になっていく。
........なんとかかんとか......


見直さずに出してしまったが、うまく書けていたかどうか?

中間報告の下書き 3




説明文については、古い言葉だが"中間領域"と言うものの検証に絞ってみた。タイトルについてもまだ変更の可能性大。模型と図面については新しいものが間に合わない可能性があるので以前のもの。

2008/10/16

路線変更モデル3





駅側の仮想中心点から引いた放射状のラインを分割して波を作り出したもの。
どう見えますか?

路線変更モデル2 簡易模型


南側のさいか屋ビルより。

東側路上より。

東側。

全景。

一応お約束の模型による検討。スケールは1/2000で型紙はCAD図。
何か連想できたら教えてください。

2008/10/15

路線変更モデル2




今回は少しサイズを気にして作ってみた。

追加
早速反省点あり。
床面の模様が単なるデコレーションになっていて、構造などに何も関係ない。

2008/10/14

パノプティコン

監視社会論 - 再考(1) -GLOCOM(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター)

パノプティコン -Wikipedia


磯崎新の60年代建築の中でメタボリズム期のメガストラクチャー作品の解説に出てきた"パノプティコン"を調べていた中で気になった資料。

磯崎氏は都市を覆うようなメガストラクチャー「空中都市計画」で、樹状体から横方向に成長した錯綜体を構成しようとしたのであるが、どうしてもコアに集中が生じて錯綜とはならない。そこでパノプティコンにヒントを得たわけであるが、パノプティコン本来の機能に着目したのでは全くない。その監視ポイントである中心部分を取り去り、しかも周囲の視線を中心から逸らす事を可能にして、どこまでも中心の無い視線の錯綜するものを考えている。こうなるともうパノプティコンとは呼べないようであるが、他者の視線を意識することに関してはかえって現代的な解釈と交差となっているようだ。

これは単に資料として。