2007/11/09

古代都市の比較



西洋と東洋の代表的な古代都市を比較してみた。
都市計画のや参考資料ではその構成の概要しか説明されていないが、この違いを説明するには各々の政治体制や人々の生活、信条を調べる必要があるであろう。正直、そこまで手が回らない。


ただ、古代日本については以前に建築史の中で述べたように、この時代の政治が家族親戚を増やして勢力を拡大すると言った経営方法であったので、心配すべきは外敵よりも一族郎党のいざこざの方であった。そのため都城の外部に城壁を築く必要は感じられなかったのであろう。

中国の場合は陸続きに全く違う民族や部族が存在していることにより城壁は必要なのである。
城壁の面ではギリシャもローマも中国も同じであろう。

さて、ギリシャとローマの都市は似ているようで少し違う。ギリシャではアクロポリスと言う神聖な場所が市民の生活の中心とは少しだけ離れた高い位置にあったのであるが、ローマではそれが中央広場に移っている。

ギリシャもローマも王政から共和制、民主制に移って行った。どちらも強大な権力を持つ一人の人間が支配するのではなく、どちらかと言えば皆で話し合いで物事を決めるようになった。その為に中心地に広場がある。

ではギリシャにアクロポリスがあって、ローマに無いのは何故か。宗教観の違いであろうか。これは誰かわかる人にご教授願いたい。



参考資料
「都市計画概論 第4版」加藤晃 共立出版
倫理思想史電子ノート -立川察理

「近隣住区論」 クラレンス・A・ペリー

都市計画学を勉強している。


クラレンス・A・ペリーのはそれほど難しい理論ではない。

行政区画(県、市、区といったもの)とは異なる小さなコミュニティと言うものが自然発生することに目をつけ、これを新しい街づくりに応用しようとする研究である。


(以下、「近隣住区論」の完全な要約ではない事に注意。)

原則として以下がある。

1.規模:適正な規模はどの程度であるか。
2.境界:規模と関係するもので、研究の主題が主に自動車を使用して移動する郊外の居住区であるために、近隣住区の外側は幹線道路で区切られることを前提としている。
3.オープンスペース:公園とレクリェーションのための空間の広さと位置について言及している。
4.店舗:店舗等の業務区域が徒歩で行ける範囲に必要である。もちろん自動車で移動する人たちを前提とするが、タバコや食料を買う程度は区域内でまかなう必要がある。
5.地区内街路体系:地区内を安全快適に移動するために通過車両を排除するなど。

この原則を適用した近隣住区による「新たなコミュニティ」を作り快適な生活を作り出そうと言うものである。



近隣住区には前提条件となる考え方がある。

1.育児期にある家庭の環境への要求を前提として考えている。
独身世帯はコミュニティのようなものよりも独立した周囲に干渉されない環境を好み、流動的であるが、結婚して育児期になるとそれ以前よりもはるかに多くを周辺環境に求めるようになる。また、子供が独立して夫婦2人の世帯になるとまた要求は変り、より独身時代に近くなる。現代はその時期の要求に合わせて住居を選ぶことができる。

2.居住地コミュニティが占める広さは、学校、運動場、その他の店舗サービスが効率良く運用される広さと完全に一致する。(調査より)よって、これらを一つに区分してまとめる事が可能と言う考え方に基づく。

3.近隣住区による新たなコミュニティは農村のコミュニティとは異なるものを意味する。職住分離によって現代社会にはコミュニティが消失しているが、これを回復することを目的としているが、あくまでも新しい形のコミュニティを提案するものである。



適正な広さ
子供が小学校まで徒歩で通う距離は1/2フィート(400)程度、約400~500m程度であり、他のサービスも同程度である事が分かっているので、小学校を中央に配置し、そこから半径400~500mの範囲である。
同じく地域コミュニティ施設は中央に配置するが、小学校の建物が兼ねてもよい。

公園とレクリェーション施設の配置
小学校の校庭が子供のための公園を兼ねることもできるが、概ね地区面積の10%が必要なのでこれを校庭でまかなうと広くなりすぎる。また、子供が遊びに出る距離は1/4フィート(200m)程度であるので公園を分散して配置する。

商業施設配置
商業施設は住居から見えない位置にまとめる。また隣の近隣住区の商業施設と向かい合うように配置することで一体化させる。住区の隅部となる。


日本にては既存の居住地域にこれを全て適用する事は不可能であると考えられるが、小学校やコミュニティ施設の配置を決定するなど、部分的には使用できる可能性はあるだろう。しかし、日本では家を流動的な資産と見なせない場合もあり、また都市部では集合住宅も多くなっているなど、条件が異なるためこの理論を適用するにはさらに調査が必要であろう。またこの方法でコントロールする法的根拠の問題もあるだろう。



コントロール
都市計画が必要な理由は、インフラ整備コスト(税金から)の問題であったり、快適性や安全性、景観その他いろいろあるだろう。自宅の近所に風俗店があるのは子供の教育上良くないのであるが、本音ではオネエちゃんのいる店で仕事帰りに一杯やりたいのが人情であるから、それをコントロールしなければならないと言うことになりそうだ。前回書いた六本木ヒルズでも同じビル内に赤提灯があっては資産価値が落ちるし、ステイタスとはならないから困るのであろうが、やっぱり新橋のガード下のモツ鍋が落ち着くから無くさないで欲しいわけだ。そう言った本音と建前をコントロールするのも都市計画であろうか。



参考資料
「近隣住区論 新しいコミュニティ計画のために」クラレンス・A・ペリー 鹿島出版会

新春講演会 at 神奈川県立川崎図書館

現在、神奈川県立川崎図書館の2Fでミニ展示「美 in 日本建築」をやっている。

ミニ展示なのでわざわざこのために見に来るほどのものでは無いが、こう言う企画はうれしいものである。ブルーノ・タウトが桂離宮を見て描いた水墨画風スケッチ(見て描いたものではないから正確にはスケッチではない)のコピー、数奇屋を現代に再現した京都迎賓館の写真も大きく展示している。関連図書の展示も多い。日本文化生涯学習振興会21からの提供ビデオ「数寄工匠」「利休幻の茶室」を小さいテレビだが随時上映していてイスもある。

加えて、来年1月13日(日)に同2Fホールにて神奈川大学工学部教授 西和夫氏 による新春講演会「日本の建築空間-数奇なる精神を踏まえて」が開かれる。

申込みは下記より。無料。
神奈川県立図書館

2007/11/08

安藤忠雄講演会に行ってきた



安藤忠雄の世田谷区民会館ホールで行われた講演会に行ってきた。
テーマは「世田谷・東京~美しいまちづくりへ」。

講演の内容は、これまでに手がけてきた建築、東京オリンピック、東京湾のゴミの島を森に変えるなどの緑化の紹介とそれにかける思いを披露するものであった。建築そのものについての話でないのはやはり聴衆が一般人だからであろう。質疑応答も無かったのは残念。


話の中で「今の日本人は元気が無い」と強く言われていた。
よく言われる事でもあるが、産まれた時から何でも揃っていて何も困ることが無いから自分で考える必要も無いのだろうと。学校が終わっても塾や習い事が用意されていて考えなくてもやる事は多い。これでは勉強ができる優秀な人間はできるかも知れないが、自由に考えることができる人間にはならない。だからもっと子供が自由に考える時間を与えるべきだ、との事。


(ここから先は講演会での話ではない。)

本当にその通りだと思う。
学校では授業と授業の間に10分か15分の間があるが、その時間も学校の規則に縛られているし、まずもって塀を超えて外に出ることはできない。日本映画やテレビドラマの一場面に授業と授業の間の休み時間に学生が塀を超えて学校を抜け出す場面はよくある。つまり学校と言う枠の中にいる時には時間的にも空間的にも自由が無いし、それが日本では疑問の無い普通の状態と考えられていると言う事だ。学校の休み時間に起こった事故は学校の責任になるのもそんな枠があるからである。

逆から見れば、子供はそんな枠や大人に縛られているうちは何も考える必要はないと言うことだ。勉強しなさいと言われて勉強していればそれで良く、勉強しなければ「勉強しなさい」と言われる時間を耐えていれば良い。やりたくなくても運動会で走ったり動いたりして時間をやり過ごせば良いだけだ。それよりもっとしたい事を考える事なんて必要ではないのだ。

放牧場の羊のような生活である。



今、こうして通信の大学で学んでいて思う。(ここから話はかなり飛躍する。)

通信と言うのは、レポートや課題と試験しか無い。上で述べた普通の通学生の学校(小中学校や高校、最近は大学も似たようなものだが)のように決まった休み時間も毎週のスケジュールも無い。つまり結果だけ出せばそれで評価が決まる。「廊下を走ってはダメ」とか「スカートの長さはxxx」のような部分が無いのである。

放牧されている羊ではないから、勝手に放浪の旅に出てもそれはそれで良いのである。

この自由さが学問には必要ではないだろうか。義務教育であろうと何であろうと、隙間は自分でどうにかする。トイレに行く、本を読む、話す、絵を描く、走る、飯を食う、逆立ちしてみる、何か作ってみる。全部自分で用意して自分で勝手にやる。そう言う事が将来、勉強した内容を何かに活かす知恵になるのではないかと思う。自己マネジメントである。


これを建築で実現したらどうか。(また飛躍する。)

学校には教室しか無い。広い敷地に教室がいくつかポツリポツリとまばらに置かれている。廊下は無い。トイレ位はある。塀も門も無い。敷地は街に繋がっていて境目がはっきりしない。子供達は勉強の時間が来るとどこかの教室に入って授業を受ける。終わると教室を追い出される。次の授業まで好きな事をして過ごせば良い。自分のクラスの部屋も机も決まっていないから、教室には荷物を置いておく場所は要らないだろう。子供は学校に1日中いる必要は無い。必要と思う時に必要な教室にいれば良い。腹が減ったらどこかで弁当を広げて食べるか、近所の食堂かお菓子屋で食べ物を買う。次の授業の開始のベルが鳴らないので自分で何らかの方法で時間を確認する。授業開始時刻は先生が予め決めた時刻であってどの授業も一斉に始まったり終わったりするのではない。だからよくある時計塔のようなものは不要だ。晴れた日は川原の土手で授業が始まることもあるし、見学を兼ねて街のどこかに集合と言う事もある。受けるべき授業は先生に相談してできるだけ自分で選ぶ。高学年になれば特に自分で選ぶ。5年生でもわからないなら3年生の授業を受けても良いし、その逆も可だ。そうすると子供が相談に行く相談窓口になる建物も必要だろう。図書館も必要だ。但しこれは街の人も利用できるもの。運動会などは子供達が企画して先生や親や街の人たちを招待する形にする。夏休み冬休み土日は決められていない。自分と先生と親や家族の都合で休みたいときに休むようにする。


と言うわけで、安藤忠雄とは全然関係ない結論なのである。

2007/11/07

フランク・O・ゲーリーのギャラ公開

MIT、著名建築家フランク・ゲーリー氏を提訴 -CNN.co.jp

フランク・O・ゲーリー氏がMITに訴えられたとの報道があった。
排水トラブルや雨漏り、外壁のカビなどがひどく、設計上の欠陥との事です。

そんな事では驚かないが、この記事にはもっと驚くべき事がサラリと書かれている。
「MITのステイタ・センターは、(中略) 総工費3億ドル。ゲーリー氏へは設計費として、1500万円を支払った。」

計算してみると、
3億ドルx115円/ドル=345億円
ギャラが、何とたった1500万円であれば、
0.15億円÷345億円x100=0.043%

0.043% !!!

そんなに安いわけが無い。
絶対嘘だ。

と思って原語記事を検索してみた。
MIT alleges flaws in Gehry building

やっぱり1500万ドルの間違いだ。
きっかり"5%"である。

これでも安いかもしれないが。

2007/11/05

森ビルの街づくり

テレビ東京の「カンブリア宮殿」を見た。
今日のゲストは森ビルの社長、森稔氏であった。

森氏は再開発事業に関して「街を作っている」と言う。
この言葉を聞いたらこの番組を最後まで見ないわけにはいかない。
森氏の言う「街」とは何なのだろう、と言う疑問に答えてくれることを期待して見た。

再開発と言うとその土地に住んでいる住民から土地を買い上げて売れるビルなどを建築して転売するか、賃貸に出すと言うイメージがある。司会の村上龍も言っていたが、その通りのイメージである。

森ビルはそれに対して「街づくり」と言う。
戸建の家を上空に積み上げて密度を高くし、余ったところに緑地、診療所その他生活スペースと仕事場となるオフィスビルを建築する。職住近接した街となる。

ここまで聞くと必然的に思い出すものは、やはりあの人のあれだ。
ル・コルビュジエのヴォワザン計画である。概略、言っていることは同じである。ヴォワザン計画の場合は国が行う前提であるので規模は何倍も大きい。森ビルの場合はあくまでも一企業の行うものであるから規模はせいぜい六本木ヒルズまでである。しかし小さなパリ計画には違いない。ル・コルビュジエと似ているからと言うわけではないが、一理あると言わざるを得ない。


しかし、次の言葉には疑問を感じる。
村上龍「新橋のガード下の屋台でモツ鍋を食え。」に対して、
森稔「路地裏で酒飲んでるのは日本人だけですよ。」
つまり、日本人はそろそろもっと別の楽しみを探すべきであって、何時までもノスタルジーに浸っていてはいけないと言うことなのである。

そう、確かに世界を見ればこんなにだらしなく街で酔っ払っているのは日本人だけだ。その点は自分も外国を見ているので実感するものがある。それに東京に流れる時間は他の都市に比べて遥かに遅い。日本のビジネスマンは安穏としている。だから「いつまでそんな事しているんだ」と言いたい気持ちもよくわかる。

ただ、今それを一掃して東京を全て六本木ヒルズにしてしまったら、それで東京は楽しい街になるのだろうか。戦後や高度成長期からのいい加減な伝統らしきものでであっても、それはもう古いと言えるのは、あまりにも楽天的で成長や進歩や効率礼賛ではないのか。時間軸の進行方向には価値があってその反対には何の価値も無いとする一方向的な考え方である。


六本木ヒルズに赤提灯は無い。でもシャレたレストランはある。 1粒200円もするショコラティエが作るチョコレートショップはあるが駄菓子屋は無さそうだ。こう見ると何でもあるが皆ちゃんとしていて、全部検索可能なほどである。街によくあるいい加減な個人商売の店らしきものは一つも無いようだ。全ての部分が固定した機能を持ち過不足の無い環境を作り出している。


確かに六本木ヒルズは機能的には街かもしれないが、そのいい加減で中途半端でないところが逆に街のようではない。ル・コルビュジエの時代の近代都市計画が批判されたのは、街の成り立ちを無視した機能重視主義であり過ぎた事によるが、森ビルもまさにそうではないだろうか。人間重視をうたいながら機能重視主義となってしまうのは、計画者が神の視点から街を見ている事によるのではないだろうか。それは理想を実現することのできる者が考える街であって実際にそこに住む名も無き人々が考えた街ではないからだろう。


であれば、さて、建築家はどちらに近い人間として振舞うべきだろう。

受験票到着

11月17日の試験分の受験票3枚が到着した。

11月17日(土)
1時限 構造力学Ⅰ
2時限 建築材料学
3時限 都市計画学

試験まで約2週間、今日から試験勉強を始めることにする。

風の塔 伊東豊雄 その2



私が存在すら気付かなかった風の塔の周辺風景の写真を掲載しておく。

遠近感がわかり辛いが、バスターミナルの向こう側にありホテルの側壁や家電量販店の入り口よりはずいぶんと手前側に位置する。写真は駅側から撮影。下の航空写真を拡大すると位置を確認できる。


拡大地図を表示

最上段の写真は横浜駅から、つまり南東(航空写真の右下)方向から北西方向を撮っている。


自分が依頼されたらここにどんな換気塔を建てるだろうか?

2007/11/04

風の塔 伊東豊雄



横浜に寄ったついでに「風の塔」を見てきた。

横浜駅西口の正面にある換気塔である。

こんなに目立ち易い位置にあるのに、そして何十回も何百回もこの前を通っているにも関わらずこの塔を意識して見た事は無かった。テキストや伊東豊雄の研究のために参考書で見て始めてそこにそれが在った事に気付いた。

今日は少し明るいうちから暗くなるまで少しの間観察してみた。

明るいうちは単なる灰色の円筒である。堂々と聳えるシェラトンホテルと昼間でもギラギラした家電量販店に挟まれて全く目立たない。本当にこれが風の塔かと疑いたくなるほどに地味である。

辺りが暗くなり始めると少し光を放ちはじめたか、それとも周囲のネオンが反射して見えるのかわからないほど微妙に光り始める。まだ目立たない。

さらに暗くなると内部から明らかに青い光がちらつき始めた。少し経過すると今度は緑の光が漏れ始める。そうなるとパンチングメタルで作られている事がやっと判明する。そして外皮を支えるフレームもその他の内臓も全てが浮き上がって見えてくる。

それでもこの横浜駅周辺が明るいせいかあまり目立つとは言えない。
これなら気付かなくても当たり前かもしれない。



風の塔は周囲の風や気温によって光り方を変えるそうだ。
それをしばらく見ていたのであるが、それは一体何のためであるのかと言う事。風の吹き方や気温、それを光り方に変えて表示しても見ているこちらは特別楽しくも何ともない。自分だけかと思い回りを見てもこの塔を気にしている人は誰もいない。よくわからなくなる。

都市の情報を取り入れる。それに反応する事で逆に情報を発信する。しかしそれを誰も望まない、気にするほどの情報でないとしたならは、それは単なるノイズであろうか。ある人にとって有用で、ある人にとって無用であればノイズでも発信する可能性はある。飛行機の為の信号は飛行機を操縦する人にとってだけ有用だ。イタリアのブランド名は好きな人、その名を利用したい人にとっては有用であるが、興味のない人にはノイズである。

有用でないにしても楽しいなど、情動を煽るものである場合もある。
表情のあるロボットは入院中の人の心を癒すそうだ。自分の発信した情報(表情や声やしぐさ)に反応してくれるだけでもそれは情報として有用であろう。


風の塔が単なるコンクリートの筒であってもこの環境に与えるものは同じであったろうか。

逆にもっと積極的にこちらに何か発信してくれたらどうだろう。大きな音をたてたら強く光る。車が渋滞していたら赤くなる。駐車場が満杯なら青くなる。時々瞼(まぶた)を開いてこちらを見る。定時にベルを鳴らして時刻を教えてくれるようなものだったら。

しかしそう言うものは他にある。新宿の目、川崎アゼリア地下街入り口の人形が踊る時計、他にもいろいろある。ただ風の塔ほどフレキシビリティが無いのだが。フレキシビリティなら流れるネオンの広告塔や大きな映像を映せる新宿アルタのスクリーンはどうだ。逆に何もしてくれないのにそこにあるだけで良い、東京駅の銀の鈴はどうだろう。風の塔とどちらが良いか。


結局よくわからないままである。

以前、香港映画「2046」を見たが、この映画は叙情詩である。しかも個人的すぎるほどに個人的な詩なのである。それを表現するのに映画と言う技術を使って見せるのであるが、見せられた方はそれに対して特別何も無い。だから印象に残るものも無い。

この風の塔は「2046」と似ているのではないか。そう思った。
建築家の心情は、それを見ている多くの人間のそれとは無関係である可能性は大いにある。

2007/11/03

安藤忠雄講演会のチケットを買う

安藤忠雄講演会
「世田谷・東京~美しいまちづくりへ」

11月8日(木) 18:30~
世田谷区民会館ホール
1000円全席自由(チケットぴあ)
(11/3の昼少し前時点ではまだ200席以上空いていた。)

詳細は世田谷区のHP
(イベントカレンダーの11月8日をクリック)


安藤忠雄の建築については未だ研究だが、見た感じからは「どうなんだろう?」と思うものが多い。先日読んでいた黒川紀章の書いた本にも安藤建築について「どこで何を造っても同じように見える」との記述があった。確かにどれを見ても建築家の個性が見えるものになっている。

講演のお題が「美しい...」であるが、建築家の個性を表現する事と美との関係はどう解決されているのか。そして最近の建築家さんたちは東京に「美」と言う言葉を使わないようであるが、ここでこの言葉を使われるその意味を知りたいとも思う。

モダニズム時代の建築家であれば、都市の理想像に対するアプローチであったり、客観的な美のヒエラルキーを念頭に置いて建築する事もあったであろう。しかし、その後東京の都市の成り立ちを考えると必ずしもそれが当てはまらないと言う見解に達しているし、また別の見方をすれば「あきらめ」のようなものもあると思う。

そこに「美」と言う言葉を持ち込むのはどう言うことなのであろうか。期待したい。