2つ前の記事にある「東京建築さんぽ」(松田力著)を読んで見た。
通常であれば個々の建築物に関してああだ、こうだと言うものだけれども、こうして本になってかなりまとまった数を一堂に集めて見ていると個々に見ているのとはまた違った思いが浮かんでくる。
その中で一番思う事は、日本の近代建築は「学び」から出来上がっているのだと言うこと。
「東京建築さんぽ」の中に登場する近代のほとんど全ての建物は元々日本には全く存在しなかった形、構造、意匠、材料から造られている事がわかる。悪い言い方をすれば当時先を行っていた西洋の真似と解釈の産物だ。中身を立派な物に見せるための方法論、先進的に見せるための形、歴史あるものと見せるための意匠。それらは全てどこからか学んできて使うのでなければそう簡単に独自には作れるものではないし、そしてこれだけ多くの建築家が似たようにデザインできるものではないだろう。
先人は近代建築と言うものを学び、それを東京に吐き出したのだ。
ある者は「建築とはこうだ」=「建築は西洋の意匠を身にまとうべき」と学んだだろう。ある者は西洋の構造を学びその方法論で日本の意匠を再構成しようとしているように見える。いずれにしても真面目に何かを学んだ形跡の集大成が東京のように感じられる。
皮肉な言い方をしてしまえば、西洋の方法論を学んで日本の方法論から自由になったけれども、逆に別の狭い不自由に閉じこもってしまったと見えなくもない。もちろんそこから羽ばたいた巨匠達はいるにしても、多くは「学び」の罠にはまってしまっている。どうしてもそう見えて仕方がない。
さらに逆の解釈をすれば、まずは誰でも(どんな巨匠であっても)「学び」そして「真似」以外からそこに足を踏み入れる事はほぼ100%不可能と言うことでもあるだろう。
と、言うわけで「東京建築さんぽ」、著者の思いと全く別の読み方をするのも面白い。
もう1つ言えば、著者松田先生は愛知産業大学のスクーリング担当で年に数回程度学生に東京を散歩させる事になっているからそれに参加してみるともっと面白いと思う。
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(2021年~)
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コンテンツ概要
2009~2013年:建築物と建築についての雑記です。
2007~2009年:大学の課題に関するノートです。
2011/07/28
2011/07/03
先進の取組みと人の住み方
環境分野に先進的に取り組む9社と藤沢市がFujisawaサスティナブル・スマートタウン構想を発表 -Panasonic ニュースリリース
上のような取組みが本格的に始まる。
スマート・シティへの関心は高かったけれども日本ではなかなか大規模にそれを行うことはし難いと考えていた。が、ここへ来て大規模な工場跡地と言うオプションが与えられることによってそれがやっと現実味を帯びてきたようだ。この動きには誰でも多少以上の期待を寄せるものだろう。
さて、そんな当たり前のことは置いておいて、このニュースが各ニュースサイトで取り上げられているのだが、それを一目見ただけでがっかりさせられる部分がある。それは(ここに掲載しないが)完成イメージの画像だ。
予めロータリー状に通路を設定した残りの部分に芝生が敷いてあり、その上に屋根にソーラーパネルを乗せたほとんど似た形状の一戸建て住宅が配置されている。ソーラーパネルが乗っている以外は郊外の普通の新興住宅地に見える。
ソーラーパネルを別とすれば、残念ながらこうした光景はこのマレーシアにもほとんど同じものが見られる。マレーシアにはマレー系、中華系、インド系の3種類の別々の文化を持つ民族が暮らしているにもかかわらず、住宅開発は一様である。最近多くニュースで伝えられるのは中国の都市開発の構想図であるが、これも同じ。国家権力が強いので何も考慮せず道をまっすぐに引くことが可能であるし国民に対して"この家に住め"とも言える。
さて、日本でもこの時代になってまだそれが通用している。多くの人はこれに対して何の疑問も抱かない。スマート・シティ!すごいね、便利になって値段が折り合えば住みたい、で終わりだろうか?
供給する側も住宅を工業製品と捉えていて未だにこうした蜂の巣状に似たものを並べる発想しかできない。もちろん効率を無視するわけにはいかないが、同じものを並べるだけでしか効率の高さを実現できないのだろうか。そして各個人を統計上のどこかに属する1人としか認識できないのか、と疑問を感じるのである。
日本と言う国は格差が大きくなったと言われるが世界から見ればかなり均一である。そこに同じような大きさの同じような家を建てるとすれば似たような所得層の似たような家族構成の人が住むだろう。そんな事なら電力の使用量予測はこれまでのように各戸のメーターを毎月チェックすればかなり正確に予測は可能だろう。必要なサービスだってそれほど大きな違いがあるとは思えない。
最初から計画された街を作ってそこでスマート・タウン、それにどれほど大きな意味があると言うのだろうか? これを縦に積み重ねてビルにするならそれは森ビルなどがやっている事とそう変わらない。もっと変化と違いを追認しながら街造りをしていくべきではないのだろうか。
上のような取組みが本格的に始まる。
スマート・シティへの関心は高かったけれども日本ではなかなか大規模にそれを行うことはし難いと考えていた。が、ここへ来て大規模な工場跡地と言うオプションが与えられることによってそれがやっと現実味を帯びてきたようだ。この動きには誰でも多少以上の期待を寄せるものだろう。
さて、そんな当たり前のことは置いておいて、このニュースが各ニュースサイトで取り上げられているのだが、それを一目見ただけでがっかりさせられる部分がある。それは(ここに掲載しないが)完成イメージの画像だ。
予めロータリー状に通路を設定した残りの部分に芝生が敷いてあり、その上に屋根にソーラーパネルを乗せたほとんど似た形状の一戸建て住宅が配置されている。ソーラーパネルが乗っている以外は郊外の普通の新興住宅地に見える。
ソーラーパネルを別とすれば、残念ながらこうした光景はこのマレーシアにもほとんど同じものが見られる。マレーシアにはマレー系、中華系、インド系の3種類の別々の文化を持つ民族が暮らしているにもかかわらず、住宅開発は一様である。最近多くニュースで伝えられるのは中国の都市開発の構想図であるが、これも同じ。国家権力が強いので何も考慮せず道をまっすぐに引くことが可能であるし国民に対して"この家に住め"とも言える。
さて、日本でもこの時代になってまだそれが通用している。多くの人はこれに対して何の疑問も抱かない。スマート・シティ!すごいね、便利になって値段が折り合えば住みたい、で終わりだろうか?
供給する側も住宅を工業製品と捉えていて未だにこうした蜂の巣状に似たものを並べる発想しかできない。もちろん効率を無視するわけにはいかないが、同じものを並べるだけでしか効率の高さを実現できないのだろうか。そして各個人を統計上のどこかに属する1人としか認識できないのか、と疑問を感じるのである。
日本と言う国は格差が大きくなったと言われるが世界から見ればかなり均一である。そこに同じような大きさの同じような家を建てるとすれば似たような所得層の似たような家族構成の人が住むだろう。そんな事なら電力の使用量予測はこれまでのように各戸のメーターを毎月チェックすればかなり正確に予測は可能だろう。必要なサービスだってそれほど大きな違いがあるとは思えない。
最初から計画された街を作ってそこでスマート・タウン、それにどれほど大きな意味があると言うのだろうか? これを縦に積み重ねてビルにするならそれは森ビルなどがやっている事とそう変わらない。もっと変化と違いを追認しながら街造りをしていくべきではないのだろうか。
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