2013/03/29

過程

少し古い建築雑誌を国際交流基金の図書館でながめる。こうした図書に触れるのは本当に久しぶり。その時々で流行のようなものがあり、売れっ子の建築家がいて何か語っていたりする。新鮮に感じられる。


こうした雑誌が良いのは完成品ばかりでなく、その施工の過程も見られる事と言うのがある。自分で見に行く場合はどうしても完成したものを見る事が多いのだ。完成してからであるとその見事さばかりに気を取られてしまうし、完成後に建築家が語った言葉に惑わされてしまう。時として後から考えた事を言うような人もいるらしいから注意が必要。



ところで、今日見た雑誌の中にあった施工時の写真を3枚写してきた。いずれも完成後は樹木や草に隠されて見えなくなってしまう部分が写っている。

その隠れて見えなくなってしまう部分、施工時には作業員が歩き、物を運び、重機なども通る。その先、その中央に目的の建物ができる。完成後にその部分には芝や樹木が植えられる。何もなかったように。そして建築物は植えられた植物を介してその周辺の元々あった植物や環境と言ったようなものと"調和"する。

否、させられる? 多分、意に反して。意はあるか無いかわからないが。


こう言う部分はどう言うわけか、気になる。コンクリートの下に埋められた土の事はもう誰も気にしなくて良い。草の種が発芽しようとしまいと、その土地はもう建物の物であって彼らのものではない。土地は建物の見事さ、綺麗さ、立派さ、使い勝手の良さなどで評価されるようになる。

調和、はて?調和?どうもこの言葉、よくわからなくなってきた。

もし自分がここに住むサルだったら?もし鳥だったら?調和?感じるだろうか? 建物が評価されればされるほど、人間の原罪のようなものを感じる、と言ったら変に思うだろうか?