2021/09/27

リンクリストを再整備しました

 ブログの右側にあるリンクリストを再整備しました。リンク切れのサイト及び古くて有用性の無いサイトは削除、新たにいくつかを追加しています。

リンクの種類は以下の通り。

1) 建築系の知ってる人

2) 建築 読み物:定期的に更新されるサイトを主にしています。

3) コンペ情報

4) 建築物と建築家:実在の建築作品を検索できます。

5) 一般資料集:建築に関する一般知識の書かれているサイトです。

6) ツール情報:製作のためのツールと使用法です。

これらは随時追加更新していきます。

2013/07/04

わかりあえないことから

建築とは無関係の本だ。

建築と言うような事をするときにコミュニケーションはよく登場する。自分はその言葉の意味がよくわからないのでほとんど使う事がない。自分の中でどうしても定義ができないのである。

あまり他人の作品を批判したくはないので言いはしないが、コミュニケーションを促す目的で中央に円形の広場状の空間を設ける、そんな安易な作品は好きになれないのだ。




2013/07/01

Happy Mansion

PJにある古い集合住宅である。

1つの敷地に中規模の3棟、南北方向1列にアパートが建てられている。今時にしては珍しく敷地の周囲に柵が無い。であるからガードハウスも無い。北の棟の北面には広大な芝生地が平和に横たわっている。

この集合住宅が知られている理由はそうした外観によるものではない。外観にはあまり特徴はない。知られる理由は、KL近郊で最初に建てられたエレベーター付き集合住宅だと言う理由による。なるほど、レトロな雰囲気、とまでは言えないが古いエレベーターがある。

閑静な住宅地の中央にあるこの冴えない集合住宅は密集から来る息苦しさから、我々を救ってくれる何かである。その地上階にはなぜか小洒落たカフェや堅苦しさの無い食堂などが、まるで小枝を求めて飛んできた小鳥たちのように集い合う。








2013/05/13

かたち

最近、自分自身について気付いた事がある。

建物を見て、立方体、直方体、球、そうした完全な形またはそれをモチーフにした物に、"閉じた"と言う感覚を持つ。実際にそうした建物はとても多い。どこにでもあるマンション、デパート、役所のビル、駅など。

有名建築家の安藤忠雄氏の作品などはほとんどその類に見える。どうも、その表から見た面とその裏側の世界、それを面が区切っていて息苦しいように感じている。これは誰もがそう、と言う事ではなくて自分自身の主観の問題なのだ。

安藤作品のように面が平らでなくともそう感じるものもある。蓮の葉の上の水滴のようにその面の外側との接触を極力少なく保とうとする建物。敷地にポンと置いてさて、完成と言うようなもの、世の中にはそんなものがたくさんある。

たいへんに息苦しいのである。


少し前に、Bukit Bintangのモノレール駅が改装工事中であった。エスカレーターの乗降口が上部からヌルッと垂れてきていて、その周囲に細い鉄パイプの足場が設置してあるのが見えた。良いなと思った。

後で絵を描いてみた。中央にあるマス、それを取り囲む細い線。気にいるはずがどうもそうはならない。よく考えてわかったのは、エスカレーターの乗降口はダラリとして全く閉じてはいない。閉じていない形のまま、マスだった。自分で描いたのはそこが閉じた形で円に近いものだった。

それが息苦しくさせる原因だと言うことに思い当たった。なぜ、今までそんな事に気付かなかったのか、自分の事なのに不思議だ。そんなものなのか?

2013/04/07

マレーシアの工場建築

最近、マレーシアの工場の建て方には決まった様式があるらしいと思い始めた。

そう思ってみるとどの工場も皆、似ている。デコレーションを無視して観察するとほとんど同じ物のように見えてくる。日本で工場をいくつも見てきているが形も構成も様々で似ていると思った事はなかった。日本の工場は本当に生産するための場所でしかなく、作る物が違い、作り方に対する考え方が違えば皆違う。

マレーシアの場合は工場と言う様式があって、そこに生産を当てはめているかのように見える。さらには、何をどう作るかと言う事よりも、かえって『管理』と言う事の方を重視しているようにも見える。

マレーシアでは工場労働者と管理側にいるスタッフの地位に歴然とした差がある。近年では工場労働はバングラデシュ、ネパール、ミャンマーなどの出稼ぎ労働者。そして管理スタッフはマレーシア人である。理由は賃金の差である。

ここまで読んで、図を見ていただければそれがどんな意味かわかるのではないだろうか。マレーシアでは特に考える事なくこうした形式で工場が造られる。1つの会社の1つの敷地に工場が何棟になろうとも考える事なくスタッフ用の事務所が全面に取り付けられる。工場の中でどんな人たちとどんな人たちがどんな立場で働くかが想像できるようである。逆にここで何が作られるのか、それは想像しにくい。

2013/03/29

過程

少し古い建築雑誌を国際交流基金の図書館でながめる。こうした図書に触れるのは本当に久しぶり。その時々で流行のようなものがあり、売れっ子の建築家がいて何か語っていたりする。新鮮に感じられる。


こうした雑誌が良いのは完成品ばかりでなく、その施工の過程も見られる事と言うのがある。自分で見に行く場合はどうしても完成したものを見る事が多いのだ。完成してからであるとその見事さばかりに気を取られてしまうし、完成後に建築家が語った言葉に惑わされてしまう。時として後から考えた事を言うような人もいるらしいから注意が必要。



ところで、今日見た雑誌の中にあった施工時の写真を3枚写してきた。いずれも完成後は樹木や草に隠されて見えなくなってしまう部分が写っている。

その隠れて見えなくなってしまう部分、施工時には作業員が歩き、物を運び、重機なども通る。その先、その中央に目的の建物ができる。完成後にその部分には芝や樹木が植えられる。何もなかったように。そして建築物は植えられた植物を介してその周辺の元々あった植物や環境と言ったようなものと"調和"する。

否、させられる? 多分、意に反して。意はあるか無いかわからないが。


こう言う部分はどう言うわけか、気になる。コンクリートの下に埋められた土の事はもう誰も気にしなくて良い。草の種が発芽しようとしまいと、その土地はもう建物の物であって彼らのものではない。土地は建物の見事さ、綺麗さ、立派さ、使い勝手の良さなどで評価されるようになる。

調和、はて?調和?どうもこの言葉、よくわからなくなってきた。

もし自分がここに住むサルだったら?もし鳥だったら?調和?感じるだろうか? 建物が評価されればされるほど、人間の原罪のようなものを感じる、と言ったら変に思うだろうか?